感想
飫肥城といえば城内に立ち並ぶ飫肥杉が有名な城です。真っ直ぐ伸びる飫肥杉と石垣、白漆喰土塀の組み合わせは凛とした雰囲気を醸し出しており非常に心地よい空間となっています。登城したのが朝9時ごろということもあり人もほとんどおらず、ゆっくりと森林浴を楽しんでリラックスできました。
当時の建物は残っていませんが石垣はよく残っています。驚かされるのは小藩でありながらそのほとんどが切込接で積み方も意匠に富んでおり、現在でも確認できるほど丁寧に化粧が施されている点です。これだけの切込接と丁寧な化粧には相当な手間がかかったはずで、伊東氏独特の美意識があったのではないかと思います。城内の飫肥杉は現役当時はなかったものと思われますが、飫肥杉、苔むした石垣、白漆喰土塀で構成される空間はまるで美術館のようでした。
飫肥城は軍事拠点としての厳つさは感じられず全体的に上品な雰囲気です。城下町も含め飫肥が九州の小京都と呼ばれるのも納得です。宮崎に行った際はぜひ飫肥を訪ねてみてください。
登城記
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1. 飫肥駅〜大手門
飫肥の中心市街地はJR飫肥駅から酒谷川を挟んだ対岸に位置しています。稲荷下橋を渡って本町通り、大手門通りを経て大手門に至るのが一般的なルートです。飫肥の町割りは飫肥藩時代の様子をよく残しており、昭和52年(1977)には九州初の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。本町通り、大手門通りは無電柱化されており高い建物もなく空が広々としています。大手門通りの両脇にはかつての武家屋敷の石垣や土塀が続き九州の小京都らしい風景となっています。なお、明治時代の不平等条約改正の立役者である小村寿太郎は飫肥藩出身で、飫肥城の近くには生誕地や木村記念館があります。
飫肥駅
コインロッカーはないが有料で荷物を預かってくれる。
稲荷下橋
「此より飫肥城下町」の石碑があり、ここから先が飫肥の城下町となる。
大手門通り
突き当りに大手門がある。
大手門通り
右側石垣はかつての武家屋敷のもの。
2. 大手門
飫肥城南側のほぼ中央に位置する大手門は、明治6年(1873)に取り壊されたものを昭和53年(1978)に在来工法で再建したものです。設計者は現在の
熊本城や小田原城の天守を設計した藤岡道夫博士ですが、古絵図や古写真などからは当時の詳細がわからなかったため、国内に現存する大手門を参考にして設計されました。両端が石垣に乗る渡櫓門で高さは約12mあります。再建にあたり梁や柱は樹齢100年以上の飫肥杉を使用しています。門を潜ると内枡形があり大手門再建時に枡形を囲む築地塀も一緒に再建されました。
渡櫓門が乗る石垣や枡形石垣はすべて切込接で、平石はあまり定型化されておらず様々な形の石材が組み合わさってモザイク状となっています。化粧は丁寧で現在でも確認ができるほどです。石材こそ小さいですが、江戸城の石垣にも匹敵する芸術性の高い石垣かと思います。飫肥城には見上げるような高石垣はありませんが、これだけ手間のかかる石垣を小藩の飫肥藩が築いたことに驚かされます。
大手門の手前には東西に空堀が続きます。現在は一部が埋没している可能性もありますが、幅、深さともに規模は小さいものです。
大手門
外側、正面から撮影。
空堀
大手門手前の空堀
空堀
大手門手前の空堀。一つ前の写真の奥側から撮影。
大手門右側石垣
切込接でモザイク模様に積まれ芸術性が高い。
渡櫓下の石垣
切込接で亀甲積みを崩したような積み方で個性的。
大手門
内側、裏面から撮影。
大手門枡形
大手門を潜ると内側に枡形がある。
大手門桝形の石垣
鑿(のみ)打ちと簾の中間のような化粧の跡が確認できる。
大手門桝形と大手門
大手門桝形の築地塀
3. 犬馬場
大手門枡形の奥は犬馬場と呼ばれる東西に長細い曲輪で、中の丸の一段下となります。大手門枡形のほぼ正面には中の丸へ続く石段があり、その先に歴史資料館があります。当時はこの石段に開かずの門が置かれており、正規の登城道は左手の折れがある通路(中の丸へ続く登城路)でした。
右手には中の丸南東隅に突き出した隅櫓台を見ることができます。ここにあった隅櫓は大櫓と呼ばれ、天守のない飫肥城では天守に代わるシンボル的存在となっていました。
中の丸石垣と土塀
中の丸へ続く石段
奥の建物は歴史資料館。
隅櫓跡石垣
犬馬場から撮影。
犬馬場と中の丸石垣
手前は隅櫓跡石垣。
4. 旧本丸虎口
歴史資料館の脇、飫肥小学校を横目に進むと旧本丸へと続く石段があります。石段の先は旧本丸を掘り込む形の食違虎口となっており、飫肥城で最も城郭らしい造りの虎口となっています。古絵図には平門が描かれ、実際に礎石と思われる石材も残っていることから何らかの建物があったようです。礎石と思われる石材は四つで、横一列に並んでおり大手門のような渡櫓門ではなく、比較的簡素な平門だったのではないかと思います。この虎口の石垣も切込接ですが、大手門のようにモザイク状の箇所は見られず定型化された平石を使用しています。城の奥ということで、大手門よりは手を抜いて施工したのかもしれません。
旧本丸虎口石段
旧本丸虎口から見た中の丸
中の丸の大半が飫肥小学校の敷地となっている。
旧本丸虎口
旧本丸虎口の礎石
旧本丸虎口の石垣
旧本丸虎口
5. 旧本丸
現在飫肥小学校の敷地となっている本丸は中の丸と呼ばれていますが、中の丸に本丸が移るまでは酒谷川沿いのここが本丸でした。寛文2年(1662)、延宝8年(1680)、貞享元年(1684)に三度の大きな地震があり、地割れが発生したため中の丸に本丸を移転しました。とはいえ、中の丸に本丸を移転した後もここには藩主の茶室が設けられ重陽の節句などが催されました。現在は苔むした地面と真っ直ぐ伸びる飫肥杉が印象的な城内随一の癒やし空間となっています。
昭和の復元事業で再建された旧本丸北門のそばにはひときわ目を引く直方体の巨石が鎮座しています。平場にポツンと置かれたこの石ですが、資料館の方に訪ねてみたところ昔からあることは間違いないが用途は不明とのことでした。上部には穴が空いており井戸のようになっているそうで、井戸だとか抜け穴だとか色々な説があるようです。飫肥城の解説にも記載されていない謎の巨石ですが、旧本丸には茶室があったということで庭石の一種だったのかもしれません。
旧本丸
旧本丸北門そばの巨石
ひときわ目を引く直方体の巨石。
旧本丸北門
内側、裏面から撮影。
旧本丸北門
外側、正面から撮影。
6. 松尾の丸
松尾の丸は旧本丸の南側に位置する酒谷川沿いの曲輪ですが、その規模は小規模で旧本丸とも接続しておらず、このあたりはそれぞれの曲輪が独立した郡郭式の縄張りの特徴でしょうか。松尾の丸にどのような建物があったかは不明ですが、大手門と同様に藤岡道夫博士の設計で昭和54年(1979)に江戸時代初期の書院造りの御殿をイメージして在来工法で御殿が新築されました。
御座の間、御寝所、涼櫓、茶室など二十室以上の部屋がありますが、京都西本願寺の国宝、飛雲閣黄鶴台の浴室を再現した総檜造りの湯殿がみどころです。湯殿と言ってもお湯を張る湯舟があるわけではなく蒸し風呂です。名古屋城本丸御殿にも湯殿が復元されていますが、湯殿の中や裏の焚き口まで見ることができるのは全国でもここだけではないでしょうか。
松尾の丸へ続く石段
松尾の丸御殿
鎧兜
飫肥藩の下級藩士、荒武家と都甲家のもの。
飫肥藩川御座船の模型
参勤交代時に大坂、伏見間で利用していた。
蒸し風呂
京都西本願寺飛雲閣の蒸し風呂を実物大で複製したもの。
蒸し風呂
蒸し風呂裏側の焚き口。
7. その他
その他にも飫肥城の素晴らしい風景として中の丸へ続く登城路が挙げられます。大手門を潜り、突き当りの石垣を左に曲がり道なりに進むと、三方を石垣と白漆喰土塀に囲まれた通路が現れます。緩やかな石段と両側の飫肥杉がアクセントとなり、奥から当時の武士がそろりそろりと歩いてきそうな凛とした雰囲気となっています。石段上に規則正しく配置された4本の飫肥杉の対角線中央はパワースポットとされているようで、あまりそういったものを信じていない私ですが、確かにここは特別な感じで非常に晴れ晴れとした気分になりました。
この登城路で大手門方面を振り返ると堀に面した土塁があり、要所は石垣造りとしながら土塁も用いていることがわかります。
中の丸石段
中の丸側から撮影。
中の丸石段
外側から撮影。かつてはこの石段正面に御殿玄関があったと思われる。
中の丸石段の礎石らしき石材
中の丸へ続く登城路
突き当り右側に中の丸石段がある。
松尾の丸下の石垣
腰巻石垣でこの上が松尾の丸となる。
土塁
土塁の向こうは外堀と思われる。