KemaAkeの全国城めぐり
臼杵城
うすきじょう
別名丹生島城、亀城 西から見た臼杵城
形態平山城
築城年永禄5年(1562)
築城者大友宗麟
主な城主大友氏、稲葉氏
所在地旧国名豊後
住所大分県臼杵市大字市浜808-1
アクセス JR臼杵駅
↓徒歩(約15分)
古橋
概要
臼杵湾に望む丹生島に築かれ、海に面した海城でもあった。周囲は断崖絶壁で天然の要害となっていた。 島津氏に攻撃された際は、城内から日本最初といわれる大砲を使用した迎撃を行い、これを退けた。

-----------歴史------------
・永禄5年(1562)、大友宗麟が築城し居城とする。
・天正14年(1586)、島津軍の攻撃を受けるが籠城によりこれを退ける。
・慶長5年(1600)、中川秀成が臼杵城を攻撃。太田一吉はこれを退けるが後に開城する。
・慶長5年(1600)、稲葉貞通が入城し、以後廃城まで稲葉氏が城主を務める。
・明治10年(1877)、西南戦争で薩摩軍により落城。
遺構 普請:石垣、空堀
作事:古橋、畳櫓、卯寅口門脇櫓
天守:天守台のみ残る
城内案内図など 城内案内図(1600x1800)
登城日2018/5/3
おすすめ度☆☆☆☆★
感想など JR臼杵駅から商店街を歩いていくと、臼杵城の特徴である断崖絶壁が商店の裏に見えてきます。 現在、JR臼杵駅から最も近い入口は卯寅口になりますが、ここはかつて海に向かって開かれた門でした。 今回は礼儀正しく城の正面である大手口から登城しました。

臼杵城(築城当時は丹生島城)はキリシタン大名として有名な大友宗麟が築いた城で、隠居後の居城としました。 江戸時代に石垣を設けるなどの改修が行われていますが、城の範囲はほぼそのままでした。 断崖絶壁に囲まれた丹生島全体を要塞化した海城でしたが、現在は周囲が埋め立てられ海は遠くなっています。 しかし丹生島の輪郭である断崖絶壁は残っています。 島ということで小さな城をイメージしていましたが、島の上部はほぼ平坦でかなりの広さがあります。 島というより海に浮かぶ台地といったほうがしっくりきます。
江戸時代の建物もいくつか現存しており、建物以外にも寛延1年(1748)に掛けられた「古橋」という石橋が残っているのも珍しいです。 城内には臼杵城が島津軍に包囲された際、城内から島津軍に撃ち込んだ「国崩し」というポルトガル製大砲の複製があります。 この国崩しはキリシタン大名宗麟の居城である臼杵城らしい特徴的なものではないでしょうか。

島全体が城で、周囲は断崖絶壁、江戸時代の石垣もよく残っており、現存建物もある。 様々な特徴を兼ね備えた臼杵城は九州でも屈指の見どころのあるお城だと思います。

余談ですが臼杵名物の臼杵煎餅、子供の頃にお土産として食べたことがありますが、その頃はあの生姜風味が苦手でした。 大人になった今、改めて食べてみるとあの生姜がアクセントとなっており美味しく感じました。

登城記
1. 大手口・鐙坂周辺
撮影場所1 西から見た臼杵城
西から見た臼杵城
南西から見た臼杵城
南西から見た臼杵城
撮影場所2 亭櫓跡
亭櫓跡
内側から見た亭櫓跡
内側から見た亭櫓跡
撮影場所3 中ノ門跡
中ノ門跡
中ノ門跡に残る礎石
中ノ門跡に残る礎石
中ノ門跡脇の石垣
中ノ門跡脇の石垣
中ノ門跡脇の雁木
中ノ門跡脇の雁木
臼杵城は東西に長細い丹生島に築かれ、陸側の西側を大手方面としていました。陸と丹生島を隔てる海の幅は狭く、これを水堀として利用していました。現在でもこの水堀は一部が残っています。 この地形から完全な島ではなく半島といったほうが適切かもれません。おそらく大友宗麟による築城当時は陸と丹生島を隔てる海の幅ももっと広かったのではないかと思います。
江戸時代には水堀に古橋、今橋の二つの橋が設けられ古橋は二の丸大手筋とされました。 古橋門は現存しませんが、寛延1年(1748)に石橋とされた古橋は現存しています。古橋門の脇には二重の亭櫓があり、現在も大きな櫓台が残っています。
古橋門の先には鐙坂と呼ばれるヘアピンカーブの急な坂道が続きます。この鐙坂は築城当時からの登城口であり、細く曲がりくねった様子は戦国時代の城の面影を残しているように思います。 鐙坂を登り切ると中ノ門があり、現在でも礎石を確認することができます。この中ノ門脇の石垣は見事な切込み接ぎで、石垣の化粧である「はつり」もよく残っておりその丁寧な仕事ぶりに目を引かれます。
2. 畳櫓
撮影場所4 畳櫓
畳櫓
井楼櫓跡から見た畳櫓
井楼櫓跡から見た畳櫓
畳櫓引き戸
畳櫓引き戸
井楼櫓台と畳櫓
井楼櫓台と畳櫓
畳櫓は中ノ門の先に位置する二重櫓で江戸時代の現存櫓です。長辺約8.2メートル、短辺約4.5メートルの細長い下見板張りの櫓で、一階と二階が同じ広さの重箱櫓となっています。 正保年間(1644〜1648)頃に建てられ、宝暦13年(1763)に焼失しましたが、明和年間(1764〜1772)に再建されました。 廃城時も時報楼として使用するため取り壊されませんでした。
名前の由来については、祇園社(現在の八坂神社)から見た方角(たつみ)が由来とする説や、中に畳が敷かれていたという説等がありますが定かではありません。
3. 大門
撮影場所5 大門正面
大門正面
大門脇の石垣
大門脇の石垣
大門裏面
大門裏面
井楼櫓跡から見た大門
井楼櫓跡から見た大門
大門は二の丸大手門で稲葉氏入城直後に築かれた門で、宝暦3年(1763)の大火で焼失したため明和5年(1768)に再建されました。 しかし、廃城時に取り壊され、平成13年(2001)に古写真や古絵図を参考に木造復元されました。高さ約8メートル、幅約7メートル、奥行約4メートルの規模で一階の門部分は素木のままとなっています。
楼門形式ですが一階の高さとほぼ同じ左右の武者走りに接しているため、入口は二階に設けられ武者走りから入るようになっています。 扉の吊るしてある柱の後方に控柱が無いのが特徴で、裏側から見ると一階部分が非常に広々とした印象を受けます。 また、正面左側の石垣は亀甲積みを意識しているようで、大手門にふさわしい「見せる石垣」となっています。
4. 二の丸西側
撮影場所6 井楼櫓跡
井楼櫓跡
撮影場所7 会所櫓跡
会所櫓跡
会所櫓跡の階段
会所櫓跡の階段
武者走り
武者走り
井楼櫓跡からの眺望
井楼櫓跡からの眺望
二の丸西側、大門の左右には武者走りが続いており今でもその痕跡が残っています。大門正面右側には二重の井楼櫓、左側にやや離れて二重の会所櫓があり、いずれの櫓台も石垣がよく残っています。
井楼櫓は臼杵城で最も規模の大きな二重櫓で、城の奥にある天守が城下から見えなかったため天守代用櫓となっていました。 井楼櫓跡からは真下に畳櫓、その向こうに臼杵の市街地を一望することができ、臼杵城で最も見晴らしの良い場所に感じました。
会所櫓の櫓台は階段周辺のほぼ垂直に積まれた切込み接ぎの石垣が印象的で、五万石程度の藩でありながらこのような緻密な石垣を築くことが出来る西日本の築城技術の高さに改めて感心しました。
5. 空堀と鉄門跡
撮影場所8 南空堀
南空堀
北空堀
北空堀
鉄門跡石垣その一
鉄門跡石垣その一
撮影場所9 鉄門跡石垣その二
鉄門跡石垣その二
東西に細長い臼杵城は大きく分けて西側の三分の二が二の丸、東側三分の一が本丸となっており、その間は空堀で区切られています。 北空堀は大友氏時代からあったもの、南空堀は稲葉氏が整備したもので、深さは約10メートルあります。
北空堀と南空堀は土橋で区切られ、土橋の先には本丸大手門である鉄門がありました。 鉄門は両端が石垣の上に乗った渡櫓門で、門前を食い違い虎口として守りを固めており、南半分の石垣が現存しています。 この石垣は臼杵城でも有数の巨大な石を用いた切込み接ぎの豪壮な石垣で、本丸大手門にふさわしい造りとなっています。
6. 天守台
撮影場所10 南東から見た天守台
南東から見た天守台
北西から見た天守台
北西から見た天守台
天守台は本丸北西隅に位置しており空堀から高さ4メートルほどまでが現存しています。 九州では肥前名護屋城に次ぐ古い時期の現存天守台です。 かつては堀底から高さ7メートルの石垣でしたが、大正時代の公園整備の際に上部3メートルが撤去されています。 隅の石垣が破城されたように失われているのも気になりますが、これについての詳細はわかりませんでした。
天守は三重で、福原氏時代に建てられ明暦1年(1655)に大改修を受け、廃城まで残っていました。 しかし、この天守は城下町からは全く見えない奥まった位置にあったため、二の丸井楼櫓が天守台用とされました。
7. 今橋口周辺の石垣
上ノ門跡
上ノ門跡
撮影場所11 着見櫓石垣その一
着見櫓石垣その一
着見櫓石垣その二
着見櫓石垣その二
撮影場所12 今橋門跡
今橋門跡
江戸時代の臼杵城への登城口は、大手門である古橋門の他に今橋口がありました。 かつては古橋門のみが登城口としてありましたが、稲葉氏入城直後は今橋口が正式な登城路となっていました。 臼杵城の大手は古橋口→今橋口→古橋口の順で変わったことになります。
この移り変わりの理由は城主御殿の位置で、本丸に城主御殿があったころは本丸に近い今橋口が大手となり、後に本丸が手狭となり御殿が二の丸に移されると再び古橋口が大手となりました。 今橋口は三つの枡形が連続し、上ノ門や勘定櫓、着見櫓などで守りが固められていました。臼杵城でも新しく整備された部分のためか、石垣も高く積まれ見応えがあります。
8. 卯寅口門脇櫓
本丸から見た卯寅口門脇櫓
本丸から見た卯寅口門脇櫓
卯寅口門脇櫓その一
卯寅口門脇櫓その一
撮影場所13 卯寅口門脇櫓その二
卯寅口門脇櫓その二
卯寅口
卯寅口
卯寅口門は本丸の南東に位置しており、海に向かって直接開かれた水門でした。大友氏時代には大手門だったようですが、江戸時代には搦手門となりました。 現在は埋め立てにより海は遠くなっていますが、その地形は水門にふさわしい入江らしさが残っています。
この卯寅口門跡の脇に安政2年(1855)に建てられた卯寅口門脇櫓が現存しています。 幅約7.2メートル、奥行約5.4メートルの切妻造の二重櫓ですが、かつては古絵図に描かれていたように入母屋造りだったようです。 一階の階高が極端に高く、一重目屋根のすぐ下にある入口に石段で登る珍しい構造となっています。
窓が少なく他の曲輪から離れたところに位置し、「御鉄砲薬櫓」と表記された古絵図もあることから、火薬を保管する焔硝蔵であったと考えられています。
臼杵駅から臼杵城に向かって歩くと最初に見える臼杵城の建物がこの卯寅口門脇櫓で、小高い岬の突端のような場所に孤立しているため、非常に目立ちます。 城外、城内のいずれから見ても存在感のある櫓です。
9. 城内各所
撮影場所14 時鐘
時鐘
臼杵護国神社(二の丸)
臼杵護国神社(二の丸)
大友宗麟公碑
大友宗麟公碑
撮影場所15 佛狼機砲レプリカ
佛狼機砲レプリカ
臼杵城でぜひ見ておきたいのが城のシンボルともいえる佛狼機砲レプリカです。 この大砲はフランキ砲という原始的な後装砲で、天正4年(1576)にポルトガル人より大友宗麟に送られたもので、日本最初の大砲といわれています。 大友宗麟はこの大砲を「国崩し」と名付けました。 「国崩し」は江戸時代まで臼杵城本丸に据えられていましたが、明治初期に国に献上され現在は東京の靖国神社に収蔵されています。現在臼杵城にあるものはレプリカです。
大友宗麟が臼杵に居城を移したのは、永禄4年(1561)の第二次門司城の戦いで毛利軍に破れたのがきっかけで、府内(現在の大分市)大友氏館から南に下った臼杵に移ることで毛利軍の追撃を防ごうとしました。 府内に比べると土地は狭いですが、それゆえに防御に優れていると判断したのでしょう。南蛮貿易の拠点としても都合が良かったようで、臼杵城下は繁栄しました。 しかし、天正6年(1578)に耳川の戦いで島津氏に大敗すると、島津軍を防ぎきれなくなり天正14年(1586)に臼杵城は島津軍2000人に囲まれます。 このとき宗麟はこの南蛮渡来の「国崩し」を駆使してよく戦い島津軍を退けましたが、臼杵城下は焼かれ荒廃しました。 これがよほどショックだったのでしょうか、宗麟は翌年に病死しています。

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