KemaAkeの全国城めぐり
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吉田郡山城
よしだこおりやまじょう
別名 なし 毛利元就銅像と吉田郡山城
形態 山城
築城年と築城者 延元元年(1336)毛利時親
天文20年(1551)毛利元就
天正年間(1573~92)毛利輝元
主な城主 毛利氏
所在地(旧国名) 広島県安芸高田市吉田町吉田字郡山(安芸)
交通 ・吉田口駅から
JR芸備線 吉田口
↓備北交通[高田南部線] 吉田出張所行(約15分)
安芸高田市役所
↓徒歩(約5分)
安芸高田市歴史民俗博物館

・広島バスセンターから
広島バスセンター
↓広島電鉄[吉田線] 広電吉田出張所行(約1時30分)
広電吉田出張所
↓徒歩(約15分)
安芸高田市歴史民俗博物館
概要
鎌倉時代末期に地頭として吉田庄に土着した毛利氏が築城した中世山城。毛利氏代々の本城として毛利輝元が広島城に移るまでの約250年ほどの間、毛利氏の勢力拡大とともに拡張され郡山全体を要塞化した巨大山城となった。段々状に270以上の小曲輪を設けてはいるがわずかに堀切を使用しているのみで、横堀や竪堀を使用していないのが特徴。

-----------年表------------
延元元年・建武3年(1336)毛利時親が築城か
大永3年(1523)毛利元就が家督相続。吉田郡山城に入る
天文9年(1540)尼子晴久軍3万を毛利軍8000が籠城戦で撃退(吉田郡山城の戦い)
天正12年(1584)毛利輝元が郡山城の修築、城下整備を行う
天正19年(1591)毛利輝元が居城を広島城に移す
慶長5年(1600)関ケ原の戦いでの敗北により毛利氏が安芸を没収される
元和元年(1615)一国一城令で城が取り壊される
昭和15年(1940)国の史跡に指定される
現存遺構 普請:曲輪、堀、土塁
作事:なし
天守:なし
案内図など 現地案内図(2800x1800)
登城日 2025年3月22日
アクセス
吉田郡山城への公共交通機関でのアクセスはなかなか大変です。最寄り駅はJR芸備線の甲立駅ですが、安芸高田市歴史民俗博物館までは7キロ以上の距離があり、その後の山歩きも考えると徒歩での登城は現実的ではありません。
そもそも芸備線の本数が少なく、甲立駅からのバスもあるのですが本数は2時間に1便程度のため、タイミングを合わせるのが大変です。スケジュールが立て込んでいる場合は甲立駅、あるいは吉田口駅からタクシーを利用するのが現実的です。駅前にはタクシー乗り場がありますが、あらかじめ予約しておくことをおすすめします。
今回は私もタクシーを利用しました。甲立駅から安芸高田市歴史民俗博物館までの料金は3000円ほどでした。
感想
吉田郡山城は中世山城の見本のような城ですがとにかく巨大です。あまりに巨大なためすべての曲輪は把握されていないようで、整備されているのはごく一部の曲輪となります。とはいえ整備されているところはしっかりしており、登山道も歩きやすかったです。安芸高田市歴史民俗博物館から主郭部までは各所を見学しながらでも約1時間ほどです。
縄張り図を見ると戦国期に築かれた他の山城が堀切や竪堀を使用するのに対し、吉田郡山城ではこのような防御施設が皆無です。まだ全容が把握されていないとのことなのでどこかに埋まっているのかもしれませんが、主郭部付近でもそういったものは見られず古い時代の山城を踏襲しているのかと思いました。
周囲の平地も狭く、中国地方の覇者となった毛利氏が秀吉に降るまでここを本拠地としていたことが少々信じられません。主郭部付近には崩れてはいますが石垣が残っておりこれらは毛利輝元が築いたものと考えられています。輝元も当初は吉田郡山城に居城を続けるつもりが、秀吉が築いた近世城郭を目にして限界を感じたのかもしれません。
登城記
写真をクリックすると画像ファイルが表示できます。
1. 山麓部
郡山南側の山麓部は水堀と空堀に囲まれた御里屋敷と呼ばれる広大な曲輪で、毛利元就の屋敷などがあったとされています。御里屋敷跡は安芸高田氏の文化センターとなっており、安芸高田市歴史民俗博物館とは別の毛利元就の銅像や三矢の訓跡碑があります。
安芸高田市歴史民俗博物館はこの御里屋敷跡から少し外れた場所にありますが、吉田郡山城見学の拠点となっています。まずはここを見学し、案内図を入手して登山を始めるのがおすすめです。
大通院谷川砂防公園には毛利元就の火葬地があり、石垣で囲まれた中に栂の木が植えられています。毛利元就は元亀2年(1571)6月14日に御里屋敷で75歳で死去、6月20日にここで火葬されました。
安芸高田市歴史民俗博物館からは大通院谷川砂防公園、毛利一族墓所を経由して主郭部への登山道に入ります。
撮影場所1 安芸高田市歴史民俗博物館
安芸高田市歴史民俗博物館
毛利元就銅像と吉田郡山城
毛利元就銅像と吉田郡山城
安芸高田市歴史民俗博物館の毛利元就銅像。
撮影場所2 毛利元就火葬場跡
毛利元就火葬場跡
大通院谷川砂防公園
大通院谷川砂防公園
吉田郡山城駐車場はここにある。背後に主郭部を望む。
撮影場所3 毛利元就銅像
毛利元就銅像
安芸高田市歴史民俗博物館のものとは別の場所にある銅像。
撮影場所4 三矢の訓跡碑
三矢の訓跡碑
2. 毛利一族墓所周辺
大通院谷川砂防公園の奥にはかつて郡山山麓の南側を囲んでいた内堀の一部が検出されています。郡山伝通院谷の東側山裾に沿って約100メートルを検出した断面がV字型の薬研堀で、ここを起点に南側に掘りが続きいていました。毛利元就・輝元時代に造られたと考えられ、薬研堀の発掘調査例では国内で最も長いものです。
薬研堀の近くの鳥居を潜って緩やかな山道を登ると毛利一族の墓所があります。毛利一族の墓所は城内や城下にあったそれぞれの墓を明治2年(1869)に移葬したもので、かつての洞春寺跡に位置しています。郡山城を築城した時親、元就の兄興元の墓などがあります。
毛利一族の墓の奥にはひときわ大きな毛利元就墓所があります。毛利元就の墓は移葬されたものではなく当初からのもので、毛利氏がこの地を離れた後も浅野氏や長州藩によって保護、整備がされました。墓は神式で墓石はなく、墓標樹としてハリイブキが植えられました。しかし文政12年(1829)に頼山陽が墓を訪れたときにはハリイブキはすでに枯れており、現在は跡に育ったシラカシが支える形かろうじて残っています。
毛利一族の墓から奥に進むと徐々に勾配が急になり本格的な登山道となります。しばらくすると説明板はありませんが堀切らしき遺構を見ることができます。
撮影場所5 内堀(薬研堀)跡
内堀(薬研堀)跡
毛利一族墓所入口
毛利一族墓所入口
撮影場所6 毛利元就墓所
毛利元就墓所
撮影場所7 毛利元就墓所付近の堀切
毛利元就墓所付近の堀切
3. 御蔵屋敷跡
御蔵屋敷は兵糧蔵跡といわれ、勢溜の段と釣井の段、二の丸の間に位置する上下二段からなる曲輪です。上段は20メートル四方の規模で二の丸から7メートル下、下段は30メートル四方の規模でさらに5メートル下となります。上下段のいずれも石垣で囲んでいましたが、現在もその一部が一国一城令により崩された常態のまま残されています。崩された石垣の上に生えた木の根の奥には裏込が残っており、その光景は密林に埋もれた遺跡のようです。下段は南からの登城路の正面にあたり、下段西側の通路から見ると延べ高さ10メートル以上の三段の石垣がそびえていました。
撮影場所8 御蔵屋敷跡
御蔵屋敷跡
下段から上段側を向いて撮影。上段南側には崩された石垣が残る。
崩された石垣
崩された石垣
崩された上段の石垣。築石か裏込かは判然としないが石材が散乱している。
木の根の奥に残る裏込
木の根の奥に残る裏込
木の根の奥に裏込が残っている。
御蔵屋敷跡説明板
御蔵屋敷跡説明板
4. 釣井の壇
釣井の壇は御蔵屋敷の北に位置する長さ75メートル、幅15メートルの長大な曲輪で、本丸のある郡山山頂から放射状に伸びる尾根筋の一つに位置します。直径2.5メートルの石組井戸があり本丸に最も近い水源となっていました。この井戸は現在埋もれてしまい深さは4メートルもなく水は湧いていませんが、掘り返せばかつてのように水をたたえると考えられています。
釣井の壇
釣井の壇
左側に由来となった井戸が写る。
釣井の壇から本丸を見る
釣井の壇から本丸を見る
上部には崩された石垣が残る。
撮影場所9 釣井の壇虎口
釣井の壇虎口
虎口は小さいながらも折れがあり石垣も比較的残っている。
釣井の壇説明板
釣井の壇説明板
5. 二の丸跡
二の丸は御蔵屋敷の東に位置する東西36メートル、南北20メートルの本丸の直下に位置する曲輪です。説明板を見ると御蔵屋敷からの虎口に折れがあるように見えますが全体的に崩れており不明確です。
部分的に礎石が残っておりその間隔は2メートルほどあります。石垣の痕跡は南の三の丸側(高さ3.5メートル~5メートル)と御蔵屋敷側にありますが一国一城令により崩されたものと考えられます。
撮影場所10 二の丸跡
二の丸跡
奥の高台が本丸跡となる。
二の丸跡説明板
二の丸跡説明板
6. 本丸跡
本丸は二の丸の北、標高390メートル、比高約190メートルの郡山山頂に位置する約35メートル四方の曲輪です。資料によると毛利元就と輝元はここに居住していたとみられています。北端の一段高くなった場所は櫓台と呼ばれ、礎石と思われる石列が残っています。輝元の時代にはここに三重三階の天守が築かれたともいわれ、江戸時代に作成された絵図にも本丸に三重天守が描かれていますが、これは想像のもので天守はなかったというのが定説となっています。
本丸~三の丸の周辺からは高級な中国製青磁を含む貿易陶磁や土質時などが見つかっており、16世紀後半には儀式や接客空間を持つ城の中心的施設があったことがうかがえます。
二の丸跡から見た本丸跡
二の丸跡から見た本丸跡
本丸跡から見た本丸跡上段
本丸跡から見た本丸跡上段
撮影場所11 本丸跡上段
本丸跡上段
礎石と思われる石列が残る。
本丸跡説明板
本丸跡説明板
7. 三の丸跡
三の丸は二の丸の南に位置する東西40メートル、南北47メートルの城内最大の曲輪で、石垣や石塁により東段・南段・西段の3つに分割されています。
東段には礎石が見られるほか、多量の瓦が見つかっており瓦葺建物があったと考えられています。西段は南段とは石塁、東段とは高さ1.5メートルの石垣で区画され、御蔵屋敷、二の丸とへの出入り口となっています。三の丸の南側、大手道沿いには石垣下部が残っています。
撮影場所12 三の丸跡
三の丸跡
撮影場所13 三の丸石塁跡
三の丸石塁跡
三の丸下通路の石垣
三の丸下通路の石垣
大手道の石垣下部が残っている。
三の丸跡説明板
三の丸跡説明板
8. 勢溜の壇跡
勢溜の壇は本丸から南西へ長く伸びる尾根を堀切で区切って独立させた十段の大型の曲輪で構成されています。比高差約1メートルの曲輪を四段連ね、その先にこれらを取り巻く帯曲輪を三段、さらにその先に付曲輪を加えています。東南方面の大手、尾崎丸方面への防御を重視しており、現在の登山道が当時と同じであれば攻め手は左上に位置する勢溜の壇の曲輪群から攻撃にさらされ続けることになります。
勢溜の壇跡
勢溜の壇跡
勢溜の壇跡
勢溜の壇跡
山頂方面を向いて撮影。曲輪間の切岸は長い年月を経て失われているが、徐々に高くなっていくことが確認できる。
撮影場所14 勢溜の壇跡からの眺め
勢溜の壇跡からの眺め
現在は山全体が樹木に覆われているが、勢溜の壇跡の先端は眺望がよく吉田の街を一望できる。写真中央は江の川で、写真右上が広島方面。
勢溜の壇跡説明板
勢溜の壇跡説明板
9. 尾崎丸堀切
尾崎丸は毛利元就の嫡男、隆元の居所があったとされる曲輪です。万願寺仁王門のあった峰とは堀切で隔てられ、現在の吉田郡山城では珍しい堀切の跡を見ることができます。
撮影場所15 尾崎丸堀切
尾崎丸堀切
尾崎丸堀切
尾崎丸堀切
10. 毛利隆元墓所
毛利元就の嫡男、隆元は天文15年(1546)に24歳で家督を相続したが、永禄6年(1563)に41歳で急逝し、菩提寺として吉田郡山城南山麓に常栄寺が建立され、正親町天皇執筆の「常栄広刹禅寺」の額が掲げられました。 後に常栄寺は山口に移りましたが、墓所は残され現在にいたります。父元就と同様に神式の墓となっており、周囲の石積はいつ頃のものかは不明ですが、吉田郡山城周辺で見ることができる数少ない良好な常態の石積となっています。
撮影場所16 毛利隆元墓所
毛利隆元墓所
墓所周辺の石積
墓所周辺の石積
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