KemaAkeの全国城めぐり
KemaAkeの全国城めぐり
大阪城
おおさかじょう
別名 錦城、金城 西の丸から見た天守
形態 平山城
築城年と築城者 天正11年(1583)羽柴(豊臣)秀吉
元和6年(1620)徳川幕府
主な城主 豊臣氏、徳川氏
所在地(旧国名) 大阪府大阪市中央区大阪城1-1(摂津)
交通 JR大阪環状線「森ノ宮駅」「大阪城公園駅」、大阪メトロ谷町線・中央線「谷町四丁目駅」
いずれも徒歩すぐで大阪城公園。大手門最寄りは谷町四丁目駅の9番口
概要
瀬戸内海と淀川の接続点に位置する水運の便に恵まれた摂津国上町台地の石山本願寺跡に羽柴(豊臣)秀吉が築城。大阪夏の陣により落城するが徳川幕府によって豊臣氏時代を上回る規模で再築城工事が行われる。
豊臣氏時代から石垣や城域の広さは全国屈指の規模であり日本を代表する近世城郭となる。
明治時代から昭和初期にかけて城域のほとんどが軍用地として使用されるが、その後大阪城公園として整備され現在に至る。

-----------年表------------
●安土桃山時代
天正11年(1583)羽柴秀吉が築城を開始
天正13年(1585)五重六階、地下二階(異説あり)の望楼型天守が完成
慶長4年ごろ(1599)総構までの拡張工事が完了
●江戸時代
慶長20年(1615)大阪夏の陣により落城
元和6年(1620)徳川幕府が再築城工事を開始
寛永3年(1626)五重五階、半地下一階の層塔型天守が完成
寛永6年(1629)再築城工事が完了
寛文5年(1665)天守が落雷により焼失
●明治時代以降
明治元年(1868)火災により城内の大半の建物が焼失
昭和6年(1931)鉄筋コンクリート製の復興天守が完成
平成9年(1997)復興天守が登録有形文化財に指定される
遺構 普請:曲輪、空堀、水堀、石垣
作事:大手門、千貫櫓、乾櫓、一番櫓、六番櫓、金蔵、焔硝蔵、金明水井戸屋形
天守:鉄筋コンクリート製、昭和6年(1931)築の復興天守
案内図など 案内図(3400x3400)
登城日 2023年10月12日
過去の登城記 2010年11月13日
アクセス
大都会大阪のど真ん中に広大な城域を有するため、交通網は充実しておりアクセスは簡単です。
大阪城公園の周囲にはJR森ノ宮駅、JR大阪城公園駅、大阪メトロ谷町四丁目駅が位置しておりいずれも大阪城公園の目の前です。
大手から登城する場合は大阪メトロ谷町四丁目駅の9番口から徒歩5分ほどで二の丸大手門に到着します。
感想
「天下の名城」の二つ名に恥じない巨大近世城郭です。石垣、堀、櫓、すべてが異常な規模で徳川幕府の本気を見ることができます。城ファンでなくても一見の価値がある超弩級城郭です。
総石垣造りで堀から立ち上がる石垣の高さは最低でも10メートルはあり、最も高い本丸東面では水堀水面から24メートルの高さがあります。使用されている積石も大きく、特に隅石の大きさが目立ちます。大手門や京橋口門の桝形石垣には表面積が畳何十畳分にもなる石材が使用されており、蛸石、肥後石などと呼ばれ来る者を威圧します。
堀幅はおおむね40メートル以上、最も広いところでは90メートルもあり鉄砲での迎撃も難しくなる広さです。
残された二重櫓も諸大名の城の天守に匹敵する床面積、高さがあり巨大です。かつてはこのような二重櫓が14棟、さらに巨大な三重櫓が12棟も林立していたというのですから驚きです。ちなみに江戸城では二重櫓が10棟、三重櫓が6棟です。また、腰巻石垣や鉢巻石垣を多用していますが大阪城は完全に総石垣です。第一印象の威圧感、規模感は江戸城を凌ぐと感じます。
これらの石垣や堀、現存櫓だけでも一見の価値がありますが復興天守も立派なものです。最近は鉄筋コンクリート製の天守は偽物で価値がないといった風潮もあるようですが私はそう思いません。特に大阪城天守は全額が市民や企業の寄付によって造られた日本初の本格的鉄筋コンクリート製天守であり、大阪の人々の思いが造った新しい時代の天守です。
豊臣天守、徳川天守に続く三代目天守として、築90年ほどが経ち最も長命な天守として完全に大阪の顔となっています。登録有形文化財として価値も認められ、しっかりとメンテナンスをして長い年月が経てばいずれは国宝になるのではと思います。

なお、今回は混雑を避け会社を休んで平日に登城したのですが、朝9時に到着したにもかかわらずなかなかの人出でした。平日朝でこれなら休日はどれだけ混むのだろうと空恐ろしくなりました。コロナ後の旅行ブームでしょうか、海外の方が多かったです。
大手門や千貫櫓などの現存建物は何に何度か期間限定で内部公開されることがあるようですが、登城したときは秋の公開期間でしたがなんと土日祝のみの公開となっており、平日に行ったことが裏目に出てしまいました。ですがおそらく時間不足で全部は回りきれなかったと思うのでまた改めてということで。大阪城を堪能するのであれば冗談抜きで丸一日は必要だと痛感しました。

注意:江戸時代以前の大阪は「大坂」と表記していましたが本文中ではすべて現代表記にしたがい「大阪」としています。
登城記
1. 大手門
撮影場所1 外堀越しに千貫櫓と大手門を見る
外堀越しに千貫櫓と大手門を見る
大手土橋と大手門
大手土橋と大手門
高麗門と渡櫓門
高麗門と渡櫓門
枡形内から見た高麗門と雁木・土塀
枡形内から見た高麗門と雁木・土塀
土塀の石垣には石狭間が切られている。
枡形と渡櫓門
枡形と渡櫓門
渡櫓門正面
渡櫓門正面
三間三扉、両脇に潜戸を設け扉には鉄板を貼り付けている。
枡形の巨石(大手見付石)
枡形の巨石(大手見付石)
大阪城第4位の巨石。
渡櫓門背面
渡櫓門背面
手前の人物と比較すると石材の巨大さが際立つ。
二の丸南西に位置する大手門は大阪城主郭部正門にあたり、高麗門と渡櫓門で構成される典型的な桝形門でその規模は江戸城の諸門を超え全国最大です。高麗門、渡櫓門のいずれも嘉永5年(1848)に再建されたものです。
幅83メートルの外堀にかかる大手門土橋を渡ると正面に高麗門、枡形内で左に折れて渡櫓門が配置されています。二の丸の出隅に位置しているため、枡形の北と東の二面のみが城内と接し、南と西は城外に接しているため実際に枡形に射撃できるのは二面のみとなっています。桝形虎口は右に折れるのが理想とされていることから枡形門としては若干の欠点がある構造となっています。とはいえ渡櫓門の床面積は一般的な城の大手門の4倍ほど、枡形の面積は諸城の小型枡形の10倍ほどの面積があり多少の欠点を補って余りある威圧感があります。
枡形には表面積29畳敷きの大手見付石、23畳敷きの大手二番石などの巨石が使用されています。表面積に対して奥行きは薄いようですが、薄い石材を割らずにここまで運んできたということに驚かされます。
枡形門全体は外堀から立ち上がる高さ20メートルほどの高石垣上に位置しており、建物、石垣、堀のすべてが他城を圧倒する規模で、徳川幕府の大阪城にかける意気込みを感じます。
2. 千貫櫓
大手土橋から見た千貫櫓
大手土橋から見た千貫櫓
大手土橋から見た千貫櫓と大手渡櫓門
大手土橋から見た千貫櫓と大手渡櫓門
千貫櫓南面
千貫櫓南面
撮影場所2 二の丸から見た千貫櫓
二の丸から見た千貫櫓
大手門の左脇、大手土橋に横矢をかける位置に建つのが千貫櫓です。元和6年(1620)、徳川幕府による大阪城再築城工事初期に建てられたもので、乾櫓とともに城内に残る最も古い建物の一つです。
層塔型の二重二階櫓で一階は平八間、妻七間でその規模は高知城天守を上回り、階高も高く全国最大の二重櫓となっています。通常の櫓とは異なり二階には天井を貼り、軒唐破風を設けるなど格式が高くなっており、他の櫓とは異なった位置づけであったとも考えられます。
石山本願寺、豊臣大阪城にも同名の櫓があり、織田信長が石山本願寺攻めでその櫓からの攻撃に苦慮し「千貫門の銭を出しても奪い取りたい櫓だ」と言ったことから千貫櫓と呼ばれるようになったと伝えられています。大手門土橋に対して攻め手の嫌がる左側から横矢をかける位置にあり、由来のとおり徳川大阪城の大手門守備においても重要な役割を果たしています。
3. 六番櫓
外堀越しに見た六番櫓
外堀越しに見た六番櫓
六番櫓
六番櫓
撮影場所3 二の丸から見た六番櫓
二の丸から見た六番櫓
千貫櫓・大手門と六番櫓
千貫櫓・大手門と六番櫓
かつては写真中央に七番櫓が建っていた。
六番櫓は二の丸南面に位置し、大手門の右側に見ることができます。寛永5年(1628)に建造された層塔型二重二階櫓で、一階は平八間、妻七間と千貫櫓と同じ規模ですが、二階は千貫櫓よりやや狭くスマートな印象を受けます。
大阪城の二重櫓の多くは一階平側の出窓形石落し上部に千鳥破風、妻側の石落し形出窓には切妻破風を設けています。江戸城や二条城などの他の徳川系城郭の建物に見られる窓上下の長押形がないのも特徴ではないでしょうか。
江戸城や二条城といった徳川幕府系城郭では格式を高めるため、櫓や門も長押形を見せているのですが、大阪城にはこれがありません。西日本の中心となる大阪城でなぜ格式を上げなかったのか、同じく城代が管理する二条城とはどう違ったのか、不思議なところです。
4. 桜門
撮影場所4 高麗門
高麗門
蛸石
蛸石
振袖石
振袖石
桝形
桝形
本丸南面中央に位置する桜門は本丸大手に当たります。寛永3年(1626)に創建された高麗門と渡櫓門からなる内枡形門でしたが、建物は明治元年の火災で焼失しました。現在残る高麗門や土塀は明治20年(1887)に陸軍によって再建されたものです。桜門は位置は少し違いますが豊臣大阪城にも存在しておりそれを踏襲しています。
大手門と同様に登城者を威圧する巨石が用いられ、枡形正面の巨石は城内第一の巨石で、模様が蛸に見えることから蛸石と呼ばれています。表面積は36畳敷、重量約108トンと推定されていますが、奥行きは70〜90センチメートルほど(それでも十分厚いですが)であり城内の他の巨石と同様に板状となっています。枡形左側には振袖石と呼ばれる城内第三位の巨石があり、表面積は33畳敷となっています。
徳川幕府は豊臣氏時代の痕跡を消すために大阪城を再築城工事で徹底的に作り替えたと言われていますが、桜門や千貫櫓、極楽橋など豊臣氏時代からの名前を踏襲しているものも多く、規模こそ一回り大きくなっていますが基本的な縄張りもほぼ豊臣氏時代のものを踏襲しています。このことから最近は大阪城再築城は徳川幕府が豊臣氏の正当な後継者であることを示すことを目的としたという説も出てきました。
5. 金蔵
撮影場所5 金蔵
金蔵
背後の建物は旧第四師団司令部庁舎をリノベーションした商業施設、ミライザ大阪城。
金蔵正面
金蔵正面
両脇のフェンスは豊臣氏時代の石垣を公開するための施設工事のもの。
金蔵背面
金蔵背面
金蔵側面
金蔵側面
ミライザ大阪方面に続いていた長屋をもとに改造された。
天守の南東に位置する全国で唯一現存する城郭の金蔵で、いかにも蔵といった海鼠壁造りとなっています。宝暦元年(1751)にこの場所から南に伸びていた長屋状の建物を切断・改造したものです。
内部は大小二室で手前の大きな部屋には通常の出納用、奥の小さな部屋には非常用の金銀を置いていました。床下は全て石敷き、入口は二重の土戸と鉄格子戸の三重構造、窓は土戸と鉄格子、床下の通気口にも鉄格子をはめ防災と防犯に工夫がこらされています。
周囲で発掘で見つかった豊臣氏時代の石垣を公開するための施設工事をしており、これらのフェンスの影に隠れるようにひっそりと佇んでいました。天守や櫓に比べると地味ではありますが全国唯一の城郭現存金蔵ということで貴重な建物です。
6. 本丸
撮影場所6 月見櫓跡
月見櫓跡
撮影場所7 糒櫓跡から青屋門方面を見る
糒櫓跡から青屋門方面を見る
撮影場所8 南西隅櫓跡
南西隅櫓跡
多門櫓跡
多門櫓跡
南西隅櫓跡から北に続く多門櫓跡。
かつては大阪城本丸の内堀に面したほぼすべての隅部に三重櫓が設けられその数は11棟に上り、質量ともに全国一でした。さらに櫓と櫓の間は長大な多門櫓で結び防御を固めていました。
これらの櫓は残念ながら明治元年の火災により全て焼失しましたが、本丸を縁取り、三重櫓や多門櫓の土台となっていた石垣は今も見ることができます。多門櫓跡の石垣にはところどころに大きな雁木も残っています。
これら三重櫓跡を歩いてみるとその平面規模は千貫櫓や六番櫓とあまり変わらないように感じます。これは言ってみれば千貫櫓や六番櫓といった大阪城二重櫓の平面規模が三重櫓並であり、いかに規格外の巨大さであったかを示していると思います。
7. 天守
南から見た天守
南から見た天守
大入母屋破風
大入母屋破風
南西から見た天守
南西から見た天守
撮影場所9 紀州御殿跡から見た天守
紀州御殿跡から見た天守
紀州御殿は和歌山城二の丸御殿を移築したものだったが、昭和22年(1947)に進駐軍の失火により焼失。
山里口出枡形から見た天守
山里口出枡形から見た天守
撮影場所10 西の丸から見た天守
西の丸から見た天守
手前の内堀は水堀と空堀の境界部分となる。
天守上重部
天守上重部
最上階の虎や鶴の彫刻は豊臣天守の意匠を再現したもの。
撮影場所11 西の丸から見た天守
西の丸から見た天守
手前最下段の石垣は隠し曲輪のもの。
撮影場所12 天守台北東隅に残る爆撃跡
天守台北東隅に残る爆撃跡
昭和20年(1945)8月14日の空襲では、天守の北数メートルに爆弾が落ち、爆風で天守台石垣がへこんだ。
三重目大入母屋の鯱
三重目大入母屋の鯱
金明水井戸屋形
金明水井戸屋形
井戸は水面まで約33メートルの深さがある。
金明水井戸屋形の懸魚
金明水井戸屋形の懸魚
・初代天守(豊臣天守)
初代天守は豊臣秀吉が天正13年(1585)に建てたもので現在の天守より北東に位置していました。
初重と二重目を同大とし二重目、三重目の屋根はそれぞれ向きを変えた入母屋破風を設けた望楼型天守でした。外壁は下見板張で柱を見せる真壁造、板や柱は高級な黒漆塗、さらに朝廷から特別に使用を許された菊紋と桐紋の金箔貼り木彫を取り付けた装飾過多の非常に豪華絢爛なものでした。当然のように瓦にも金箔が押され、さらに下見板張上部の小壁は銀箔貼りだった可能性があるそうです。
豊後の大名、大友宗麟が秀吉に謁見した際に秀吉自らが天守内部を案内しており、その記録から内部は地上六階地下二階と推測されています。この記録によると内部も外観同様に豪華絢爛で、金碧障壁画で飾られ、茶器や武具、組み立て式のベッド、組み立て式の黄金の茶室などが収められていたようです。
もっとも、豊臣氏時代の天守は発掘調査でも天守台も確認できず、大阪冬の陣図屏風、大阪夏の陣図屏風などいくつかの屏風に描かれたものから推測することになり、外見や内部構造も不明な点が多いというのが実情です。

・二代目天守(徳川天守)
二代目天守は徳川幕府による大阪城再築城工事で寛永3年(1626)に建てられたもので、現在の天守台に築かれました。五重五階半地下一階の層塔型天守で、豊臣氏時代の天守がそのまま収まるほどの規模で、図面も残されておりその様子を正確に知ることができます。
各階の規模は一階は平十七間・妻十五間、二階は平十四間・妻十二間、三階は平十一間半・妻九間半、四階は平九間・妻七間、五階は平七間・妻五間となっており、階が上がるごとに低減率が減っていきます。そのためか復元図を見ると幅に対して背が高いスラッとした印象を受けます。天守台を含めた高さは現在の復興天守より若干高い約58メートルで江戸城天守とほぼ同じでした。
外壁は白漆喰総塗籠で豊臣氏時代の天守が黒かったのとは対照的です。大阪城内の建物では唯一窓の上に長押形を設け格式を高めており、拡重にバランスよく千鳥破風を配置しています。三重目平側には向唐破風も設けられていました。
これらの意匠は徳川秀忠が築いた二代目江戸城天守とほぼ同じで、異なるのは三重目の向唐破風が出窓でなかった点だけです。このことから西日本における徳川幕府の出先機関としての大阪城の重要性をうかがい知ることができます。
二代目天守は寛文5年(1665)に落雷により焼失し、以後徳川幕府によって天守が再建されることはありませんでした。なお、天守と同時に小天守台に建てられた金明水井戸屋形は火災の延焼を免れ現在まで残っています。
ちなみに寛永15年(1638)に徳川家光が築いた三代目江戸城天守では、三重目妻側にも向唐破風の出窓を設け、外壁は高価な銅板貼りとしたため全体的に黒くなり、白漆喰層塗籠の白い二代目江戸城天守から大幅なイメージチェンジがされました。これは江戸城天守の格式をさらに高め、大阪城天守と差別化する意図があったのではとも思います。

・三代目天守(復興天守)
現在の天守は昭和6年(1931)に全額大阪市民からの寄付で築かれた全国初の本格的鉄筋コンクリート製の復興天守です。徳川時代の天守台に大阪夏の陣図屏風を参考に豊臣天守の外観をイメージして築かれました。令和5年(2023)時点で建造から92年が経ち大阪城では最も長命な天守であり、初期鉄筋コンクリート製の特殊な建造物として国指定登録有形文化財に登録されています。
豊臣氏時代の望楼型天守としては入母屋破風がすべて妻側にあるといった点は奇妙な造りですが、建築から約一世紀が経ち大阪城といえばこの巨大な入母屋破風といった印象が強いです。徳川氏時代の白漆喰層塗籠に豊臣氏時代の金箔瓦や虎、鶴の彫刻などを取り入れたその姿は大阪の顔として定着しています。
鉄筋コンクリート製というのが実は重要で、重要文化財や国宝を展示する施設は防火対策などに厳しい基準があり、木造復元天守や現存天守ではこれらの要件を満たすのが難しいです。大阪城天守は改修工事によって防火性も十分であるとして天守としては全国で唯一、重要文化財や国宝を展示できる公開承認施設に指定されています。この後しっかりとメンテナンスを行い年月を重ねればいずれは国宝に指定される日もくるのではないでしょうか。鉄筋コンクリート造だからといって毛嫌いしてほしくない名建築といえます。
8. 姫門跡・山里口出枡形・隠し曲輪
姫門跡
姫門跡
撮影場所13 山里口出枡形
山里口出枡形
中央の石垣の切れ目が隠し曲輪への唯一の出入口となっている。
撮影場所14 隠し曲輪から見た天守
隠し曲輪から見た天守
隠し曲輪から見た内堀
隠し曲輪から見た内堀
南を向いて撮影。内堀は南側が空堀、北側は水堀となっている。
天守北側の山里丸へ続く通路は本丸の搦手です。山里丸から本丸へ入るためには山里口出枡形、姫門、姫門枡形、仕切門を突破する必要があり、本丸大手である桜門とは異なり(大阪城としては)小さな門と通路の折れで敵の勢いを削ぐようになっていました。
山里口出枡形の西には間口1.8メートルほどの石垣の切れ目があり、隠し曲輪と呼ばれる小さな帯曲輪に続いています。出枡形に侵入した敵を不意打ちするための兵を置いておく曲輪で、幕府の焔硝蔵が置かれていた時期もあり立ち入りが厳しく制限されていました。そのためか城外への秘密の抜け穴があるという伝説も生まれました。
これらを考えると大阪城は大手より搦手の防御を重視していたように感じます。こちら側のほうがより西国や京都に近く搦手からの敵の攻撃を想定していたのかもしれません。
9. 山里丸
山里丸から見た天守
山里丸から見た天守
スロープの上は山里口出枡形となる。
山里口門
山里口門
極楽橋から続く左折れの内枡形虎口となっている。
山里丸から見た極楽橋
山里丸から見た極楽橋
撮影場所15 極楽橋と天守
極楽橋と天守
山里丸は本丸の北側に位置する曲輪で本丸とともに内堀に囲まれており広義には本丸と言えます。本丸からは10メートルほど低く、本丸大手の桜門は緩やかな坂となっていますが、搦手である山里曲輪からは階段(現在はスロープに改修されている)を登る必要があります。これは大阪城が上町台地に位置しており、このあたりがちょうど台地の北端にあるためです。
豊臣氏時代には山里の風情をかもし出すくつろぎの場として千利休が設えた茶室があり、秀吉死後は秀吉を祀る豊国社も築かれました。大阪夏の陣では淀殿・秀頼が山里丸で自害したと伝えられ豊臣氏滅亡の場所となり、平成9年(1997)には慰霊碑が建てられました。
徳川氏時代には大阪城代用の官舎や櫓が建てられくつろぎの場ではなくなりましたが、曲輪名は踏襲されました。
内堀に架けられた二の丸と山里口門をつなぐのが極楽橋で、こちらも豊臣氏時代の名前を踏襲しています。豊臣氏時代は豪華な屋根をかけた廊下橋であったという説もあり、琵琶湖に浮かぶ竹生島の宝厳寺唐門がその一部ではないかとも言われています。
大阪城本丸は大手桜門は絶対に落ちない土橋、搦手山里口門は木橋という築城のセオリー通りになっています。
10. 青屋門
撮影場所16 青屋門正面
青屋門正面
かつては左右に多門櫓が続いていた。
青屋門背面
青屋門背面
青屋門外枡形
青屋門外枡形
青屋門外枡形石垣
青屋門外枡形石垣
現在は枡形が土橋のように外堀を遮っている。
二の丸北東に位置する青屋門は大阪城主郭部搦手にあたり大阪城唯一の外枡形門です。現在は外枡形が土橋のように外堀を埋めていますが、かつては外枡形を囲む堀が存在しました。徳川氏時代にはこの堀に算盤橋(ひっくり返した算盤を前後に動かすような可動式の橋)が架けられ、普段はこの橋を引っ込め青屋門も締め切ったままで非常時以外は使用されませんでした。
現在残る櫓門は切妻造りとなっていますがこれは明治元年の火災で被災したものを陸軍が改築し、さらに空襲で大破したものを昭和44年(1969)に残存部材を用いて再建されたものです。かつては両側に多門櫓が続いていました。枡形部分も土塀で囲まれていましたが、堀に突き出た外枡形ということで実際に枡形に射撃できるのは櫓門からの一面のみで防御力としてはあまり高いものではありませんでした。
11. 内堀と本丸東面の高石垣
撮影場所17 北東から見た高石垣
北東から見た高石垣
かつてはこの画角内に4棟の三重櫓がそびえていた。
高石垣
高石垣
かつてはこの画角内に3棟の三重櫓がそびえていた。
撮影場所18 南東から見た高石垣
南東から見た高石垣
幕末に撮影された写真とほぼ同じ画角で撮影。かつてはこの画角に3棟の三重櫓がそびえていた。
内堀南側の空堀
内堀南側の空堀
右端石垣隅に三重の東南隅櫓があった。
本丸東面の石垣は大阪城内一の高石垣で水面からの高さは24メートルあり、内堀越しに見上げるその姿は圧巻です。ところどころにある屏風折れ部分にはかつて三重櫓が建っており、北から糒櫓、月見櫓、馬印櫓、東南隅櫓の4棟の三重櫓がほぼ直列しそれらの間を多門櫓でつないでいました。この三重櫓のいずれも諸大名の城であれば天守に匹敵する巨大なものでした。残念ながら三重櫓、多門櫓は明治元年の火災で焼失しましたが、幕末に撮影された古写真にその勇壮な姿を見ることができます。
現在も残る高石垣だけでも圧巻の一言ですが、かつてはこの上にこれでもかと三重櫓が林立していたのですからその規模、過剰防衛ぶりには呆れるばかりです。これらがもし残っていたら確実に世界遺産に登録されていたと思います。明治元年の火災の原因は諸説ありますが、大阪城の大部分が焼失したことは大阪の人々が徳川幕府の終焉を実感するのに十分だったのではないでしょうか。
12. 西の丸
西の丸
西の丸
西の丸と天守
西の丸と天守
撮影場所19 北仕切門
北仕切門
北仕切門石垣
北仕切門石垣
二の丸西側の北仕切門と南仕切門で区切られた区画を西の丸と呼び、現在は西の丸庭園として整備され有料エリアとなっています。有料エリアということで他のエリアより人が少なく落ち着いた雰囲気の場所で、全国の城郭で唯一現存する焔硝蔵(火薬庫)と巨大な重箱櫓である乾櫓が見どころです。
豊臣氏時代には秀吉の正室である北政所の屋敷があり、徳川家康が天下の実権を握ってからは西の丸天守を建てたとされています。徳川氏時代には大阪城代屋敷があり実質的な大阪城の城主が居住していました。
現在見ることができる北仕切門は昭和38年(1963)に再建されたもので、徳川時代とは外観や構造も異なります。現在、北仕切門は閉鎖されており西の丸を通って二の丸の南北を行き来することはできず少々不便です。北仕切門側にも西の丸庭園への入場口を設けてほしいところです。
13. 焔硝蔵
撮影場所20 焔硝蔵
焔硝蔵
焔硝蔵正面
焔硝蔵正面
焔硝蔵側面
焔硝蔵側面
焔硝蔵扉
焔硝蔵扉
西の丸にひっそりと建つ焔硝蔵は鉄砲や大砲に使用する火薬を保管する蔵で貞享2年(1685)に建てられてもので、全国の城郭で唯一残る焔硝蔵です。
それまでの焔硝蔵は落雷で大爆発したり、半地下式のものは湿気の問題や部材の腐食で建て直しがたびたび必要になるなど、幕府は火薬の保管方法に苦慮していました。それらを克服するため床・壁・天井・梁の全てを花崗岩としてた石造りの蔵を造りました。
出入口以外に開口部はなく石壁の厚さは約2.4メートルにも達し、蔵というよりはトンネルのような造りとなっています。
14. 乾櫓
撮影場所21 北西から見た乾櫓
北西から見た乾櫓
北から見た乾櫓
北から見た乾櫓
西から見た乾櫓
西から見た乾櫓
西の丸から見た乾櫓
西の丸から見た乾櫓
乾櫓は西の丸の北西、大手門から京橋口門までを見渡す重要な位置に建っています。二重二階で一階と二階が同大の重箱櫓ですが、平面は内側を切り欠いたL字形をした珍しい櫓です。
戦後の解体修理の結果、徳川幕府による大阪城再築城工事が始まった元和6年(1620)に建造されたことが判明し、千貫櫓とともに城内に残る最も古い建物の一つであることがわかりました。堀を隔てた城の外側、南・西・北のどの方角からも見ることができたことから「三方正面の櫓」とも呼ばれてました。

乾櫓には二人の徳川将軍が入ったというエピソードがあります。
一人目は三代将軍家光で、寛永11年(1634)の上洛にともない大阪城に入城した際、大阪の住民に地子(土地税)を免除すると宣言し、乾櫓で将軍自らが采配をかざし免除決定の合図をしたとの伝説があります。もっともこれについては確実な出典はなく眉唾かもしれません。
二人目は十四代将軍家茂で、長州征討に臨む兵士たちを鼓舞するため城内巡視の一環として乾櫓に入りました。
通常は天守であっても将軍が入ることはなく、将軍の居城ではない城の普通の櫓に二人の将軍が入ったことは異例中の異例といえます。
15. 京橋口門
撮影場所22 京橋口門土橋
京橋口門土橋
京橋口門
京橋口門
京橋口門枡形
京橋口門枡形
肥後石
肥後石
二の丸の北西に位置する京橋口門は、北側に流れる寝屋川(旧大和川)に京都へ通じる京橋が架けられていたことからこの名前で呼ばれています。右折れの内枡形門となっており三面から枡形に射撃できる理想的な桝形虎口となっています。昭和初期までは江戸時代以来の渡櫓門と多門櫓が残っていましたが空襲で焼失しました。
枡形の正面には表面積は33畳敷で城内第二位の巨石があり肥後石と呼ばれています。肥後といえば熊本、熊本といえば加藤清正ですが、この巨石も清正が運んできたものと伝えられてきました。しかし、大阪城再築城工事が始まった元和6年(1620)時点ですでに清正は死亡しており、実際には岡山藩主池田忠雄によって運ばれたものです。いろいろな城に加藤清正にまつわるエピソードがありますが大阪もその例に漏れないようです。
16. 北外堀 - 東外堀 - 玉造門 - 南外堀
京橋口門付近の北外堀
京橋口門付近の北外堀
撮影場所23 伏見櫓跡
伏見櫓跡
伏見櫓は大阪城内最大の三重櫓だったが空襲により焼失。
伏見櫓跡付近の北外堀
伏見櫓跡付近の北外堀
撮影場所24 東外堀越しに見た天守
東外堀越しに見た天守
このあたりの堀幅が大阪城中最大の90メートルとなる。
玉造門 撮影場所25
玉造門
撮影場所26 一番櫓
一番櫓
東から見た南外堀
東から見た南外堀
かつてはこの画角内に6棟の二重櫓があった。右端は一番櫓。
西から見た南外堀
西から見た南外堀
かつてはこの画角内に5棟の二重櫓があった。左端は六番櫓。
二の丸を囲む大阪城外堀は大手門、京橋口門、青屋門、玉造門を境として南外堀、西外堀、北外堀、東外堀に分かれています。いずれも徳川幕府による大阪城再築城工事で豊臣氏時代を超える規模に改修され、特に東外堀の最大幅は約90メートルあり城内最大となっています。
また、豊臣氏時代から大阪城の弱点とされた南側を守る南外堀には、一番櫓から七番櫓まで7棟の二重櫓が建ち並び守りを固めていました。

・伏見櫓
北外堀に面した二の丸最北端にあった伏見櫓は二の丸唯一の三重櫓でした。大阪城内最大の櫓で、宇和島城や丸亀城の天守よりも大きな櫓でした。伏見城の櫓の部材を流用して元和6年(1620)もしくはその翌年に建てられたと伝えられています。
二の丸の端にあったためか明治元年の火災の被害は免れましたが、空襲により惜しくも焼失しました。

・玉造門
二の丸南東に位置する玉造門は左折れの内枡形門でした。建物は明治元年の火災で焼失、その後枡形も陸軍により撤去されました。現在は高麗門跡両脇の石垣が残っています。

・一番櫓
玉造門に横矢をかける位置に建てられているのが一番櫓です。層塔型の二重二階櫓で一階は平七間、妻六間で寛永5年(1628)に建造されました。千貫櫓や六番櫓に比べるとやや小ぶりで一階妻側に出窓や破風がないため質素な印象を受けます。
17. その他
豊臣氏時代の本丸石垣案内
豊臣氏時代の本丸石垣案内
撮影場所27 大阪歴史博物館から大阪城を見下ろす
大阪歴史博物館から大阪城を見下ろす
高層ビルと巨大城郭の組み合わせも絵になる。
大阪歴史博物館から見た天守
大阪歴史博物館から見た天守
撮影場所28 豊国神社の豊臣秀吉像
豊国神社の豊臣秀吉像
・大阪歴史博物館
大阪歴史博物館は大阪城本丸内、現在はミライザ大阪城となっている建物(元陸軍第四師団司令部庁舎)にあった市立博物館を前進として平成13年(2001)に開館しました。
NHK大阪放送局の7階から10階という博物館としては珍しい場所にあり、大阪城や難波宮跡を一望に見下ろすことができます。ここから大阪城を見ると改めてその超弩級の規模に驚かされます。展示内容も難波宮大極殿の原寸大復元、大阪市が全国一の人口となった大大阪時代の町並み再現など見ごたえがあります。じっくり見学するとかなり時間が必要ですが、大阪城と一緒に見学したい博物館です。

・豊国(ほうこく)神社
豊臣氏時代には豊臣秀頼が父・秀吉を祀るための報告社を山里丸に建立しましたが、徳川家康が天下をとると秀吉の神号「豊国大明神」は剥奪され各地の豊国神社は廃止されました。
明治時代になると新政府の敵である徳川幕府によって滅ぼされた豊臣氏や外征を行った秀吉は富国強兵のシンボルとして神号も復活し豊国神社の再建が行われました。
現在二の丸の南に鎮座する豊国神社は秀吉、秀長、秀頼を祭神とし、昭和36年(1961)に中之島より現在地に移転したもので、約350年ぶりの里帰りとも言えます。豊臣秀吉像は昭和18年(1943)の金属類回収令で失われたものを平成19年(2007)に再建したものです。
地図が表示されない場合は、F5キーでページを更新してください。