KemaAkeの全国城めぐり

備中松山城 びっちゅうまつやまじょう
別名 なし
形態 山城
築城年 円応2年(1240)
築城者 秋庭重信
主な城主 秋庭氏、三村氏、毛利氏、小堀氏、水谷氏、板倉氏
所在地旧国名 備中
所在地 岡山県高梁市内山下1
アクセス ●徒歩によるアクセス
JR伯備線、備中高梁駅から登山道入口まで徒歩25分
登山道入口から鞴(ふいご)峠駐車場まで徒歩25分
備中高梁駅から登山道入口までの道順は城の地図の青線を参照してください。
アクセスレベル ●徒歩でのアクセスレベル
☆☆
普通は車を使うと思いますが…一応。
概要 ●鎌倉時代
備中松山城の歴史は鎌倉時代の円応2年(1240)に有漢郷(うかんのごう)の地頭であった秋庭三郎重信により、臥牛山のうちの大松山に砦が築かれたことに始まる。鎌倉時代末期の元弘年間(1331年頃)には同じく臥牛山の小松山にまで縄張りが拡張された。
●室町・戦国時代・安土桃山時代
城主は点々とする。戦国時代、元亀年間から天正年間初期にかけては三村元親が城を支配し、このころには大松山、小松山全体を縄張りとする一大城塞となった。天正2年(1574)に、毛利氏についていた元親が織田信長に寝返る。翌年にかけて三村氏と毛利氏との戦いは続き(備中兵乱)、その結果、備中松山城は毛利氏の小早川隆景に落とされ、元親は自害した。この後、関ヶ原の戦いで毛利氏が周防・長門に転封となるまで、毛利氏が城を支配した。
●江戸時代
関ヶ原の戦い後、徳川幕府は城番として小堀正次をおいた。その子で築城家として名高い小堀政一(遠州)は、山麓の三村氏の居館跡に陣屋(御根小屋)を築き、山上の城郭の改修にも着手したが、途中で転任となり、小松山の城郭のみの修築となった。小堀氏の後、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏と城主が代わり、明治維新の際の城主は板倉氏であった。戊辰戦争で朝敵とされた備中松山藩は、城を無血開城した。
●明治時代以降
明治6年(1873)に廃城令が交付されると、山麓の御根小屋は取り壊され、山上の建物は放置され荒廃していった。しかし、昭和3年(1929)の二重櫓と土塀の応急修理から、城の保存・整備が始まり、昭和15年(1940)天守の解体修理、昭和35年(1960)天守の部分修理および二重櫓・土塀の解体修理、平成13年(2001)石垣および天守の部分修理という三回の大修理を経て、現在にいたる。平成9年(1997)には本丸南御門、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが復元された。
遺構 普請:石垣、堀、土塁
作事:天守、二重櫓、土塀
天守:天和3年(1683)水谷勝宗により修築されたものが現存
登城日 2010/12/23
撮影カメラ RICOH CX1
みどころ 山城としては唯一の現存天守。また、岩盤上に築かれた高石垣には圧倒されます。

登城記
各写真をクリックすると大きな写真が表示されます。この画面に戻る場合はブラウザの戻るボタンを使用してください。各写真の下の番号は城の地図と対応しています。赤い番号は写真の撮影対象の場所を示し、青い番号は写真の撮影場所を示します。

今回はJR伯備線の備中高梁駅から登城します。備中高梁駅から歩くと天守までは最低でも1時間半程度はかかると思いますが、天気の良い日にハイキングがてらの登城はいかがでしょうか。

1. 伊賀谷川
伊賀谷川
城の地図:撮影対象1
備中高梁駅から城に向かって15分ほど歩くと小さな川に突き当たります。この川は伊賀谷川と呼ばれ、備中松山城の外掘になり、この川の内側が三の丸になります。

2. 石火矢町と前山
石火矢町と前山
城の地図:撮影対象2
伊賀谷川を渡り5分ほど歩くと石火矢町があります。石火矢町は江戸時代初期の池田長幸による城下町拡張にともなって家臣の屋敷地として整備され、中級武士の屋敷が立ち並んでいました。現在でも武家屋敷地の面影がよく残り、現存する武家屋敷(旧折井家、旧埴原(はいばら)家)を利用した資料館を設けるなど整備が行われています。石火矢町の背後の山は、臥牛山支峰の前山で、山頂には下太鼓の丸があります。まずはあの頂を目指して進みます。

3. 小高下谷川
小高下谷川
城の地図:撮影対象3
石火矢町を抜け少し歩くと小高下谷川に突き当たります。この川は備中松山城の内堀になり、内側には藩主の居館である御根小屋がありました。現在、建物は残っていませんが、小高下谷川沿いに石垣が残され、その上に県立高梁高校が立てられています。県立高梁高校の敷地内にも立派な石垣が残っているとのことです。

4. 登山道入口
登山道入口
城の地図:撮影対象4
小高下谷川沿いの緩やかな坂道をしばらく登ると、左手に城の主郭部への登山道入口があります。立派な石垣を備え明らかに虎口の造りをしているのですが、案内板等がなかったため、城の遺構なのか整備されたものなのかはわかりませんでした。もしかしたら小高下谷川沿いの石垣も、整備されたものなのかもしれません。

5. 登山道
登山道
お地蔵様
登山道はまず鞴(ふいご)峠駐車場まで続き、そこからさらに大手門跡に続いています。最初はゆるやかな坂道で、最後まで急な階段などはほとんどありません。鳥取城や萩城のように終始階段ばかりというわけではないため、これらの登城と比較するとかなり楽な印象を受けました。登山道の傍らにはたくさんのお地蔵様があり、登山者を見守っています。登山道の途中には忠臣蔵で有名な大石内蔵助が腰を掛け休んだと伝えらる腰掛岩があります。元禄7年(1694)に備中松山藩主の水谷家がお家断絶となった際、播州赤穂藩が城請取を命令され、その先発隊として大石内蔵助はこの城を訪れ、その後1年7ヶ月の間在番しています。
大石内蔵助腰掛岩

6. 下太鼓の丸跡
下太鼓の丸虎口の石垣
城の地図:撮影対象5
下太鼓櫓跡
鞴(ふいご)峠駐車場の南隣には前山があり、その山頂(標高約320メートル)が下太鼓の丸跡になります。下太鼓の丸は山麓の御根小屋と天守とのほぼ中間に位置し、城下を一望することができます。強固な出丸であると同時に、山麓と本丸の間で太鼓の音を中継するための通信所の役割も果たしていました。4段の曲輪が尾根上に連なって築かれ、野面積みの石垣が残っています。また、方形に石を組んだ櫓跡、貯水池と思われる円形の石組み遺構も残されています。備中松山城で最も眺めのよい場所ですが、普通の人は駐車場から天守方面に行ってしまうため、訪れる人は少ないようです。
貯水池跡
下太鼓の丸石垣

7. 中太鼓の丸跡
中太鼓の丸石垣
城の地図:撮影対象6
下太鼓の丸
鞴(ふいご)峠駐車場の北に位置し、本丸のある小松山から南に伸びる緩やかな尾根上にあります。下太鼓の丸と大手門のほぼ中間に位置しています。2段の曲輪からなり、上部の曲輪には中太鼓櫓と呼ばれる建物が建てられていました。防備上の拠点であると同時に、下太鼓の丸と同様に太鼓の音を中継するための通信所の役割も果たしていました。眼下には前山山頂の下太鼓の丸跡を見ることができます。また、上部の曲輪には中太鼓櫓の名残でしょうか、瓦の破片が多く散らばっていす。
瓦の破片

8. 大手門跡
大手門跡遠景
城の地図:撮影対象7
大手門跡
上太鼓の丸跡から5分ほど山を登ると目の前に大手門跡が現れます。備中松山城は自然の地形を巧みに利用して築かれていますが、最も顕著なのがこの大手門です。山麓から続く登城道に対し、大手門が東を向いているため、侵入が矩折りとなります。内部は桝形になっており、周りを石垣に囲まれています。山上ということで、場所的な制約もあるのでしょうか、敵の直進を防ぎ、多くの横矢を仕掛けることができる実戦向きの造りとなっています。かつては渡櫓門形式となっており、普請、作事ともに城内で最大の門でした。
大手門桝形
厩曲輪から見た大手門桝形

9. 厩曲輪石垣
厩曲輪石垣
城の地図:撮影場所1
大手門桝形から見た厩曲輪石垣
備中松山城の主要部周辺は臥牛山の岩盤がむき出しになっており、その上に高石垣が築かれています。特に大手門跡から見る厩(うまや)曲輪の石垣は圧感の一言で、岩盤の途中から突然石垣が始まる様子は、岩盤と石垣が一体化したかのようです。大手門桝形から厩曲輪の石垣を見上げると、三の丸、厩曲輪、二の丸の石垣が4段に積み重なり、さらに荒々しい岩盤も加わり、他の城ではみることができない光景となっています。

10. 黒門跡
黒門跡
城の地図:撮影対象8
備中松山城の主要部は大きく分けて、三の丸、厩曲輪、二の丸、本丸、後曲輪の5つに別れており、各曲輪には多くの門、平櫓が建てられていました。黒門は三の丸と二の丸を区切る門で、小さな棟門だったようです。城内の門は、大手門と渡櫓門、鉄門が櫓門で、その他の門は規模の小さい棟門だったようです。

11. 鉄門跡から見た二の丸と城下町
鉄門跡から見た二の丸と城下町
城の地図:撮影場所2
鉄門は黒門と同様に三の丸と二の丸を区切り、櫓門の強固な構えになっていました。黒門跡からは二の丸と、はるか眼下に城下町を見下ろすことができます。

12. 二の丸
二の丸から見た本丸
城の地図:撮影場所3
雪隠跡
城の地図:撮影対象9
本丸直下に位置する二の丸からは本丸の天守、櫓群を一望することができます。1枚目の写真右の二層の建物が天守、手前左の建物が六の平櫓、右が五の平櫓、二つの櫓の間は本丸南御門です。六の平櫓、五の平櫓、本丸南御門は平成9年(1997)に木造で復元されたもので、内部には建築に使用した道具や、映像資料が展示されています。二の丸の片隅には「雪隠」の跡があります。「ゆきがくし」とはなんぞや、と思って調べてみると「せっちん」と読むそうです。つまりトイレですね。トイレの跡というのはなかなか珍しいのではないでしょうか。
二の丸から見た天守

12. 本丸
西から見た天守
城の地図:撮影対象10
天守の唐破風と入母屋破風
登山道入り口から写真を撮りつつ約1時間半、ようやく本丸に到着です。山城ということで本丸も他の曲輪と同様に狭く、中世城郭の面影を残しています。本丸というよりは天守曲輪といった感じです。本丸中央に建つ天守は大きな格子窓と唐破風の出窓が目を引きます。二層二階と規模は小さいですが、標高430メートルの小松山山頂に位置するため、これで充分だったのでしょう。天守は天和3年(1683)に水谷勝宗により修築されたものと伝えられ、現存12天守のうち最も高い場所に建つ天守です。明治維新後、新政府は廃城令を出しましたが、このような場所にあるため「解体した」とごまかして建物は残ったとか。しかし、その後は長い間放置され、荒れ放題となり自然崩壊の危機にありましたが、昭和初期から保存活動が始まり天守と二重櫓、土塀の一部は現在まで残りました。
南東から見た天守
天守入口から見た本丸
本丸東御門
城の地図:撮影対象11

13. 天守内部
接続廊下
天守一階内部
天守には接続廊下から入ります。かつて天守には、接続廊下、渡し櫓、八の平櫓が接続していましたが、現在は接続廊下が残るのみとなっています。接続廊下から天守一階に入るとその明るさに驚かされます。他の現存天守はどれも薄暗いのですが、この天守は南面が全面格子窓となっているからでしょう。天守一階内部には囲炉裏があり、籠城時の城主の食事、暖房に使用するためのものと考えられています。囲炉裏がある天守は全国でも珍しく、この城が実戦向けに作られたことを物語っています。また、一階北面には装束の間と呼ばれる一段高い部屋があり、落城時には城主最後の場所とされていたのではないかと考えられています。二階への階段はひとりが通れるほどの幅で、途中の踊り場から直角に折れ曲がり、敵の侵入を阻んでいます。二階北面には水谷勝宗が設けた御社壇があります。天照大御神、水谷氏の守護神である羽黒大権現などが祀られており、事あるごとに盛大な祭典を行っていました。このように天守の一面を使用した祭壇も珍しいものです。なお、天守は高所に位置しており、さぞ眺めが良いかと思いきや、窓が格子窓となっておりあまり見晴らしはよくありません。
囲炉裏
階段
天守二階内部
天守二階から見た鯱

14. 搦手門跡
搦手門跡1
城の地図:撮影対象12
搦手門跡2
搦手門跡は天守北東の裏手にあり、ここから大手門手前の犬走口まで、横道がのびていました。

15. 後曲輪と二重櫓
後曲輪
城の地図:撮影対象13
北面から見た二重櫓
城の地図:撮影対象14
後曲輪はその名前のとおり本丸の後ろ(北側)に位置し、かつては九の平櫓が建てられていました。また、後曲輪には水手門がありました。このあたりからは天守と同様に現存する、二重櫓を見ることができます。二重櫓は明治維新以後、火の見台兼造林人夫収容小屋として使用され、細かな修理が行われていましたが、天守と共に本格的な保存活動がはじまり現在までその姿を残しています。二重櫓には2つの入口があり、ひとつは後曲輪に、もうひとつは天守裏に続いており、門の役割も果たしていたようです。この櫓も備中松山城の特徴である、岩盤上に築かれた石垣の上にどっしりと築かれており、見応えがあります。
天守と二重櫓
天守裏から見た二重櫓

以上、備中松山城の登城記でした。本格的な山城でかつ天守が残る稀有な城として、大満足できる登城でした。

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