KemaAkeの全国城めぐり
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洲本城
すもとじょう
別名三熊城 搦手から見た模擬天守
形態山城
築城年と築城者16世紀前半 安宅氏
主な城主脇坂氏
住所兵庫県洲本市小路谷1272-2
アクセス 洲本バスセンター
↓徒歩(約15分)
登城道入口

洲本バスセンターから三熊山登山道入口までの道順は城の地図をご確認ください。
概要
淡路島の中心地、洲本の三熊山(標高133メートル)に築かれた山城。 山上の「上の城」と山麓の「下の城」を東西二つの登石垣でつなぐ。 山上の上の城は総石垣で固められ、縄張りは戦国時代の城郭様式を残しており石垣は天正・文禄・慶長の変遷をたどることができる。

-----------歴史------------
●室町時代
永正・大永年間に安宅氏が築城。
●安土桃山時代
天正9年(1581)安宅清康、織田軍に降伏し開城。
天正10年(1582)仙石久秀が入城。
天正13年(1585)脇坂安治が入城。
文禄1年(1592)脇坂安治による大改修。天守や登石垣が整備される。
●江戸時代
慶長15年(1610)池田忠雄の由良城入城にともない廃城。
寛永12年(1635)稲田示稙が由良城から洲本城に移転。
●明治時代以降
明治5年(1872)廃藩置県により廃城。
昭和3年(1928)模擬天守が築かれる。
平成23年(2011)模擬天守が老朽化のため立入禁止となる。
遺構 普請:曲輪、堀、石垣、登石垣など
作事:御殿が一部移築現存
天守:鉄筋コンクリート製、昭和3年(1928)築の模擬天守
登城日2022年7月23日
おすすめ度☆☆☆☆☆
感想など
・アクセス
淡路島ということで電車は一切走っていませんが、大阪・神戸方面および徳島方面からの高速バスが洲本バスセンターに多数発着しているためアクセスはしやすいです。
私は徳島駅から淡路バスに乗車しましたが、高速バスであるにも関わらず予約なしの降車時現金払いで、ほぼ路線バスであることに驚きました。 帰りも淡路バスで神戸三宮に向かいましたが、こちらも予約なしで乗車でき交通系ICカードも利用できました。
洲本バスセンターからは南方面に三熊山と洲本城の模擬天守を望めるため、方向に迷うことはないでしょう。
洲本バスセンターから三熊山登山道入口まではほぼ一直線で徒歩15分ほどです。 途中の山麓居館部跡には淡路文化資料館があり、ここには続日本100名城スタンプが設置してあります。

・感想
今回とある事情で香川県に行くことになり、せっかくなので淡路島経由で帰ってみようということで洲本城に立ち寄りました。 洲本城というと現存最古の特徴的な模擬天守が思い浮かび、ちょっと色物的なイメージでいましたがこのイメージは大きな誤りでした。
山上の上の城には天正期から慶長期にかけての比較的古い石垣がこれでもかと残っており、各曲輪も比較的小規模でその輪郭も曲線が多く、戦国期の山城を総石垣に改修した様子がよくわかります。
天守台からの眺めはまさに絶景で、洲本の街と大阪湾を一望でき、双眼鏡を使うと遠く大阪の高層ビル群も確認できました。この絶景のためだけに登城する価値ありです。
上の城の雰囲気は竹田城津和野城によく似ていますが、海を望めることが大きな違いです。 海と石垣の組み合わせは見栄えがよく、しっかりと整備をすれば竹田城や津和野城に匹敵する「天空の城」になれるポテンシャルを秘めていると感じました。
今回は時間がなく隅々まで廻ることができませんでしたが、いつか涼しい時期に必ず再登城したいと思います。

登城記
1. 洲本バスターミナル〜三熊山登山道入口
撮影場所1 三熊山遠景
三熊山遠景
撮影場所2 淡路文化資料館と天守
淡路文化資料館と天守
下の城跡の石垣
下の城跡の石垣
撮影場所3 三熊山登山道入口
三熊山登山道入口
洲本バスターミナルからは南に三熊山と山頂の模擬天守を望遠できるため、その方向へ県道76号線をまっすぐ15分ほど歩くと三熊山登山道入口があります。 登山道入口の両脇には夢海游という大きなホテルがありこれが目印になります。
登山道入口までの途上には「下の城」と呼ばれた山麓居館部跡があり、現在は淡路文化資料館や神戸地方検察庁の敷地となっています。 下の城は蜂須賀氏によって大改修された政庁部分で、藩政時代には「御殿」と呼ばれていました。 北側石垣と水堀、北東隅、北西隅の櫓台が残っています。 その石垣は切込接で、打込接や野面積が用いられた山頂部の上の城とは著しく異なっており、より新しい時代のものであることがわかります。
2. 三熊山登山道入口〜八王子木戸跡
登山道脇の石垣
登山道脇の石垣
中務母義の郭石垣
中務母義の郭石垣
十二支神社と本丸石垣
十二支神社と本丸石垣
撮影場所4 八王子木戸跡
八王子木戸跡
三熊山登山道は山麓の城下町から上の城に続く最短経路で、コンクリート舗装こそされていますが登山道ということで道幅はかなり狭いです。 登山道途中では木々の間に当時の石垣が残されており山城らしさが感じられ、登山道入口から八王子木戸跡までは15分ほどで到着します。
八王子神社は本丸の北東、鬼門にあたる場所にあり安宅氏が洲本城を築城する際に勧進した神社です。 八王子神社をすぎると登山道脇にずらりと並ぶ十二支神社に少しドキッとします。これまで登城したお城でこれだけの数の社がずらりと並ぶ光景は初めてでした。
このあたりから本丸石垣を見ると北東隅が鬼門除けとして切り欠かれていることがわかります。
3. 東の丸周辺
東の丸周辺石垣その1
東の丸周辺石垣その1
東の丸周辺石垣その2
東の丸周辺石垣その2
二段の郭
二段の郭
二段の郭から見た本丸
二段の郭から見た本丸
八王子木戸跡脇の石垣には改修による石垣の継ぎ足しが確認できます。
八王子木戸跡をすぎると多数の曲輪からなる東の丸に到着します。 北側の二段になった方形の郭と、南側の用水池(日月の池)が特徴で、洲本城でも最大規模の曲輪です。
二段の郭は小高い丘の上に低い石垣を巡らしており、大阪湾・紀淡海峡が広く眺望できることから、海上の監視や狼煙台などに使用されていたと考えられています。 南東隅の石垣は野面乱積で、隅石は不揃いで稜線も鈍く、隙間を埋めるための挟石も見られ、天正時代に遡る洲本城最古の石垣と考えられています。
4. 本丸大石段周辺
撮影場所5 本丸大石段への通路
本丸大石段への通路
未発達の算木積
未発達の算木積
撮影場所6 本丸大石段
本丸大石段
本丸南面石垣
本丸南面石垣
撮影場所7 本丸南西隅石垣
本丸南西隅石垣
撮影場所8 南の丸雁木
南の丸雁木
東の丸から本丸への間にはいくつかの帯曲輪や南の丸があり、それらの石垣を見ることができます。

山頂部、上の城の石垣は洲本城でも古い石垣郡ですが隅石を観察すると徐々に算木積の完成度が上がっていることがわかります。
本丸大石段への通路の石垣は長細い石材が入手できたので互い違いに置いてみたというレベルですが、 本丸搦手虎口の石垣は隅石を少し加工して整えているようです。 同時期に作られ石垣であれば重要度によって少し手抜きをしていたのかもしれません。

本丸南東には本丸大石段があり本丸虎口へ続いています。 本丸の大手口として関ヶ原の戦い以降に構築されたものと考えられ、見栄えを重視した幅6.5メートルの堂々とした造りになっています。

本丸大石段の南には南の丸があり、石塁へ上がるための雁木が残っています。 この雁木脇の石垣は私が確認した洲本城の石垣の中でも、最も算木積が未発達なものでした。 積石も綺麗で草木も映えていないため、最近修復された石垣かもしれません。
5. 本丸周辺
搦手から見た模擬天守
搦手から見た模擬天守
撮影場所9 搦手虎口
搦手虎口
搦手虎口と模擬天守
搦手虎口と模擬天守
本丸石塁と雁木
本丸石塁と雁木
模擬天守
模擬天守
模擬天守から見た本丸
模擬天守から見た本丸
撮影場所10 天守台からの眺望
天守台からの眺望
明石海峡大橋望遠
明石海峡大橋望遠
上の城の西端、城内最高所に位置する本丸は70メートル四方ほどの規模で、城下からもよく見える北面に天守台が位置しています。 天守台は東西に長細く、西端に天守、東端に小天守を設け、その間を渡り櫓でつなぐ連結式天守でした。
洲本のシンボルとなっている特徴的な模擬天守は昭和3年(1928)に昭和天皇の即位式を記念して市民の寄付により建てられた鉄筋コンクリート製で、 模擬天守としては日本最古のものです。鉄筋コンクリート製の天守としては大阪城天守より古く90年以上の歴史を誇り、立派な文化遺産となっています。 現在は老朽化のため建物内は立入禁止となっています。
天守台からは大阪湾を一望でき双眼鏡を使えば大坂のビル群や明石海峡大橋を望むことができます。 まさか明石海峡大橋が見えるとは思いませんでしたが、さすが世界最大級の吊り橋です。 真夏の登城でしたが、模擬天守下の日陰では海から吹き抜ける風でしばし暑さを忘れることができました。

本丸には大手となる本丸大石段から続く本丸虎口と、搦手から続く搦手虎口の二つの虎口があります。 洲本城の大手口は城下とは反対側、三熊山南側に位置していますが、城下からの登城道を考えると搦手虎口のほうが大手としてふさわしいように思えます。 実際、現在の大手口は脇坂安治時代の絵図には描かれておらず、いつ、何のために作られたか不明であり、関ヶ原の戦い以前は搦手虎口が本丸大手であったと考えられています。
6. 武者溜周辺と東登石垣
撮影場所11 東二の門跡
東二の門跡
東の丸高石垣
東の丸高石垣
石垣と大阪湾
石垣と大阪湾
撮影場所12 東登石垣
東登石垣
武者溜は東の丸を挟んで本丸の反対側、上の城の東端に位置する広大な曲輪です。 その名前の通り城兵を待機させる曲輪で、周囲は低い石垣で囲まれ鎬隅(鈍角の折れ)も多く見られます。 武者溜まりからは東の丸西面の高石垣や麓に続く東登石垣を見ることができます。

洲本城は西と東に山麓まで続く登石垣を設けていることが特徴で、この登石垣によって下の城と上の城を一体化して防御を固めています。 登石垣は文禄・慶長の役での倭城の技法を生かしたもので、脇坂安治の手によるものです。
洲本城の案内図を見ると西登石垣は搦手に続く登山道の脇にあることから見どころとして載っているのですが、登城したときは残念なことに補修工事中で通行止めとなっていました。
どうしても洲本城名物の登石垣が見たいということで、本丸休憩所の方に伺ったところ、東登石垣が見える武者溜まりのあたりまで10分近く歩いて案内してくれました。 おかげで案内図にも載っていない少しレアな東登石垣を上部から確認することができました。
西登石垣は登山道の脇にあり木々に覆われ薄暗いようですが、東登石垣は間近に確認できないかわりに山麓と一緒に写真に納めることができます。 そのため登石垣らしさがよくわかり良い写真が撮れました。

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