KemaAkeの全国城めぐり

大和郡山城 やまとこおりやまじょう
別名 冠山城
形態 平山城
築城年 天正8年(1580)
築城者 筒井順慶
主な城主 筒井氏、豊臣氏、柳沢氏
所在地旧国名 大和
所在地 奈良県大和郡山市城内町
アクセス 近鉄橿原線、近鉄郡山駅
↓徒歩(役10分)
追手門
アクセスのしやすさ ☆☆☆☆☆
概要 ●雁陣之城時代
10世紀後半、郡山衆が雁陣の城を築いたという記録が残されている。
●筒井順慶時代
安土桃山時代になると大和は松永氏と筒井氏の攻防が繰り広げられ、国内の城も城主が目まぐるしく変わった。 最終的に天正8年(1580)に筒井順慶が織田信長の救援を受け大和守護となる。このとき織田信長により国内の城は郡山城以外は廃城とされた。 天正9年(1581)には明智光秀を普請目付として近世城郭化が行われた。
●豊臣氏時代
天正13年(1585)に豊臣秀吉の弟、秀長が大和、和泉、紀伊三ヶ国、100万石の領主として郡山城に入城した。 秀長は郡山城を100万石の居城として相応しいものとするため、城郭修築や城下町整備を急いだ。大和は石材が乏しい国のため、郡山城の石垣には仏塔などの転用石が多く用いられた。 文禄4年(1595)に大和大納言家(秀長の家系)が絶家となると、五奉行の一人増田長盛が入城した。長盛は城下町の外側に惣構え築き、郡山城はさらなる大城郭となった。 関が原の戦い後、増田長盛は改易となり郡山城の建物は伏見城に移築された。
●郡山城の戦い
大坂冬の陣の後、再びの決戦やむなしの流れの中、豊臣秀頼は郡山城主となっていた筒井定慶に合力を求めたが、定慶はこれを拒否した。そのため豊臣方は二千の兵で郡山城に進軍を開始した。 戦慣れしていない定慶軍は豊臣方の兵数を三万と誤解し、定慶は福住中定城へ早々に落ち延びた。しかし、豊臣軍は徳川軍が奈良方面へ進軍しているとの報を受けると大阪城に引き上げた。 大阪夏の陣で大阪城が落城すると、定慶は一戦もせず城を捨てたことを後悔し切腹した。
●江戸時代以降
郡山城の戦いの後、戦功のあった水野勝成が郡山城に入城し、荒廃した城の復興を行った。石垣や堀の修復は公儀普請として行われた。その後松平氏、本多死、柳沢氏といった譜代大名が城主を務めた。 明治6年(1873)に郡山城は破却され、城内の建物は入札によって売却されたが、石垣はほどんどがそのまま残された。
遺構 普請:石垣、堀
作事:なし
天守:なし
城内案内図など 城内案内図(1024x831)
登城日 2012/1/12

感想など
近鉄橿原線から間近に見ることができる大和郡山城は、近鉄郡山駅から歩いて10分たらずとアクセスは良いです。城内は内堀をぐるっと囲むように遊歩道が整備され、柳沢神社や柳沢文庫があります。

城の本やWebでの紹介を見ると、だいたい追手門の写真が掲載され、その他にはあまり見所はないのかなと思っていたのですが、期待以上の城でした。 追手門や櫓は復元されたものですが、下見板張りで古式な感じで好みです。また天守台に使用された多くの転用石も見所です。しかし、私が一番素晴らしいと感じたのは、本丸を囲む内堀でした。深さは20メートルくらい、幅も30メートルくらいはあるでしょうか。大袈裟に言えば、大阪城内堀にも引けを取りません。なかなか見応えがありました。

余談ですが、天守台からはかなり小さくですが、奈良の東大寺大仏殿や興福寺五重塔を見ることができました。

登城記
各写真をクリックすると大きな写真が表示されます。この画面に戻る場合はブラウザの戻るボタンを使用してください。各写真の下の番号は城の地図と対応しています。赤い番号は写真の撮影対象の場所を示し、青い番号は写真の撮影場所を示します。
1. 鉄御門跡
鉄御門跡
城の地図:撮影対象1
近鉄郡山駅から追手門へ向かうと、最初にあるのがこの鉄御門跡になります。鉄御門跡の内側は二の丸跡になりますが、現在はそのほとんどが郡山高校の敷地になっています。
2. 追手門と追手向櫓
追手門と追手向櫓
城の地図:撮影対象2
櫓門
追手門は外枡形を形成していますが、熊本城などに見られる枡形に高麗門を設けない古式なものです。現在の櫓門は昭和58年(1983)に秀長時代を想定して復元されたものす。 柱をそのまま見せる真壁造で、冠木には豊臣氏の家紋である五山の桐が金色に輝き、これぞ安土桃山文化といった雰囲気です。
枡形を挟んで櫓門の向側には追手門を守るための追手向櫓が建てられています。櫓は明治6年(1873)に取り壊されましたが、記録によると二重櫓だったようです。 昭和62年(1987)に復元され外観は下見板張りの望楼型で、これも秀長時代を想定して復元されているようです。
櫓門の金具
櫓門横から見た追手向櫓
3. 追手東隅櫓と続櫓
追手東隅櫓
城の地図:撮影対象3
続櫓と追手東隅櫓
線路越しに見た追手東隅櫓と続櫓
追手向櫓と追手東隅櫓
追手門の櫓門と並んで追手東隅櫓が建てられています。古絵図によると櫓は二重で、郡山城では一番小さい櫓だったようです。隅には石落を設けています。 他の古絵図では今太鼓櫓と記載されているものもあり、太鼓を叩いて時刻を知らせるための太鼓櫓として使用されていたようです。 昭和59年(1984)に復元されました。続櫓については特に説明が見当たらなかったのですが、おそらく同時に復元されたものでしょう。
4. 内堀
内堀1
城の地図:撮影対象4
折れが続く内堀石垣
内堀越しに見た本丸と天守台
内堀2
本丸を囲む内堀は100万石の居城に相応しく立派なものです。規模の大きいところでは深さは20メートル、幅は30メートルくらいあるでしょうか。織豊期の城らしく鈍角の折れを多用した野面積みの石垣で構成されています。
5. 柳沢神社の鳥居と竹林橋跡
柳沢神社の鳥居と竹林橋跡
城の地図:撮影対象5
現在本丸には明治13年(1880)に創建された柳沢神社があります。祭神は享保9年(1724)に甲斐甲府藩から転封された柳沢吉里の父で、徳川綱吉の側用人として有名な柳沢吉保です。 柳沢吉里以後、明治維新まで柳沢氏が郡山城主を努めました。竹林橋は本丸南側の入り口で、奥には竹林門がありました。現在は写真のように柳沢神社の鳥居が立てられ、神社の参道になっています。
6. 天守台
天守台
城の地図:撮影対象6
天守台北面の転用石
南北に細長い本丸の北側に天守台があります。秀長時代には五重天守が建てられていたと伝えられていますが、規模があまり大きくないため、実際にはもう少し小さな天守だったのではないかと考えられています。 天守台には仏塔や墓石、果ては平城京羅生門の礎石などの転用石が多く使用され、特に北面では相当な数を確認することができます。なかでも特徴的なものが「さかさ地蔵」で、地蔵菩薩立像が逆さに、石垣に差し込むように積み込まれています。 さかさ地蔵の隣には多くの石仏が置かれており、これらは野仏や都市開発工事で掘り出されたものが徐々に運ばれたものだそうです。
さかさ地蔵
天守台から見た追手門方面
7. 柳沢文庫
柳沢文庫
城の地図:撮影対象7
城内毘沙門郭跡には柳沢文庫があります。柳沢文庫は最後の郡山藩主柳沢保申(やすのぶ)の跡を継いだ保恵(やすとし)が郷土の教育振興のため、所蔵する書籍等を公開したことに始まります。昭和35年(1960)に柳沢保承(やすつぐ)によって財団法人となり、翌年秋に現在の地に開設されました。 城跡の保存管理も柳沢文庫が行なっています。建物は御殿風の車寄せが目を引き、内部は郡山城に関する資料を展示しています。入場料は大人200円、学生100円です。私が行ったときはオマケ(?)で絵はがきセットを頂きました。
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