感想など
登城日の午前中は台風並みの大雨で、この状態で城に行く気力が持つか心配でしたが、時間稼ぎをしつつ大分に入ると並の雨になっており、無事登城ができました。
府内城へのアクセスはJR大分駅から徒歩20分ほどですが、真っ直ぐで幅の広い道路が多いためか遠く感じました。
他の市街地の中にある城と同様に外堀は埋め立てられ市街地となっています。
内堀も大分県庁や文化会館の用地確保のために埋め立てられ、現在は中堀を残すのみとなっています。
天守台の石垣は野面積みの非常に古式なもので堀側から見るとかつてそびえていた四重天守を思い浮かべることができます。
また、天守台の算木積と櫓台の打込接や算木積を比べるとこの天守台の古式さをより実感できます。
しかし、かなり改変がされているようで、特に本跡から見た天守台は荒れている印象を受けました。
多重櫓も三棟が外観復元されていますが、手入れがあまり行き届いていないようで、屋根瓦の隙間から草が生えていました。
なお現存建物の宗門櫓は、保存修理工事中でシートで覆われておりその姿を見ることができませんでした。残念。
せっかくの日本100名城であり、昨今の城ブームも踏まえ、もっと整備に力を入れればより一層魅力的な城になると感じました。
登城記
1. 大手門と着到櫓
大手門と着到櫓
大手門と仮想天守
内側から見た大手門
内側から見た着到櫓
・大手門
大手門は二の丸南面のほぼ中央に位置しており多門櫓門とも呼ばれていました。
重要な建物でありながら格式の低い切妻造で、妻面に火燈窓を設けるなど他の城の門には見られない少々変わった外観をしています。
この火燈窓も窓の中央に間柱を設けており、このような形の火燈窓も他の城には見られないものです。
現在の建物は大分空襲で焼失したものを昭和40年(1965)に鉄筋コンクリートで再建したものですが、細部の意匠は古写真とは異なっています。
・着到櫓
着到櫓は東丸(二の丸)の南西隅に位置する二重櫓です。
二重櫓ではありますが、曲輪を堤防状に囲む武者走の上に建っており、内側からみると重数が一つ増えて見えます。
他の城では櫓部分の武者走りの幅を広げ櫓を建てるのが一般的ですが、府内城ではこの着到櫓と同様に武者走の幅を広げずにほとんどの櫓が建てられていました。
この櫓の構造も府内城の特徴と言えます。残念ながら昭和40年(1965)の再建時にここまでは再現されず、鉄筋コンクリートの柱で代用しその上に二重櫓が載った形となっています。
そのため内側から見ると少々間の抜けた見栄えになっています。
・仮想天守
府内城の仮想天守は寛保3年(1743)に消失した天守をライトアップで再現するイベントのため、期間限定で登場したものです。
ライトアップということで昼間は骨組みだけとなりますが高さは石垣部分も含め29メートルあり、実際の天守とほぼ同じ高さのようです。
天守台の保護のためか天守台の上には建てられていませんが、かつての府内城天守の姿を想像する助けとなります。
ちなみにこのイベントが好評であれば今後も仮想天守が登場するかも知れないとのことです。
2. 南東隅二重櫓と三重櫓の石垣
南東隅二重櫓
内側から見た南東隅二重櫓
南東隅二重櫓と三重櫓の石垣その一
南東隅二重櫓と三重櫓の石垣その二
南東隅二重櫓は東丸(二の丸)の南東隅に位置する櫓です。もともとは平櫓でしたが昭和40年(1965)の再建時に二重櫓として再建されました。
そのためか櫓台が小さく、その上に無理やり二重櫓を建てたようになっています。
南東隅二重櫓のすぐ北には三重櫓の石垣が残っています。三重櫓は府内城では天守に次ぐ大型の櫓で、他の櫓と同様に内部から見ると重数が一つ増え四重になっていました。
最上階に高欄付き廻縁が設けられており小天守に相当する櫓だったようです。
昭和40年(1965)にに隣の平櫓を二重櫓にするのではなく、こちらを復元していれば史実にも忠実で、さらに見栄えも良かったと思いましたがいろいろと都合があったのでしょう。
3. 北東隅二重櫓
北東隅二重櫓
北東隅二重櫓東面
北東から見た北東隅二重櫓
内側から見た北東隅二重櫓
北東隅二重櫓は東丸(二の丸)北東に位置する二重櫓です。
武者走りも櫓に合わせて幅が広く造られており、府内城では珍しく外側と内側で重数が一致する櫓です。
櫓台を見ると算木積みを志向しながらも、まだまだ未発達の様子を見ることができます。
4. 帯曲輪と人質櫓
帯曲輪から見た本丸
人質櫓
人質櫓西面
内側から見た人質櫓
帯曲輪は本丸の東側、府内城で最も幅の広い堀を挟んで設けられた曲輪でした。帯曲輪の外側は大分川河口の湿地帯で、天然の要害となっていました。
現在府内城の堀幅はあまり広くはありませんが、かつては総じていまより幅が広かったようです。また堀の内側の犬走りもかつてはなかったようです。
人質櫓は本丸北西隅、天守のすぐ北側に位置する二重櫓で、府内城に残る数少ない現存建物の一つです。
この櫓も府内城の一般的な櫓とは異なり、武者走りの幅を広げその上に建てられているため、外側と内側で重数が一致します。
寛保3年(1743)の大火をまぬがれ、文久1年(1861)に再建されたもので、規模も築城当時の記録と一致していることから、府内城当初の櫓の姿を踏襲していると考えられています。
5. 廊下橋
廊下橋
廊下橋内部
廊下橋本丸側入口
東から見た廊下橋
この廊下橋は西丸(二の丸)と山里丸を結んでおり、平成8年(1996)に復元されました。
古絵図には大手門前に檜皮葺屋根で白漆喰塗壁の廊下橋が描かれておりその姿をもとにしています。
かつて府内城には西丸(二の丸)から山里丸、東丸(二の丸)から本丸、大手門前の三ヶ所に廊下橋が設けられていました。
これだけ廊下橋を多用し、大手門の前に廊下橋を用いているのは珍しいのではないでしょうか。
廊下橋は城内から橋の上の敵を攻撃できず実戦には不向きとされていますが、格式は高く府内城の性格を表しているとも言えそうです。
6. 本丸周辺
北二重櫓台と天守台
北二重櫓台
天守台から見た北二重櫓台
南西から見た天守台
北東から見た天守台
北二重櫓台から見た天守台
人質櫓と北二重櫓台
大分県庁展望ロビーから見た府内城
府内城の本丸は内堀が埋め立てられたため西丸(二の丸)、東丸(二の丸)と一続きの広大な空間となっています。
本丸内で天守曲輪を構成していた石垣も失われており、当時の様子を残しているのは天守台と北二重櫓台、これらをつないでいた多門櫓の石垣のみです。
これらの石垣も崩れている部分があり、木の根が張るなどかつての天守曲輪の威容を想像するのは難しい状態です。
・天守台と北二重櫓台
天守台は本丸のほぼ中央に位置し、天守曲輪の北東に位置していました。
石垣は自然石を積み上げた野面積み、隅は算木積みになっておらず、隅石の後方が平石の下に入るなど古式な造りになっています。
天守は四重四階の層塔型で、一階の平面規模は14.4メートル×12.6メートルで四重天守にしてはやや小振りなものでした。
最上階には高欄付き廻縁が設けられていましたが、これは装飾用のもので実際に外に出ることはできませんでした。
このような装飾用の高欄付き廻縁は
彦根城や
松山城でも見ることができます。
また最上階には府内城の特徴の一つである間柱を立てた火燈窓が設けられていました。
府内城天守の創建については、関ヶ原の戦い語に入城した竹中重利によるものとされていました。
しかし竹中重利は三万五千石の外様大名で、四重天守を建てるのは経済力、格式に問題がありました。
そのため福原直高によって築かれた天守を改築して層塔型天守にしたのではないかと考えられています。
福原直高は石高が十二万石、石田三成の妹婿でもあるため、経済力、格式ともに四重天守を建てるに十分でした。
これは天守台の古式な造りからも裏付けられます。
北二重櫓は天守の西に多門櫓で接続された大型の二重櫓でした。その規模からすると小天守のように見えたのではないでしょうか。
府内城の南にある大分県庁新館14階の展望ロビーからは府内城を一望に見下ろすことができます。
7. 本丸西面
廊下橋と二重櫓跡
北西から見た西南隅櫓
西南隅櫓西面
西南隅櫓と宗門櫓
・西南隅櫓
西南隅櫓は西丸(二の丸)の南西隅に位置する二重櫓で、着到櫓と同様に大分空襲で焼失したものを昭和40年(1965)に鉄筋コンクリート復元したものです。
・宗門櫓
宗門櫓は人質櫓とともに現存する江戸時代の櫓です。外側から見ると平櫓に見えますが、府内城の他の櫓と同様に内側から見ると重数が一つ増え二重櫓となっています。
寛保3年(1743)の大火をまぬがれ、安政6年(1859)に再建されたものですが、築城当初の規模や工法を引き継いでいます。
私が登城したときは保存修理工事が行われており、建物全体が足場とシートに囲まれておりその姿を見ることはできませんでした。
城の地図
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