大阪城 おおさかじょう |
別名 | 錦城、金城 |
形態 | 平山城 |
築城年 | 天正11年(1583) |
築城者 | 羽柴秀吉 |
主な城主 | 羽柴氏(豊臣氏)、徳川氏 |
所在地旧国名 | 摂津 |
所在地 | 大阪府大阪市中央区大阪城1-1 |
アクセス |
●徒歩によるアクセス JR大阪環状線、大阪城公園駅または森ノ宮駅から徒歩15分 大阪市交通局地下鉄谷町線、谷町四丁目駅から徒歩15分 |
アクセスレベル |
●徒歩でのアクセスレベル ☆☆☆☆☆ |
概要 |
●羽柴秀吉による築城(豊臣大阪城) 大阪城は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が摂津、上町台地北端に築いた平山城である。この地は北に淀川、旧大和川が合流し、その付近には瀬戸内海最大級の港である渡辺津がある水運の要衝であり、また、堺や京都、山陽方面をつなぐ陸上交通の要衝でもあった。 もともとこの地には浄土真宗の本山である石山本願寺があったが、天正8年(1580)に石山合戦の講和により、織田信長に明け渡された。信長はこの地に新たな城を築くことを検討していたと言われているが、天正10年(1582)に本能寺の変により横死する。翌天正11年(1583)、信長の後継者として天下統一を目指す秀吉が、その拠点として石山本願寺の跡地に築城を開始した。天正13年(1585)には五層六階地下二階、黒漆塗りの下見板と金箔瓦、金の飾り金具をふんだんに用いた豪華な望楼型天守が完成し、秀吉の権威を示した。天正18年(1590)の小田原攻めの後には、小田原城の総構えに習い、町屋を囲む総構えを築くなど、慶長3年(1598)に秀吉が死亡するまで城の拡充は続けらた。 ●大阪冬の陣、夏の陣 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦の後、急速に力を伸ばした徳川家康と豊臣家は対立。慶長19年(1614)には、大阪冬の陣が起こる。大阪城に篭城する豊臣方10万、それを囲む徳川方20万との間に大攻囲戦が繰り広げられたが、ついに落城することはなかった。しかし、このときの講和条件により、外堀は埋め立てられ、二の丸、三の丸は破壊となり、本丸のみの城となってしまう。翌慶長6年(1615)に大阪冬の陣が起こると、本丸のみとなった大阪城では殺到する徳川軍を防ぐことは出来ず、5月7日ついに落城した。このとき秀吉が築いた天守や御殿はことごとく焼失し、その炎は夜空を照らし、京都からも真っ赤に染まる大阪の空が見えたという。 ●徳川幕府による再建(徳川大阪城) 大阪冬の陣による豊臣氏滅亡後、大阪城は徳川幕府の直轄領となった。徳川秀忠は元和5年(1620)から大阪城の再建を初め、寛永6年(1629)に完成した。 この工事は高さ約1メートルから10メートルの盛土を行い、石垣も高く積み重ね、豊臣大阪城の遺構を完全に破壊し、より大規模な城とすることで、徳川幕府の威信を示すものであった。寛永3年(1626)には豊臣大阪城を上回る規模の層塗込白漆喰の層塔型天守が完成している。この天守は寛文5年(1665)に焼失した。そのほかの建物は江戸時代を通して、たびたび火災による損傷と修復が繰り返された。しかし、これらの建物も慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦い前後の混乱により焼失し、以後再建されることはなかった。 ●明治以降 明治時代に城内は陸軍の軍用地となった。昭和6年(1931)には日本発の鉄筋コンクリート製の復興天守が築かれ、現在まで残る。太平洋戦争では軍用地となっていたため、空襲を受け、慶応4年の火災を免れた二番櫓や京橋口門などが焼失した。平成8年(1996)には、大正初期に陸軍によって埋め立てられた東外堀が復元された。 |
遺構 |
普請:石垣、堀 作事:櫓、門、井戸など 天守:昭和6年(1931)年築、鉄筋コンクリート製復興天守 |
城内案内図など | 城内案内図(1400x1340) |
登城日 | 2010/11/13 2023/10/12 |
撮影カメラ | RICOH CX1 |
みどころ | 石垣、堀、櫓など全てが巨大で、徳川家の力を感じることができます。天守は日本発の鉄筋コンクリート製復興天守として、築80年を経て、歴史的価値が出てきているのも特徴です。 |
各写真をクリックすると大きな写真が表示されます。この画面に戻る場合はブラウザの戻るボタンを使用してください。各写真の下の番号は城の地図と対応しています。赤い番号は写真の撮影対象の場所を示し、青い番号は写真の撮影場所を示します。 |
今回はJR大阪環状線の大阪城公園駅から登城します。駅前をしばらく歩き大阪城ホールの脇を通ると、東外堀に突き当たります。 |
1. 東外堀 |
城の地図: |
東外堀は二の丸の東に位置する水堀で、北に青屋口、南に玉造口があります。本来は青屋口より先の北外堀とつながり、総延長約3キロメートル、最大幅約90メートルの巨大な堀でした。大正時代に、大阪砲兵工廠の敷地拡張のため埋め立てられましたが、平成9年(1997)に復元されました。 |
2. 青屋門 |
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城の地図: |
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青屋門は二の丸の北に位置する枡形門です。慶応4年の火災で被災し、その後陸軍によって改築されましたが、太平洋戦争の空襲で大破しました。現在の門は昭和44年(1969)に、残材を用いて再建されたものです。かつてはもっと長大な渡櫓門でした。 |
3. 東側内堀 |
4. 市正(いちのかみ)曲輪 |
5. 雁木坂 |
城の地図: |
城の地図: |
大阪城の二の丸は北側が低く、南側が高くなっています。それが良くわかるのがこの雁木坂です。江戸時代は長い石段(雁木)だったことからこの名前で呼ばれています。坂を登りきった所には雁木坂門がありました。現在は盛土によって石段は失われ、ゆるやかな坂になっています。 2名目の写真の左側の石垣が雁木坂になります。 |
6. 南側内堀 |
城の地図: |
南側内堀です。本丸南側の堀は空堀となっています。豊臣大阪城でも本丸南側の堀は空堀だったようで、大阪城でなぜここだけ空堀なのかはわかっていません。しかし、本当に大阪城の石垣の石は巨大で、巨石の城といった感じがします。 |
7. 桜門 |
7. 南仕切門跡・太鼓櫓跡 |
城の地図: |
南仕切門跡・太鼓櫓跡です。二の丸の西区画と南区画は石垣で区切られ、通路に当たるこの箇所に南仕切門が建っていました。南仕切門は渡櫓門で、写真左側の石垣上には南仕切門に続いて太鼓櫓が建てられていました。太鼓櫓の中には太鼓が納められており、香をたいて時刻を計り、城内勤務の大名や旗本の召集や交換、緊急時などに太鼓を打ち鳴らしていました。どちらの建物も慶応4年の火災で焼失しました。 |
8. 西の丸 |
8. 北仕切門 |
城の地図: |
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北仕切門です。二の丸の西区画と北区画は石垣で区切られ、その通路に建てられています。案内板が見当たらなかったため、いつごろの建物かはわかりません。この門を通って二の丸の北区画に抜けるつもりでいたのですが、西の丸庭園の出入り口はひとつのようで、通り抜けはできませんでした。 |
10. 焔硝蔵 |
11. 本丸 |
12. 金明水井戸屋形 |
13. 号砲 |
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小天守台には青銅製の先込め式旧式砲があります。これは文久2年(1863)、幕府の命令により、美作津山藩の鋳工、百済清次郎らが製造したもので、はじめ大阪天保山砲台に設置され、明治維新後に大阪城内に移されたものと伝えられています。明治3年(1870)から大正12年(1923)頃まで、時刻を知らせる号砲として使用され、「お城のドン」、「お午(ひる)のドン」と呼ばれ、市民に親しまれました。 |
14. 金蔵 |
城の地図: |
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天守の南東にある金蔵です。江戸時代に幕府の金貨、銀貨を保管した建物で、幕府直営の金庫でした。内部は大小2室からなり、手前の大きな部屋には通常の出納用、奥の小さな部屋には非常用の金銀を置いていました。防災と防犯に工夫がこらされ、床下は全て石敷き、入口は二重の土戸と鉄格子戸の三重構造、窓は土戸と鉄格子、床下の通気口にも鉄格子をはめるといった念の入れようです。 |
15. 隠し曲輪 |
16. 山里丸 |
17. 北側内堀 |
城の地図: |
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北側内堀です。1枚目の写真の橋は極楽橋で、山里丸に続いています。豊臣時代にもここには木造の橋がありました。江戸時代に築かれた橋は慶応4年の火災で焼失し、現在の橋は昭和40年(1965)にコンクリートで築かれたものです。極楽端から京橋門にかけては内堀越しに北と西から天守を見ることが出来ます。この辺りから見る天守が一番見栄えが良いと感じます。 |
城の地図: |
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18. 京橋口門跡 |
19. 豊臣大阪城三の丸石垣 |
20. 乾櫓 |
21. 千貫櫓 |
22. 大手門 |
23. 六番櫓 |
24. 大阪城全景 |
城の地図: |
南西から見た大阪城全景です。この写真は大阪歴史博物館から撮影したものです。大阪歴史博物館は大阪城本丸内にあった大阪市立博物館を前進として、平成13年(2001)に開館しました。外堀に面したNHK大阪放送局の7階から10階にあるため、窓からは大阪城の全景を見ることができます。ただし、構造上ガラスへの映り込みが激しく、写真がうまく撮れませんでした。 |
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