KemaAkeの全国城めぐり

高取城 たかとりじょう
別名 芙蓉城
形態 山城
築城年 元弘2年(1332)ごろ、天正13年(1585)
築城者 越智邦澄、本多忠朝
主な城主 越智氏、本多氏、植村氏
所在地旧国名 大和
所在地 奈良県高市郡高取町高取
アクセス 近鉄吉野線、壺阪山駅
↓徒歩(役20分)
植村家長屋門
↓徒歩(役50分)
猿石
↓徒歩(役30分)
本丸
↓徒歩(役40分)
五百羅漢
↓徒歩(役10分)
壷阪寺
↓徒歩(役40分)
近鉄吉野線、壺阪山駅

壷阪寺までバスが出ていますが本数が非常に少ないです。一日に4本、冬季は2本になります。詳しくは奈良交通グループホームページをご覧下さい。
ですので、バスを使うより丸一日かかってしまいますが、城下町を経て徒歩で登城するのが良いと思います。
アクセスのしやすさ
概要 ●越智氏による築城
高取城は14世紀前半に土豪の越智氏が南朝の呼びかけで、支城のひとつとして築城したとされている。
●織田信長による廃城と筒井順慶による復興
越智氏が長く城主を務めたが、織田信長によって大和の城は郡山城のみとされ、高取城は廃城となる。 天正11年(1583年)には筒井順慶の家臣となっていた越智頼秀が殺害され、越智氏は滅亡する。 信長死後、筒井順慶は支城網のひとつとして高取城を復興した。
●本多氏による近世城郭化
天正13年(1585)に豊臣秀長が大和を領有すると、その家臣の本多氏が城主となる。 本多氏は石垣や多くの三重櫓、侍屋敷などを整備し近世城郭化を行った。 本多氏は秀吉の死後、徳川家康につき関ヶ原の戦いでは東軍として参戦した。 そのため高取城は西軍に攻撃されるがこれを防いでいる。
●植村氏の入城
本多氏は寛永14年(1637年)に世継ぎがなく改易となる。 寛永17年(1640年)に旗本の植村家政が2万5千石で大名となり、高取城主となった。 以後明治維新まで植村氏が城主を務めた。
この頃には不便な山城を嫌い、藩主を始めとした多くの家臣が山を降り、城と城下町が離れた特異な形状となった。 幕末には二の丸にあった藩主御殿も山麓に移された。また、天誅組の変で攻撃されるがこれを防いでいる。
●明治維新以降
高取城は明治維新により明治6年(1873年)に廃城となる。 廃城後、城内の建物は自然崩壊したとも、売却されたともいわれ、現在残っていない。 しかし、人里離れた山頂に城があるため、人為的な破壊が行われず石垣などは旧状をほぼ完全にとどめている。
遺構 普請:石垣、堀
作事:なし
天守:なし
城内案内図など ハイキング地図ダウンロード■高取町観光ガイド
リンク先に縄張り図(NO6:高取城址郭図)と駅から高取城までの地図(NO.1高取城・壺阪寺ハイキングマップ)があります。
登城日 2012/1/10

感想など
日本三大山城のひとつに数えられる高取城は、その称号に恥じない素晴らしい山城です。標高583メートル、比高350メートルの高取山に石垣が累々と残っています。
現在見ることができる総石垣の城は豊臣秀長の家臣、本多氏が築き始めたものです。以後は江戸時代を通して全国でも珍しい常普請(幕府への届け出なしで城の修築が可能)が許された城として、順次拡張されていったようです。
そのためか石垣も古色な野面積みから、江戸時代のスタンダード(?)打ち込みハギ、江戸時代後期の谷積みなどを確認することが出来ました。苔むした石垣や木の根が張り付く様子は、密林の中の古代遺跡を彷彿とさせ、神秘的ですらあります。
高取城と同じく豊臣秀長系の山城として竹田城がありますが、櫓台や虎口の作りがどことなく似ていると感じました。高取城も周りの木々を取り払えば竹田城をしのぐ威容を山麓から見ることができるでしょう。

登城にあたっては、本格的な山城であり、登山道も整備が行き届いているとは言えないため歩きやすい服装で行くようにしてください。特に高取城から五百羅漢への道は幅が非常に狭く要注意です。 私が登城した1月は、落ち葉だらけで道がわからないところもあり、山の斜面の木々につかまりながら降りて行くといった感じでした。もしかしたら登山道を少し外れていたのかもしれません。
こんな状態のためか、登山道のところどころに「目標位置1」「目標位置9」と行った看板が立てられ、遭難者に備えているようでした。(幸いなことに携帯の電波は入ります)

今回は近鉄吉野線、壺阪山駅から城下町を経て高取城に登城し、壷阪寺を経由して壺阪山駅まで戻るコースをひと通りご紹介します。なお、高取城は門跡や曲輪などの案内板が少なく正直なところ資料不足です。そのため写真ばかりの掲載となりますがご了承ください。

登城記
各写真をクリックすると大きな写真が表示されます。この画面に戻る場合はブラウザの戻るボタンを使用してください。各写真の下の番号は城の地図と対応しています。赤い番号は写真の撮影対象の場所を示し、青い番号は写真の撮影場所を示します。
1. 松ノ門
松ノ門
城の地図:撮影対象1
松ノ門は高取城内にあった門のひとつで、元々は屋根の付いた薬医門でした。明治4年の廃藩置県による高取城廃城後、明治25年に土佐小学校の校門として移築されました。しかし、昭和19年に火災のため一部が消失、その後解体されたままとなっていました。
現在の門は残された部材を使用して、一部を復元したものです。
2. 植村家長屋門
植村家長屋門
城の地図:撮影対象2
植村家長屋門の出格子窓
植村家長屋門は文政9年(1826)に建てられ、門内の東西には各四室の部屋があります。ここは江戸時代には城代家老の役宅で、門内の部屋には高取藩に使える中間たちが住んでいました。
現在は旧藩主植村氏の住居となっています。
3. 黒門跡
黒門跡
城の地図:撮影対象3
4. 天聖喜自在天
天聖喜自在天
城の地図:撮影対象4
5. 高取城址の石碑
高取城址の石碑
6. 最初に見つけた石垣
最初に見つけた石垣
7. 猿石
猿石
猿石は高取城ニの門の門外にあり、城下町に通じる大手筋と明日香村に通じる道筋の分岐点に位置しています。
花崗岩製で、耳は大きく、眼と鼻は円形、顔面は丸く平坦、右手をやや上げるといったユーモラスな姿です。高取城のイメージキャラクターといったところでしょうか。
飛鳥にも同様の猿石があり、飛鳥時代の製作と考えられています。高取城築城時に掘り出したものを石材として運ぶ途中にこの場所に置かれたようです。
8. 二の門跡と水掘
二の門跡
二の門跡の石垣
水堀
水堀と石垣
二の門から先が高取城の主要部になります。二の門の外側には山城には珍しい水堀があります。実際には堀というよりは池といった感じですが、これだけの標高の山城に水掘がある事自体に驚かされます。
9. 国見櫓からの眺め
国見櫓からの眺め
国見櫓からは北西方面を一望することができます。高取城で最も見晴らしが良い場所で、名前の通り大和の国を一望することができます。天気がよければ六甲山や大阪市内のビル群も見えるそうです。
本丸からは南方面を見ることができますが、山ばかりなので、風景を楽しむならこちらがおすすめです。
10. 矢場門跡
矢場門跡
11. 松ノ門跡
松ノ門跡
12. 宇陀門跡
宇陀門跡
13. 千早門跡
千早門跡
14. 大手門跡
大手門跡
大手門跡の食い違い虎口
大手門は織豊期の城に多く見られる食違い虎口となっています。高取城では城門のほとんどが門内で左に折れる、食違い虎口となっています。
このあたりまで来ると石垣の石材も大きく、積み方も丁寧になってきます。
15. 十三間多門跡
十三間多門跡
十三間多門跡の礎石
十三間多門跡の谷積み石垣
大手門の次には十三間多門があります。大手門や他の門と同様に左折れの食い違い虎口になっています。門の礎石も確認することが出来ました。
また、内側の石垣の一部が江戸時代後期に見られる谷積みとなっており、おおよその修築年代を推測することができます。
16. 十五間多門跡
十五間多門跡



17. 新櫓跡と太鼓櫓跡
二の丸から見た新櫓跡と太鼓櫓跡の石垣
内側から見た新櫓跡と太鼓櫓跡
十三間多門を抜けると大きな曲輪に出ます。ここが二の丸で、まず新櫓と太鼓櫓の石垣が目に入ります。古絵図によるとどちらも二重櫓だったようです。 二枚目写真は内側から見たもので、石垣の左隅に新櫓、右隅に太鼓櫓がありました。
18. 上の門跡
上の門跡の礎石
19. 本丸石垣北面
本丸石垣北面
本丸下の帯曲輪から本丸北面の石垣を撮影しました。右隅が天守台になります。古絵図によると、左隅には二重櫓があったようです。
20. 本丸食い違い虎口
本丸食い違い虎口
本丸から見た本丸食い違い虎口
本丸唯一の出入り口です。古絵図によると他の門より堅固な造りとなっており、この虎口には三つの門があり、S字を描いて本丸に入ります。
高取城ではほとんどの石垣がそのまま残っているため、古絵図と現状がピタリと一致し、登城の手助けとなります。

21. 天守台
北西から見た天守台
城の地図:撮影対象5
本丸から見た天守台
高取城の天守は本丸の北西隅に位置します。層塔型の三重天守で、穴蔵が確認出来ました。また、天守台の手前には本丸唯一の井戸の跡があります。(二枚目写真手前の穴)
本丸の南西隅には同じく層塔型の三重小天守がありました。

22. 本丸石垣南東隅
本丸石垣南東隅
23. 壺坂口中門跡
壺坂口中門跡
24. 五百羅漢
五百羅漢
城の地図:撮影対象6
25. 壷阪寺
壷阪寺
城の地図:撮影対象7
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