KemaAkeの全国城めぐり
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人吉城
ひとよしじょう
別名 球麻城、三日月城、繊月城 人吉城全景
形態 平山城
築城年と築城者 文安5年(1448)相良長続
天正17年(1589)相良長毎
主な城主 相良氏
所在地(旧国名) 熊本県人吉市麓町18-4(肥後)
交通 ・徒歩の場合
JR肥薩線 人吉駅
↓徒歩(約15分)
大手門跡

人吉までのアクセスについてはアクセスを参照してください。
概要
球磨川と胸川の合流点に築かれた平山城。文安5年(1448)の築城から廃藩置県までの約400年間相良氏が城主を努めた。同じ一族がこれだけの長期間にわたって城主を努めた例は珍しい。築城時は中世城郭らしい群郭式の縄張りであったが近世城郭化され石垣が多用される。幕末期に改修されたわずかな城にのみ見られる「はね出し」石垣がある。
-----------年表------------
●鎌倉時代
建久9年(1198)相良長頼が人吉に入る
●室町時代
文安5年(1448)相良長続が築城
●安土桃山時代
天正17年(1589)相良長毎が近世化改修を開始
●江戸時代
寛永16年(1639)近世化改修がほぼ完了
文久2年(1862)火事によって城内の建物がほぼ焼失(寅助火事)
●明治時代以降
明治4年(1871)廃藩置県により城内の建物が払い下げられる
遺構 普請:曲輪、石垣
作事:なし
天守:なし
登城日 2024年7月17日
アクセス
人吉駅からは球磨川を渡り徒歩15分程で大手門跡に到達するため最寄り駅からのアクセスは良好です。
ですが、肥薩線は2020年7月に発生した豪雨災害が原因で、2024年7月時点でも人吉駅を含む区間が不通となっており、鉄道で鹿児島や熊本から人吉駅にたどり着くことはできません。残念ながら復旧には相当な期間がかかるようです。
鉄道の代行手段として人吉駅までの乗合タクシーなども運行されていますが、肥薩線はもともと運行本数が少ないため便利とは言えないのが正直なところです。
そのため2024年時点では鹿児島中央駅や八代駅から出発する高速バスを利用を利用して人吉ICで下車、そこからタクシー等で人吉駅に至るのが現実的なアクセス方法かと思います。
感想
今回は100名城スタンプ集めのため九州の城をいくつかめぐったのですが、どうルートに組み込むか悩んだのがこの人吉城です。
当初は肥薩線の完全復旧後に鉄道乗りつぶしもかねて登城しようと思っていたのですが、なかなか復旧は進まず、場合によってはこのまま廃線ということもあり得ると考え、仕方なく鹿児島市内から高速バスで人吉に向かいました。
高速バスの場合、人吉の中心市街地から少し離れた九州自動車道の人吉ICに到着します。人吉ICから人吉駅までは歩くことも可能な距離ですが、流石に7月ということで暑すぎてキツいです。今回は高速バスの到着に合わせたのか、人吉ICにタクシーが停まっていたのでありがたく使わせてもらいました。人吉駅までの料金は1000円ほどでした。
私の場合、大きな荷物があったためコインロッカーを目指して人吉駅に向かいましたが、タクシーで人吉城に直行してもよいかと思います。

人吉城では武者がえしと呼ばれるはね出し石垣が有名ですが、丘陵部や中御門跡の石垣も見ごたえがあります。城内に建物は残っていませんが、胸川沿いには多門櫓や長塀が復元されており多聞櫓では合坂も見ることができます。極端な高石垣こそありませんが、広大な外曲輪と石垣で囲まれた丘陵部は典型的な平山城の趣を感じました。
なお外曲輪にある人吉城資料館も豪雨災害が原因で2024年7月時点でも休館中となっていますが、100名城スタンプについては人吉城資料館の裏に設置されています。
登城記
写真をクリックすると画像ファイルが表示できます。
1. 球磨川、胸川沿いから見た人吉城
人吉駅から15分ほど歩くと球磨川にかかる大橋にいたり、その先は球磨川と胸川の合流点になっています。球磨川は人吉盆地を流れ八代海に注ぐ一級河川、胸川はその支流です。球磨川を北堀、胸川を西堀、東と南は丘陵の斜面と崖を天然の城壁として人吉城は築かれました。大橋からは球磨川沿いの三の丸と本丸がある丘陵部を一望できます。さらに大手橋へ歩いていくと胸川沿いに築かれた石垣と角櫓、長塀、多門櫓を胸川越しに見ることができます。
撮影場所1 人吉城全景
人吉城全景
球磨川に架かる大橋から撮影。
胸川沿いの角櫓・長塀・多門櫓
胸川沿いの角櫓・長塀・多門櫓
前日の雨の影響のためか球磨川と胸川の合流点で水の色が異なっている。
2. 大手門跡、多門櫓、長塀、角櫓
・多門櫓、長塀、角櫓
外曲輪西側に位置する大手門跡の北側には多門櫓、長塀、角櫓が平成6年(1992)に木造復元されました。多門櫓は平二十五間、妻二間の長大な平櫓、角櫓は球磨川と胸川の合流点である外曲輪北西角に位置する平櫓で、いずれも古色な下見板張で突き上げ窓を設けています。多聞櫓と角櫓の間の長塀は海鼠壁となっており、二箇所に黒板張りの石落としがありアクセントとなっています。多門櫓は2020年7月の豪雨災害前は内部が公開されていましたが現在は公開中止となっています。

・大手門跡
胸川に面した大手門は内枡形門で胸川御門とも呼ばれていました。古絵図によると一の門は切妻造の渡櫓門で二の門は設けられていなかったようです。正面の大手橋からは直進できないよう門扉をずらした食い違いとなっており、左側に多門櫓、右側に土塀を設け三方から枡形を囲んでいます。外枡形からは胸川に降りるための石段、右側の石垣には土塀内側の武者走りに登るためのコの字状の雁木が残っています。
大手門跡
多門櫓と大手橋
現代になってかけ替えられた大手橋の位置は当時のとはわずかに異なる。
多門櫓跡案内板
多門櫓跡案内板
一枚目写真と比べると大手橋の位置が異なることがわかる。
撮影場所2 大手橋
大手橋
撮影場所3 大手門櫓跡
大手門櫓跡
石垣の上に右側に掛けて渡櫓門が建てられていた。
大手門櫓跡案内板
大手門櫓跡案内板
撮影場所4 大手門櫓台と雁木
大手門櫓台と雁木
雁木の上に土塀が掛けられていた。
大手門櫓台案内板
大手門櫓台案内板
大手橋から見た多門櫓
大手橋から見た多門櫓
石垣の角は算木積みを指向したことがうかがえる。
撮影場所5 多門櫓
多門櫓
櫓台には雁木や合坂が設けられている。
多門櫓の合坂
多門櫓の合坂
撮影場所6 長塀の石落
長塀の石落
石落とし部分の控え柱には腐朽に強い石材が使用されているが土塀部分には控え柱がない。
撮影場所7 角櫓
角櫓
3. 外曲輪
外曲輪は球磨川と胸川に面した人吉城平地部の大半を占め、相良清兵衛や息子の相良内蔵助屋敷など、重臣・上級武士の屋敷地になっていました。他の近世城郭では三の丸と呼ばれることが多い曲輪です。

相良清兵衛屋敷跡では慶長年間(1596〜1615)に建造されたと推定される石垣造りの地下室が発見されています。地下室からは約1700個の桃の種が出土していますが、記録が残っていないため用途は不明です。この地下室と同様の構造の地下室が相良内蔵助屋敷跡からも発見されています。
相良清兵衛屋敷跡には人吉城歴史館が建てられており発見された地下室を見学することができます。しかし、2024年7月時点では2020年7月の豪雨災害の影響により休館中で、まだ復旧の目処はたっていないようです。そのため日本100名城スタンプは人吉城歴史館裏手の物置きスペースに設置され、いつでも押印できるようになっています。

外曲輪からは二つの井戸跡が確認され、どちらも井桁は切石で正方形に組まれていますが、井戸穴自体は円形となっており他の城ではあまり見ることがない構造となっています。
撮影場所8 人吉城歴史館
人吉城歴史館
2024年7月時点で休館中。相良清兵衛屋敷跡に位置し、館内で石垣造りの地下室が保護されている。
2020年7月の豪雨災害の様子
2020年7月の豪雨災害の様子
外曲輪
外曲輪
本丸方面を見る。外曲輪東側には一段高い御館があり人吉藩政庁となっていた。
貯水池
外曲輪
胸川方面を見る。左の建物は相良内蔵助屋敷跡から発見された地下室を保護するための覆屋。
撮影場所9 井戸跡
井戸跡
下台所・犬童市右衛門屋敷跡から発見され、井戸内部は野面積みとなっている。
撮影場所10 井戸跡
井戸跡
後口馬場と呼ばれた道路上から発見された大型の井戸で、公衆用の井戸であると推定されている。
4. 跳出のある石垣
人吉城の随一の見どころである跳出のある石垣は御館の北面、球磨川方向に築かれています。かつて石垣上には長櫓がありましたが文久2年(1862)の寅助火事で焼失御、長櫓は復旧されませんでしたが、代わりに石垣を高くして、その上端に跳出を設けました。
跳出は品川台場、龍岡城、五稜郭などの幕末に築造された石垣に限って見られる珍しいもので、旧来の城での利用は人吉城のみです。
写真では大きさが伝わりにくいのですが、想像していたよりも石垣自体が高く、跳ね出し幅も大きいことから非常に見応えがあります。跳出石垣としては日本一だと思います。
撮影場所11 跳出のある石垣
跳出のある石垣
乱積みよりの打込接で下部は大きめ、上部は小さめの築石を用いている。高さは5〜6メートルほどか。
跳出
跳出
跳出し幅は30センチ以上あると思われる。
5. 水ノ手門跡・堀合門・御下門跡
・水ノ手門跡
川沿いに7ヶ所設けられた船着き場の中で最大のもので球磨川に向かって設けられました。古絵図によると左右の石垣の間に幅三間の門(薬医門か)が建てられ、内側には板葺の御番所、茅葺きの船蔵がありました。水ノ手門近くには大村米蔵跡・欠米蔵跡があり、球磨川の水運を利用して年貢米を城内には運び込んでいました。

・堀合門
御館の北側入口に置かれた門で文久2年(1862)の寅助火事でも焼け残りましたが、廃藩置県後に城外へ移築され、人吉城唯一の現存建物となっています。発掘調査では二つの礎石とその両側にあった排水溝が確認され、その結果や古絵図に基づいて平成19年(2007)に復元されました。現地案内板によると棟門だったとのことですが、復元された門は鏡柱と控柱を持つ薬医門となっています。

・御下門跡
下の御門とも呼ばれ、人吉城の中心である本丸・二の丸・三の丸への唯一の登城口に置かれました。入母屋造の渡櫓門で平十間、妻二間の規模でした。外曲輪の大手門は切妻造でしたが、こちらはより格式の高い入母屋造となっていて差別化を図ったようです。左側には城内屈指の高石垣がありますが、築石は比較的小さく隅角は算木積みを志向しているが完成域には達していません。この高石垣は一見すると御下門に横矢を掛けるための櫓台のようですが建物はなかったようです。
水ノ手門跡
水ノ手門跡
内側から外側を見る。門の外は球磨川が流れている。
撮影場所12 水ノ手門跡
水ノ手門跡
外側から内側を見る。門の奥は跳出のある石垣。
撮影場所13 堀合門
堀合門
御館の北側入口に置かれた裏門。
撮影場所14 御下門跡
御下門跡
御下門跡石垣
御下門跡石垣
門の左側には城内屈指の高石垣がある。
御下門跡礎石
御下門跡礎石
6. 中御門跡
中御門は二の丸北東に置かれた入母屋造の渡櫓門で、平九間半、妻二間半と御下門とほぼ同じ規模でした。石段脇の排水路や礎石が残っています。
門の前後で通路は左右に折れ曲がり、内側の石段を登ると二の丸へ至ります。このような構造は織豊系平山城によく見られ、城内で最も近世城郭らしい風景となっています。
中御門跡
中御門跡
三の丸から見る。通路突き当りの左側に渡櫓門があった。
撮影場所15 中御門跡
中御門跡
排水路
排水路
人吉城全景
中御門跡
二の丸から見る。中央部分を遮って石垣上に渡櫓門が建てられていた。
7. 二の丸・三の丸
・二の丸
丘陵部中腹に位置し、江戸時代初期には御本丸と呼ばれ城主の住む御殿が建てられていました。二の丸御殿は6棟の建物で構成されすべて板葺となっていました。周囲は瓦を貼り付けた土塀が掛けられていました。

・三の丸
二の丸の北面、西面に広がる一段低い曲輪です。西方に於津賀社と2棟の塩蔵などがあるのみで広大な広場となっていました。周囲に石垣は設けず土塀の代わりに「竹茂かり垣」と呼ばれる竹を植えた垣で防御していました。人吉城はシラス台地上に築かれたため崖の崩落を防ぐための工夫でした。
二の丸
二の丸
二の丸跡案内板
二の丸跡案内板
撮影場所16 三の丸
三の丸
二の丸から見下ろす。
二の丸から三の丸への石段
二の丸から三の丸への石段
案内板等はないが埋門跡か。二の丸を切り欠いて設けられている。
撮影場所17 三の丸から二の丸への石段
二の丸から三の丸への石段
側面石垣に反りはなく垂直になっている。
二の丸から三の丸への石段
二の丸から三の丸への石段
二の丸とは高低差があるため外側にも石段が設けられている。
二の丸石垣隅角
二の丸石垣隅角
隅角は算木積みとはなっていない。
二の丸石垣
二の丸石垣
中央は二の丸から三の丸への石段。左奥が中御門跡。
8. 本丸
二の丸から石段を登った人吉城最高所に位置しています。高御城(たかおしろ)と呼ばれ、地形的には天守台に相当しますが天守は建てられませんでした。寛永3年(1626)に護摩堂が建てられ、その他にも太鼓屋、山伏番所があり宗教空間となっていました。護摩堂は二重二階で城内唯一の重層建築だったようです。
撮影場所18 本丸
本丸
護摩堂の礎石などが残る。
石組み
石組み
護摩堂脇にあった井戸あるいは池の跡か。
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