KemaAkeの全国城めぐり
KemaAkeの全国城めぐり
鉢形城
はちがたじょう
別名なし 復元石積土塁と復元四脚門
形態平山城
築城年と築城者文明8年(1476)ごろ 長尾景春
永禄年間(1558-1570)北条氏邦
主な城主長尾氏、上杉氏、後北条氏
住所と所在地旧国名埼玉県大里郡寄居町鉢形2496-2(武蔵)
アクセス JR、東武、秩父鉄道 寄居駅
↓徒歩(約20分)
笹曲輪跡
↓徒歩(約10分)
鉢形城歴史館
概要
鉢形城は荒川が山間部から関東平野に流れ込む境界、荒川と深沢川の合流点の断崖上に位置する。 城域は東西300メートル、南北600メートルにおよび、曲輪も中世城郭としては広大である。 西に大手口を設け大手口周辺はいくつもの水堀で守りを固めていた。 後北条氏の遺構としても大規模な中世城郭の遺構としても大変に貴重な城である。
-----------歴史------------
・文明8年(1476)関東管領山内上杉氏家臣の長尾景春が築城
・永禄7年(1564)北条氏康の三男、氏邦が天神山城から鉢形城に本拠を移す
・永禄12年(1569)武田信玄が攻撃をするが撤退する
・天正2年(1574)上杉謙信が城下に乱入するが撤退する
・天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原攻めにより落城。落城後は廃城となる
登城日2022年10月29日
おすすめ度☆☆☆
過去の登城記2016年5月14日
感想など
・アクセス
寄居駅はJR八高線、秩父鉄道秩父本線、東武東上線の三路線が乗り入れる駅で、都心ほどではありあませんが充分な電車の本数があります。
寄居駅からは南口正面から伸びる大通りを南に向かってまっすぐ進み、荒川に架かる正喜橋を超えるとそこはもう鉢形城跡(笹曲輪跡)になります。 駅からはゆっくり歩いても20分程度で駅からのアクセスも不便は感じません。

・感想
昭和7年(1932)に国の史跡に指定(小田原城よりも先)され、遺構の保存状態も良好で整備も行き届いており、非常に見応えのある中世城郭跡です。 正喜橋から荒川沿いの断崖上に位置する本曲輪を見るとその要害ぶりは一目瞭然で、武田信玄や豊臣軍を持ってしても力攻めは容易でなかったことが伺えます。
中世城郭でありながらそれぞれの曲輪は非常に広大で、このまま総石垣にすれば近世城郭としても名城になったのではないかと思います。 また、城内を東西に二分するように深沢川が流れており、川幅こそ狭いですがその深い峡谷を城域に取り込んでいたことに驚かされます。
登城記
1. 笹曲輪
撮影場所1 笹曲輪
笹曲輪
笹曲輪の鉢形城模型
笹曲輪の鉢形城模型
笹曲輪から見た本曲輪土塁
笹曲輪から見た本曲輪土塁
笹曲輪石積み
笹曲輪石積み
本曲輪から見た笹曲輪
本曲輪から見た笹曲輪
鉢形駅前から大通りをまっすぐ進み正喜橋を渡ると鉢形城の搦手に当たる笹曲輪に入ります。 笹曲輪のY字路を右に進むと本曲輪方面、左に進むと城内を大きく二分する深沢川に架かる搦手橋を経て城下町方面へ至ります。搦手橋の少し先が深沢川と荒川の合流点になります。
笹曲輪には大きな鉢形城の模型があり、荒川に面した断崖絶壁や深沢川を城内に取り込む鉢形城の様子を色々な角度から見ることできます。
また、鉢形城唯一(?)の石積みが残っていますが、他の石積みとは技法が異なり、西日本に見られる野面積みに近い石垣です。案内板には石垣としか書かれていないためいつごろのものかは不明です。
2. 外曲輪・深沢川
撮影場所2 外曲輪土塁と堀
外曲輪土塁と堀
鉢形城歴史館
鉢形城歴史館
深沢川の渓谷
深沢川の渓谷
枡形状空間 撮影場所3
枡形状空間
外曲輪は深沢川で主要部と隔てられた南北600メートル以上におよぶ広大な曲輪で、東面では土塁や幅広の堀をよく確認できます。 主要部ほど細かく曲輪分けがされておらず、家臣団の屋敷などがあったものと思われます。 外曲輪の南側には鉢形城歴史館があり、日本100名城スタンプはここに設置してあります。

深沢川は幅10メートルほどの小さな川ですが両岸は崖がそそり立ちこれ以上ないほどの天然の堀となっています。 鉢形城歴史館の裏から主要部へ続く通路が整備され、深沢川に架橋されているのですが、ここから川辺に下りるとここが城内であることを忘れるような小渓谷となっています。 そして橋を渡った先には三方を土塁に囲まれた巨大な枡形状空間があり、近世の巨大城郭のような威圧感があります。 かつてここに架橋されていたかは不明ですが、想像をたくましくすれば、この枡形空間と橋で主要部東面虎口を形成していたのではないかと思います。
3. 大手馬出
大手馬出
大手馬出
諏訪神社鳥居と三の曲輪土塁
諏訪神社鳥居と三の曲輪土塁
撮影場所4 諏訪神社
諏訪神社本殿
諏訪神社背面の堀
諏訪神社背面の堀
大手馬出は三の曲輪の虎口に通じる馬出で現在は諏訪神社が建てられています。 諏訪神社は北条氏邦の家老、諏訪部遠江守が諏訪神社を分祀したもので、鉢形城落城後も地元の人々によって祀られてきました。 ここは諏訪神社の敷地のためか三の曲輪のように整備・復元はされていませんが掘や土塁、土橋を確認できます。 諏訪神社本殿の裏に回るとだいぶ荒れてはいますが堀跡が確認できます。
4. 三の曲輪
秩父曲輪
二の曲輪・伝逸見曲輪・三の曲輪360度パノラマ
虎口外側
虎口外側
虎口内側
虎口内側
復元石積土塁
復元石積土塁
復元石積土塁と復元四脚門
復元石積土塁と復元四脚門
復元石積土塁と復元四脚門
復元石積土塁と復元四脚門
撮影場所5 復元四脚門正面
復元四脚門正面
復元四脚門側面
復元四脚門側面
復元四脚門背面
復元四脚門背面
撮影場所6 伝秩父曲輪復元石積土塁
伝秩父曲輪復元石積土塁
伝秩父曲輪復元石積土塁
伝秩父曲輪復元石積土塁
秩父曲輪
秩父曲輪
鉢形城で最も復元・整備が進んでいるのがこの三の曲輪です。三の曲輪は鉢形城で最も西にある曲輪で荒川に面し上下二段で構成されています。
下段は大手馬出しに通じる虎口と四脚門が復元されています。虎口はクランク状に折れ曲がり枡形のない古い造りとなっています。
上段は庭園、四阿(あずまや)、石積土塁が復元されており、北条氏邦の重臣である秩父孫次郎が守ったことから秩父曲輪と呼ばれています。 小さな池を囲むように建物が配置されていたようで、複数の掘立柱建物跡が確認されています。 天目茶碗や茶入れなどの茶道具や後北条氏の城でも中心的な城でしか発見されていないカワラケなどが出土しており、宴会や歌会などを行う特別な空間だったようです。 三の曲輪でもっとも目を引くのが虎口と三の曲輪西面に復元された石積土塁です。 全長約100メートル、高さは約4.2メートル、上幅約6メートル、下幅約12メートルの規模を持ちます。さらには雁木も設けています。 これだけの規模を持った石積土塁は稀です。
石垣と呼ばないのは、規模・技法が同時期西日本の石垣に見劣りするためですが、関東地方の石積み技術の有様や、石積みを専門とする技術者の存在を示す重要な発見となっています。
5. 伝逸見曲輪
伝逸見曲輪
伝逸見曲輪
撮影場所7 伝逸見曲輪の石積
伝逸見曲輪の石積
三の曲輪の南側には中小の曲輪がいくつもありその中に伝逸見曲輪があります。 伝逸見曲輪では石積みを確認することができますが、案内板がなかったため当時のものかは不明です。 野面積のようですが鉢形城で復元された北条氏時代の石垣とは積み方がだいぶ異なっています。少なくとも北条氏時代のものではなさそうです。
鉢形城の特徴としてこういった少曲輪に伝逸見曲輪、伝秩父曲輪のように管理者の名前がついていることも挙げられます。
6. 二の曲輪
撮影場所8 水堀跡(二の曲輪から見る)
水堀跡(二の曲輪から見る)
水堀跡(三の曲輪から見る)
水堀跡(三の曲輪から見る)
二の曲輪(荒川方面を見る)
二の曲輪(荒川方面を見る)
二の曲輪(三の曲輪方面を見る)
二の曲輪(三の曲輪方面を見る)
鉢形城の堀の中で最も見応えがあるのが、三の曲輪と二の曲輪の間の水堀跡です。 最大幅約24メートル、深さ約12メートルの大規模な堀で、堀底には畝が見つかっています。 畝を備えた堀は北条氏の城では障子堀と呼ばれ、堀を区切ることで敵兵の堀底での動きを封じるとともに水位を一定に保つためのものとされています。 障子堀と言えば山中城が有名です。
7. 本曲輪
撮影場所9 伝御殿下曲輪(伝御殿曲輪方面を見る)
伝御殿下曲輪(伝御殿曲輪方面を見る)
御殿曲輪の堀
御殿曲輪の堀
撮影場所10 御殿曲輪の土塁
御殿曲輪の土塁
伝御殿曲輪から見た伝御殿下曲輪
伝御殿曲輪から見た伝御殿下曲輪
撮影場所11 荒川対岸から見た本曲輪
荒川対岸から見た本曲輪
本曲輪は鉢形城で最も高いところにある曲輪で荒川の絶壁の上に位置しています。 二段になっており荒川に面した上段には御殿があったとされ、伝御殿曲輪と呼ばれています。 天守については中世城郭でかつ東日本の城とあって遺構等は特に見つかっていません。
本丸の背後に絶壁や河川のある城は「後ろ堅固」の縄張りと呼ばれ他には犬山城などがあります。 本曲輪からの景色は木が多いためあまり良くありませんが木々の隙間から寄居の市街地を望むことができます。

城の地図
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