KemaAkeの全国城めぐり
鉢形城
はちがたじょう
別名なし 復元石積土塁と復元四脚門
形態平山城
築城年文明8年(1476)ごろ
築城者長尾景春
主な城主長尾氏、上杉氏、北条氏邦
所在地旧国名武蔵
所在地埼玉県大里郡寄居町鉢形2496-2
アクセス 寄居駅【JR八高線、東武東上線、秩父鉄道秩父線】
↓徒歩(約15分)
笹曲輪跡
↓徒歩(約10分)
鉢形城歴史館
アクセスのしやすさ☆☆☆☆
概要
-----------歴史------------
●後北条氏時代以前
鉢形城は文明8年(1476)に関東管領山内上杉氏家臣の長尾景春が築城したとされる。
●後北条氏時代
天文15年(1546) に河越夜戦の勝利によって武蔵での後北条氏の覇権が確立。 永禄7年(1564)にこの地域の豪族である藤田氏の養子となっていた北条氏康の三男、氏邦が天神山城から鉢形城に本拠を移す。 氏邦は鉢形城の大改修を行い、以後北条氏の北関東支配における重要拠点となる。
永禄12年(1569)に武田信玄、天正2年(1574)に上杉謙信の攻撃を受けるが、いずれも守りの堅さからほどなく撤退している。
天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めでは、後北条氏の重要拠点として前田利家、上杉景勝、真田昌幸ら北国軍5万に包囲される。 城兵3500ほどで一ヶ月の攻防戦を繰り広げたが、城兵の助命を条件に開城した。小田原攻めの後、廃城となる。

---------構造・特徴--------
鉢形城は荒川が山間部から関東平野に流れ込む境目、荒川と深沢川の合流点の断崖絶壁の上に位置する。 城域は東西300メートル、南北600メートルに及び、曲輪も中世城郭としては広大である。 西に大手を設け、大手周辺はいくつもの水堀で守りを固めていた。 後北条氏の遺構としても、大規模な中世城郭の遺構としても大変に貴重な城である。
遺構 普請:曲輪、空堀、土塁、石垣
作事:なし
天守:なし
登城日2016/05/14
感想など 寄居駅南口からまっすぐ進み、荒川に架かる正喜橋を超えるとそこはもう鉢形城跡(笹曲輪跡)になります。駅からはゆっくり歩いても15分程度です。

昭和7年(1932)に国の史跡に指定(小田原城より先)され、遺構の保存状態も良好、整備も行き届いており、非常に見応えのある中世城郭跡です。 正喜橋から本曲輪を見ると、まさに天然の要害。「ここに城を造らずどこに造る!」といった感じで、これは力攻めでの攻略は容易ではないと納得しました。 大手から城内に入ると、水こそ残っていませんが堀のくぼみがいたるところにはっきりと残り、水が満々と湛えられていた様子が目に浮かびます。 中世城郭でありながらそれぞれの曲輪は広大で、このまま総石垣にすれば近世城郭としても名城になったのではないかと思いました。 鉢形城歴史館もあり、中世城郭初心者(私ですが)でも無理なく楽しめる城です。

-----------余談------------
全く城に関係のない話ですが、本曲輪から荒川の対岸を見ていると、どこかで見た建物があります。二階建ての古い日本建築です。
帰って調べてみると、テレビ朝日ドラマ、TRICK2「episode2 100%当たる占い師」(時間の穴のやつ)で占い師・鈴木吉子の家となっていた建物でした。 TRICKファンである私にとって鉢形城にうれしいオマケが付いてきて、お得感のある城めぐりでした。
登城記
1. 荒川対岸(玉淀)から見た鉢形城本曲輪
撮影場所1 荒川対岸(玉淀)から見た鉢形城本曲輪
荒川対岸(玉淀)から見た鉢形城本曲輪
正喜橋の手前で右側の細道に入って行くと、玉淀と呼ばれる景勝地への入口があります。 この玉淀、奇岩の集まった景勝地なのですが、同時に鉢形城の堅固ぶりを実感できる場所となっています。 玉淀は荒川を挟んで鉢形城本曲輪の真向かいに位置しており、川べりから断崖絶壁上の本曲輪を見上げることができます。 小田原攻めの際は、荒川対岸の一帯は真田昌幸が布陣していたそうです。
2. 搦手橋周辺
撮影場所2 搦手橋
搦手橋
搦手橋から見た深沢川
搦手橋から見た深沢川
正喜橋を渡ると鉢形城の搦手に当たる笹曲輪に入ります。 笹曲輪のY字路を右に進むと本曲輪方面、左に進むと深沢川に架かる搦手橋を越えて城下町方面へ至ります。 搦手橋の少し先が深沢川と荒川の合流点になります。 北条氏時代に搦手橋はなく、このあたりから深沢川を渡ることはできなかったようです。
3. 堀、土塁、鉢形城歴史館
撮影場所3 外曲輪の水堀跡
外曲輪の水堀跡
撮影場所4 鉢形城歴史館
鉢形城歴史館
撮影場所5 伝逸見曲輪水堀跡
伝逸見曲輪水堀跡
撮影場所6 弁天社跡
弁天社跡
撮影場所7 伝逸見曲輪の石垣
伝逸見曲輪の石垣
撮影場所8 二の曲輪の水堀跡
二の曲輪の水堀跡
鉢形城に来たらまずは鉢形城歴史館で鉢形城復元模型の確認とパンフレットの入手をおすすめします。 鉢形城ではいたるところに堀・土塁が残っていますが、あまりに数が多いため、縄張り図が手元にないとどの曲輪のどの堀か分かりません。 水堀の水は残っていませんが、しっかりと窪地になっており、なかなか面白いです。 地図と照らし合わせながら歩くと、荒川と深沢川に面していた曲輪以外は幾重もの水堀で守りを固めていたことがわかります。

鉢形城の堀の中で最も見応えがあるのが、三の曲輪と二の曲輪の間の水堀跡です。 最大上幅約24メートル、深さ約12メートルの大規模な堀で、堀底には畝が見つかっています。 畝を備えた堀は北条氏の城では障子堀と呼ばれ、堀を区切ることで敵兵の堀底での動きを封じるとともに水位を一定に保つためのものとされています。 障子堀と言えば山中城が有名です。

伝逸見曲輪では石垣を確認することができました。 案内板がなかったため、当時のものか最近のものかは不明です。 野面積のようですが、鉢形城で復元された北条氏時代の石垣とは積み方がだいぶ異なっています。 北条氏時代のものではなさそうです。

弁天社跡では文字通りの土饅頭を見ることができます。 かつては土饅頭の上に弁天社が建っており、水堀の中の小島のようになっていたのでしょう。
3. 三の曲輪
三の曲輪全景
三の曲輪全景
撮影場所9 復元石積土塁と復元四脚門
復元石積土塁と復元四脚門
三の曲輪虎口
三の曲輪虎口
復元石積土塁
復元石積土塁
復元四脚門
復元四脚門
石積土塁と雁木
石積土塁と雁木
撮影場所10 庭園と復元四阿(あずまや)
庭園と復元四阿(あずまや)
撮影場所11 復元排水溝
復元排水溝
鉢形城で最も復元・整備が進んでいるのがこの三の曲輪周辺です。 三の曲輪は鉢形城で最も西にある曲輪で、荒川を見下ろし、上下二段に分かれています。
下段は大手馬出しに通じる虎口と四脚門が復元されています。 虎口はクランク状に折れ曲がり、枡形のない古い造りとなっています。
上段は庭園と四阿(あずまや)、石積土塁が復元されており、北条氏邦の重臣である秩父孫次郎が守ったことから秩父曲輪と呼ばれています。 小さな池を囲むように建物が配置されていたようで、複数の掘立柱建物跡が確認されています。 天目茶碗や茶入れなどの茶道具や、後北条氏の城でも中心的な城でしか発見されていないカワラケなどが出土しており、宴会や歌会などを行う特別な空間だったようです。
三の曲輪周辺でもっとも目を引くのが虎口と三の曲輪西面の復元された石積土塁です。 全長約100メートル、高さは約4.2メートル、上幅約6メートル、下幅約12メートルの規模を持ちます。さらには雁木も設けています。 これだけの規模を持った石積土塁は稀です。 石垣と呼ばないのは、規模・技法が同時期西日本の石垣に見劣りするためですが、 関東地方の石積み技術の有様や、石積みを専門とする技術者の存在を示す重要な発見となっています。
4. 大手馬出
外側から見た馬出
外側から見た馬出
撮影場所12 馬出に建つ諏訪神社
馬出に建つ諏訪神社
大手馬出は三の曲輪の虎口に通じる馬出で、現在は諏訪神社が建てられています。 諏訪神社は北条氏邦の家老、諏訪部遠江守が諏訪神社を分祀したもので、鉢形城落城後も地元の人々によって祀られてきました。
ここは諏訪神社の敷地のためか、三の曲輪のように整備・復元されていません。 ですが西面の掘、南・西面の土塁、城外と三の曲輪に接続された土橋を確認できます。 二枚目写真、神社の右側が城外に通じる土橋、左側が土塁となっており、ここで振り向くと三の曲輪に通じる土橋と、三の曲輪の土塁を見ることができます。
5. 馬出(伝御金蔵)
撮影場所13 馬出と復元木橋
馬出と復元木橋
石積土塁
石積土塁
三の曲輪の北東、曲輪の隅を切り欠いて、小さな馬出が設けられています。 伝承では「御金蔵」と呼ばれていましたが、その形状や調査の結果から「馬出」と判明しました。 西・南・東の三方を薬研堀で囲み、北側は荒川の崖になっています。 石積土塁が北・西・南に築かれており、かつては全て5段の石積みだったようです。 これらの石積土塁は当時のもので、残存例として大変貴重なものです。 この馬出は、四角い形の「角馬出」で、これは後北条氏系城郭の特徴と言われています。
6. 深沢川
撮影場所14 深沢川
深沢川
撮影場所15 深沢川から見た外曲輪
深沢川から見た外曲輪
荒川とともに鉢形城の守りの要となるのがこの深沢川です。鉢形城の主要部東側の掘の役割を果たしています。 幅は狭く10メートルあるかないか、水深も浅いようですが、、両岸は崖がそそり立ち天然の堀の見本のような川となっています。
7. 本曲輪
伝御殿下曲輪から見た本曲輪
伝御殿下曲輪から見た本曲輪
撮影場所16 本曲輪
本曲輪
本曲輪は鉢形城で最も高いところにある曲輪で、荒川の絶壁の上に位置しています。 二段になっており一段高い場所には御殿があったとされ、伝御殿曲輪と呼ばれています。 天守については中世城郭でかつ東日本の城とあって、遺構等は特に見つかっていません。 本丸の背後に絶壁や河川のある城は「後ろ堅固」の縄張りと呼ばれ、他には犬山城などがあります。
本曲輪からの景色は木が多いためあまり良くありませんが、木々の隙間から寄居の市街地を一望できます。
撮影場所17 本曲輪からの眺め
本曲輪からの眺め
8. 笹曲輪
撮影場所18 笹曲輪
笹曲輪
鉢形城模型
鉢形城模型
石垣
石垣
笹曲輪は鉢形城の北東端、荒川と深沢川の合流点に挟まれた曲輪で、鉢形城の搦手にあたる曲輪です。 大きな鉢形城の模型が展示されており、荒川と深沢川に挟まれた鉢形城の様子を色々な角度から見ることでき、これまで歩いてきた道筋をたどることができます。
また鉢形城唯一(?)の石垣が残っています。他の石積とは技法が異なり、西日本に見られる野面積みに近い石垣です。 案内板には石垣としか書かれていないため、いつごろのものかは不明です。


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