KemaAkeの全国城めぐり
佐伯城
さいきじょう
別名鶴屋城、鶴ケ城、塩屋城 三の丸櫓門
形態山城
築城年慶長7年(1602)
築城者毛利高政
主な城主毛利氏
所在地旧国名豊後
所在地大分県佐伯市大手町大手町など
アクセス JR佐伯駅
↓徒歩(約20分)
三の丸櫓門
概要
関ヶ原の戦い以降に築城された最後の山城とされる。 標高144メートルの八幡山の尾根伝いに本丸を中心とした主郭部を総石垣で設け、山麓の三の丸に御殿を置いた。 縄張りを手がけた市田祐定は安土城の築城にも関わっており、そのためか佐伯城も安土城にも共通する織豊系城郭の特徴を持つ。

-----------歴史------------
・慶長7年(1602)、毛利高政が築城を開始。
・慶長11年(1606)、築城が完了する。
・元和3年(1617)、失火により本丸と天守が焼失する。
・寛永14年(1637)、麓に三の丸を増築し御殿を移す。
・宝永6年(1709)、天守以外の建物が再建される。
・明治4年(1871)、廃城。三の丸以外の建物が撤去される。
遺構 普請:石垣
作事:三の丸櫓門
天守:天守台のみ残る
城内案内図など 城内案内図(2000x1333)
主要部鳥瞰図(2000x1333)
登城日2018/5/3
おすすめ度☆☆☆☆★
感想など JR佐伯駅から佐伯城麓に位置する三の丸櫓門までは市街地のメインストリートをひたすら歩いていくのですが、一本道なため徒歩だとかなり遠く感じました。 徒歩20分としましたがゆっくり歩くと25分は覚悟したほうが良いかも知れません。

大分県内で鉄道のみで行きやすい城はないかと検討しての佐伯城への登城でしたが、ほとんど下調べをせずに行きました。 そのため市街地の中の小高い丘に位置する城をイメージしていたのですが、思った以上に本格的な山城で驚きました。 正直あまり期待値の高くなかった城なのですが、総石垣の曲輪群には良い意味で期待を裏切られました。 小振りながらも素晴らしい城です。周りの木々を伐採すれば、第二、第三の天空の城になるのではないかと思います。 私の好きな織豊系城郭の香りが濃いのもグッドです。
城ファン以外にも自信を持っておすすめできるお城です。 続日本100名城にも選ばれたので、今後山頂部の案内板等の整備が進むことを期待しています。

余談ですが佐伯は港町でもあり魚がとても美味しかったです。 また九州に訪れたら是非とも再訪したい街です。
登城記
1. 三の丸とその周辺
撮影場所1 佐伯城遠景
佐伯城遠景
撮影場所2 毛利家御居間
毛利家御居間
三の丸櫓門と八幡山
三の丸櫓門と八幡山
三の丸櫓門正面
三の丸櫓門正面
撮影場所3 三の丸櫓門
三の丸櫓門
三の丸櫓門裏面
三の丸櫓門裏面
撮影場所4 主郭部への登り口
主郭部への登り口
「登城の道」入口
「登城の道」入口
佐伯城は大きく分けて八幡山山頂の主郭部と山麓の三の丸に分かれています。 現在、三の丸には佐伯文化会館、三の丸周辺には佐伯市歴史資料館や小学校などが建てられています。 佐伯文化会館の北側に少し歩くと、主郭部への登り口の目印である鳥居があります。 この鳥居から先は道が二手に分かれますが、おそらく正面に続く「登城の道」がかつての大手道にに当たるのではないかと思います

・毛利家御居間
毛利家御居間は13代当主・毛利高範が子爵として明治時代に暮らした屋敷の一部で、発見された棟札から明治23年(1890)に建築されたと考えられています。 屋敷は昭和50年(1975)に御居間と次の間のみを残して建て替えられました。 佐伯市歴史資料館を整備するに当たり、建物を保存・公開するため解体修理を行い、当初の姿に復原されました。 江戸時代の遺構ではありませんが佐伯藩主毛利家にちなんだ貴重な建物です。

佐伯城は築城から廃城まで一貫して「毛利家」の城でした。ちなみにこの毛利家、もともとは「毛利」ではなく「森」家でした。 初代藩主高政の最初の名前は森友重で羽柴秀吉の直参でした。 中国大返しの際の停戦条件で人質として毛利家に送られましたが、この人質期間中に毛利輝元に気に入られ、「森」と「毛利」で音も似ていることから、後に輝元から改姓の申し出があり毛利高政と名乗るようになりました。 そのため佐伯藩は「もう一つの毛利家」とも呼ばれています。 毛利といえば鎌倉幕府初代別当、大江広元を先祖にもつ名門。その性を名乗ることを許されたというのはかなり凄いことではないでしょうか。

・三の丸櫓門
三の丸櫓門は黒門とも呼ばれ、寛永14年(1637)に三代藩主毛利高尚による三の丸増築の際、藩庁の正門として創建された渡櫓門です。 享保11年(1726)に再建、天保3年(1832)に改築されていますが、創建当初の姿をとどめているとされています。 三の丸には昭和45年(1970)まで御殿の一部が残されていましたが、現在は佐伯文化会館が建てられています。 佐伯城の城郭建築としては唯一現存するもので、大分県の有形文化財に指定されています。
2. 本丸入口
撮影場所5 本丸入口その一
本丸入口その一
本丸入口その二
本丸入口その二
撮影場所6 廊下橋
廊下橋
本丸入口から見た二の丸石垣
本丸入口から見た二の丸石垣
麓から続く登城の道を15分ほど登ると本丸入口に至り、木の間から主郭部の石垣が見えてきます。まるで古代遺跡を発見するようなこの瞬間は山城ならではの醍醐味です。

主郭部は最高所の本丸を中心に北側に北出丸、西側に二の丸、西出丸が続き、東側に石垣のない捨曲輪を配置しています。 この縄張りは鶴が翼を広げたような形をしていることから、鶴屋城や鶴ケ城といった別名の由来になっています。 山頂の尾根伝いに細長い曲輪を連郭式に配置した中世的な縄張りですが、総石垣造りであることが近世城郭であることを示しています。 現地の鳥瞰図によると最盛期には天守を始め、二重櫓が五棟、渡櫓門が二棟、その他多くの櫓や門が林立していたようです。
3. 北出丸周辺
北出丸と食い違い虎口
北出丸と食い違い虎口
撮影場所7 水の手門跡
水の手門跡
撮影場所8 北出丸二重櫓跡
北出丸二重櫓跡
北出丸から見た本丸方面
北出丸から見た本丸方面
北出丸から見た本丸 撮影場所9
北出丸から見た本丸
天守曲輪石垣隅
天守曲輪石垣隅
撮影場所10 北側から見た廊下橋
北側から見た廊下橋
天守曲輪石垣
天守曲輪石垣
北出丸は佐伯城の北東に張り出した南北に細長い曲輪です。 食い違い虎口によって本丸と区切られ、この虎口には渡櫓門が設けられていました。 本丸との虎口の他に水の手門があり、水の手門の先、尾根と尾根の間には雄池と雌池と呼ばれる貯水池があります。 これらは籠城の際の水源であり、佐伯城が実戦を想定したものであることがわかります。貯水池の遺構が現存しているのは全国的にも珍しいです。
北出丸の北端には北出丸二重櫓跡があり、礎石ではなく石敷き状の遺構を確認できました。 北出丸方面から天守曲輪西側の石垣角を観察すると退化した算木積みを確認できます。 天守曲輪は宝永6年(1709)に改修されておりそのころの石垣と思われます。 佐伯城が築城された頃は慶長の築城ラッシュで、石垣を始めとした築城技術が頂点に達していました。 しかし一国一城令のもと新規築城が行われることはなくなり築城技術は退化していきました。 この石垣隅にもその様子が現れているようです。
4. 二の丸
二の丸
二の丸
二の丸から見た本丸
二の丸から見た本丸
撮影場所11 二の丸虎口その一
二の丸虎口その一
二の丸虎口その二
二の丸虎口その二
二の丸は本丸の西側に位置しており、東西から南北に折れ曲がるL字状の曲輪です。 鳥瞰図によるとかつては二重櫓や平櫓、二の丸居館といった建物があったようです。 本丸とは堀切によって分断され、天守曲輪とは廊下橋によって接続されていました。この廊下橋は橋の部分のみ復興されています。 二の丸南端は西出丸に続いており、西出丸との境目は急勾配の石畳が敷かれた虎口となっており、渡櫓門が設けられていました。
5. 西出丸
西出丸
西出丸
戦時中の砲台跡か
戦時中の砲塔跡か
撮影場所12 西出丸二重櫓跡
西出丸二重櫓跡
撮影場所13 大門跡
大門跡
西出丸は佐伯城の南西に張り出した南北に細長い曲輪で、二の丸の南に一段低く位置しています。 鳥瞰図によるとかつては曲輪の南端に二重櫓があったようで、二重櫓の跡と思われる石敷き状の遺構が残っています。 この二重櫓跡からは南への眺望が開け、佐伯の市街地を流れる中江川や番匠川を見ることができます。 東側には大門跡の階段や礎石が残っており、この遺構からすると大門は小さな冠木門あるいは棟門だったようです。
西出丸で他に目を引くのは地面に空いた浅くて大きな丸い穴です。内側はレンガで固めてあり、機銃や高射砲の旋回砲台跡のようでした。 案内板はありませんでしたが、戦時中佐伯には海軍航空隊が置かれていたらしく、見晴らしの良いここに高射砲があった可能性がありそうです。
6. 本丸周辺
天守曲輪石垣
天守曲輪石垣
撮影場所14 天守曲輪石垣の隅
天守曲輪石垣の隅
撮影場所15 廊下橋と天守曲輪虎口
廊下橋と天守曲輪虎口
天守曲輪から見た北出丸
天守曲輪から見た北出丸
天守台
天守台
天守曲輪から見た二の丸
天守曲輪から見た二の丸
撮影場所16 本丸二重櫓跡
本丸二重櫓跡
本丸二重櫓跡からの眺め
本丸二重櫓跡からの眺め
佐伯城の本丸は中心に巨大な天守曲輪があり、さらにその内側に天守台が設けられています。 本丸を本丸外曲輪、天守曲輪を本丸と呼ぶこともあるようです。 現在、天守曲輪の東側中央には巨大な階段がありますが、これは後世に造られたものです。 かつては西側の二の丸から廊下橋を通る以外に天守曲輪に入る方法はありませんでした。
天守曲輪の石垣は毛利高慶が宝永年間(1704〜11)に大改修したもので、東側の角は一般的な算木積みではなく丸く積み上げられています。 この石垣は最上部まで反りが続き、少し外側に張り出しており、よく崩れないものだと感心させられます。 使用されている石材も相まってどことなく沖縄のグスクを彷彿とさせます。 対して天守曲輪西側の角は一般的な角となっています。 本丸東側にはかつて冠水門があり、城下町方面にも開けているため見栄えを重視して趣向を凝らした積み方をしたのではないでしょうか。
天守台は高さ約1メートル、大きさは約13メートル×約15メートルほどで、現在は小さな祠が建てられています。 かつては三重天守が建っていましたが、礎石などは確認できませんでした。鳥瞰図によるとかつてはもう少し高さがあったようです。
本丸の東側には二重櫓跡が残されており、ここからは番匠川河口、佐伯湾を一望できます。



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