津山城 つやまじょう |
別名 | なし |
形態 | 平山城 |
築城年 | 慶長9年(1604) |
築城者 | 森忠政 |
主な城主 | 森氏、越前松平氏 |
所在地旧国名 | 美作 |
所在地 | 岡山県津山市山下 |
アクセス |
●徒歩によるアクセス JR津山線・姫新線、津山駅から徒歩15分 道順は城の地図の青線を参照してください。 |
アクセスレベル |
●徒歩でのアクセスレベル ☆☆☆☆☆ |
概要 |
●江戸時代 津山城は慶長8年(1603)に美作18万石の大名となった森忠政により、津山盆地中央に位置し、吉井川と宮川の合流点を見下ろす鶴山(つやま)を城地として、慶長9年(1604)に築城が開始された。築城に際してこの地を津山と改めている。途中、江戸城や駿府城の普請、大阪夏の陣への出陣などに年月を費やしたが、13年の工事を経て元和2年(1616)に工事は完了した。縄張りは、鶴山の山頂を削り本丸とし、その周りを二の丸、三の丸が囲む輪郭式の縄張りで、大きく三段に別れた総石垣造りの「一二三段」となっている。さらにその外側に侍屋敷地を設け、これを囲むように東は宮川、残りの三方に堀を築き守りを固めていた。城内は当時最新の層塔型の五層天守を中心に、77棟にも上る門、櫓が比較的狭い城地に建ち並んでいた。森氏四代の後、元禄11年(1698)には徳川一門の松平宣富が新たに津山藩主となり、以後明治維新まで越前松平氏が城主を務めた。 ●明治時代以降 明治2年(1869)、版籍奉還により城郭の主要部は大阪鎮台に引き渡された。明治4年(1871)に津山藩が廃藩となると、明治6年(1873)には廃城令により城の取り壊しが命じられた。このとき天守をはじめとした一切の土地、建物が公売された。しかし、主要部の石垣などは残され現在に至る。明治33年(1900)に城跡は津山町有となり、石垣の補修、樹木の植栽などを行い、鶴山公園として整備された。平成17年(2005)には城内最大の櫓であった備中櫓が復元された。 |
遺構 |
普請:石垣、堀 作事:なし 天守:なし |
登城日 | 2010/12/24 |
撮影カメラ | RICOH CX1 |
みどころ | 鶴山全体を縄張りとした「一二三段」の高石垣は圧感です。特徴的な天守曲輪の構造も面白いです。 |
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1. 忘れ去られた石 |
2. 冠木門跡 |
城の地図: |
冠木門は三の丸の南面に位置し、二の丸表中門、本丸表鉄門に続くことから、津山城の大手口になるようです。その名のとおりかつては石垣の間に冠木門がありました。冠木門の内側は通路がコの字に折れ曲がり、三方の石垣上から、侵入した敵に攻撃をすることができるようになっています。 |
3. 森忠政の銅像 |
4. 表中門跡 |
城の地図: |
表中門は二の丸南面に位置する渡櫓門です。規模も大きく、大手門にふさわしい威厳のある門が建っていました。門の内側は三方を石垣に囲まれた階段がクランク状に続き、堅固な守りとなっています。 |
5. 切手門跡 |
城の地図: |
切手門は二の丸から本丸に至る通路の途中に設けられた渡櫓門です。規模は表中門より小さいですが、普通は二の丸の門(表中門)、本丸の門(表鉄門)の二つしかないところに、さらにその間に渡櫓門をを設けていたのですから、堅固この上ないと言えるでしょう。他の門と同様に、この門の内側も階段がクランク状に続き敵の侵入を阻む造りとなっています。 |
6. 表鉄門跡 |
城の地図: |
表鉄門は本丸の南東に位置する渡櫓門で、その名前のとおり扉には鉄板を張り、防御力を高め、本丸への最後の関門としていました。また、渡櫓門は続櫓と接続し、門内側の桝形を三方から囲んでいました。渡櫓門と続櫓には畳が敷かれ、本丸御殿への入り口も兼ねるという珍しい造りとなっていました。 |
7. 本丸 |
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かつては本丸を覆い尽くすほどの広大な本丸御殿が建てられていました。この御殿は文化6年(1806)に消失しましたが、周りの櫓や門は類焼を免れ、明治維新まで残りました。この火災の後、御殿再建にともなう出費が津山藩の財政を圧迫しました。 |
8. 備中櫓 |
城の地図: |
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備中櫓は津山城最大の櫓で、平成16年(2004)に津山築城四百年を記念して復元されました。城下からもよく見え、天守に次ぐシンボル性の高い建物でした。また、ただの櫓ではなく本丸御殿の一部として機能していたようで、通常の櫓と異なり、全室畳敷き、天井張りとなっています。このことから備中櫓が藩主あるいはその家族という限られた人物のためのプライベートな空間であったことが推定されています。 |
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9. 備中櫓内部 |
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備中櫓内部一階には「御茶席」「御座の間」「厠」といった大小10あまりの部屋があります。襖の引手や釘隠しには森家の家紋「鶴の丸」が施され格調高く仕上げられています。二階は一部屋のみですが、上段と下段に別れており、こちらも壁には「鶴の丸」が施されています。かなり大きな櫓で、これだけでも立派なお屋敷といった感じです。こんな家に住んでみたい… |
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10. 天守曲輪 |
城の地図: |
城の地図: |
城の地図: |
本丸西側に位置する天守曲輪には、表鉄門から通じる五番門、本丸御殿から通じる八番門、二の丸搦手から通じる七番門の三か所の入り口が設けられていました。五番門は高麗門形式、八番門と七番門は渡櫓門形式でした。五番門から天守横の六番門に続く通路は、石垣に囲まれた細い通路になっており、まるで迷路のようです。かつて天守曲輪の西面には多聞櫓が建てられ、守りを固めていました。 |
11. 天守台 |
12. 天守台からの眺め |
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麓からの高さ約50メートルの天守台からは津山の街並みを一望することができます。眺めが良いということは風通しもよいということで、雪がちらつくなか、このシーズン一番の寒さを味わいました。 |
13. 本丸東側の曲輪 |
14. 大戸櫓跡 |
城の地図: |
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大戸櫓は本丸北側に位置する二重櫓で、搦手である本丸裏鉄門、裏中門、裏下門を一望することができる、搦手防御の要となる櫓でした。 |
15. 裏鉄門跡 |
城の地図: |
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裏鉄門は本丸の北側に位置する西に向いて開かれた門で、本丸の搦手口でした。名前から察するに、表鉄門と同様に扉には鉄板が張られていたと考えられます。渡櫓門形式で、規模は表鉄門ほどではありませが、周囲の高石垣は見事です。また門の脇では、石垣を途中で継ぎ足したような跡を見ることができます。 |
16. 裏中門跡 |
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城の地図: |
裏中門は裏下門と本丸裏鉄門、天守曲輪の七番門の間に設けられた門で、渡り櫓形式の門でした。 |
17. 裏下門跡 |
城の地図: |
裏下門は二の丸北側に位置する門で、二の丸の搦手口でした。この門はクランク状通路の途中、階段と階段の間に位置し、他の門と同様に敵の侵入を阻むつくりになっています。 |
18. 北西から見た石垣群 |
城の地図: |
裏下門の脇には鶴山公園の出口があり、出口前には津山文化センターがあります。その駐車場からは搦手周辺の堅固な石垣群を一望できます。表中門あたりからですと、石垣まであまり距離がとれないため、広い範囲を一度に見ることができませんが、ここからですと桜門跡から裏下門跡あたりまでの北西の石垣を一望することができます。今回の登城でもっとも見応えのある風景でした。 |
19. 薬研堀 |
城の地図: |
薬研堀は津山城北東、裏下門付近に位置する堀です。津山城の堀は現在ではこの薬研堀と厩堀を残すのみとなっていますが、かつては三の丸の外側に広がる侍屋敷地を囲んで、東は宮川、残りの三方に堀を設け守りを固めていました。 |
20. 城見橋から見た津山城全景 |
城の地図: |
吉井川にかかる城見橋から見た津山城全景です。写真中央に備中櫓、その左に天守台を見ることができます。 |
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