感想など
・アクセス
JR安来駅からは安来市イエローバス「広瀬〜米子線」に乗車し、終点の広瀬バスターミナルの少し手前、市立病院前で下車してください。
本当の最寄りバス停は月山入口ですが、こちらに泊まるイエローバス「観光ループ」は本数が少ないです。
市立病院からでも飯梨川を渡ってすぐなので大した距離ではないです。バスについての詳細は以下リンクを参照してください。
島根県安来市:くらし:イエローバス・公共交通
・感想
月山富田城は戦国時代屈指の規模を誇る山城で、毛利氏台頭前の中国地方二大勢力の一方、尼子氏の居城として有名です。
1997年に放送されたNHK大河ドラマ毛利元就では、第一次月山富田城の戦いで緒形拳演じる尼子経久が自分の死をも利用した策略により大内軍を大敗させる様子が描かれました。
とにかく緒形拳演じる尼子経久がカッコよかったことを覚えています。
実際には経久は第一次月山富田城の戦いの前に死亡しているのでこれはフィクションですが、大敗の要因として月山富田城の堅固さがあったことは間違いないでしょう。
この第一次月山富田城の戦いによる大内軍大敗は、大内氏衰退の契機となり、毛利氏勃興につながることから、ある意味では日本史に大きな影響を与えた城であったとも言えそうです。
さて、飯梨川対岸から望む月山山頂の三ノ丸は遥か遠く、あそこまで登るのかと思うと少々尻込みをしてしまいました。
ですが実際に登ってみると広大な城でありながら整備が行き届いており、城の中枢である山中御殿までは比較的なだらかでそんなに大変ではありません。
しかしここからが山城の真骨頂。山中御殿から本丸までの七曲りと呼ばれる登城道はさすがに急峻です。
七曲りは近年コンクリート舗装され、周りの木々も伐採されたため山中御殿から見上げることができますが、その様子は人を拒むかのようです。
山登りの末たどり着いた三ノ丸からは飯梨川沿いに中海まで望むことができ、
春日山城から見た直江津の風景を思いだしました。
月山富田城と同じく春日山城も戦国屈指の山城、西と東を代表する二城は立地にも共通点があるのかもしれません。
月山富田城は広大ながらも整備が非常に行き届いており、比較的気軽に登城できる山城です。
しかしながら尾根上に並ぶ小曲輪からは中世城郭、各所に残る石垣からは近世城郭化半ばの様子を見ることができる面白い城でもあります。
登城記
1. 市立病院から安来歴史資料館まで
飯梨川越しからの全景その一
飯梨川越しからの全景その二
安来市立歴史資料館
尼子興久の墓
市立病院から東に向かうとすぐに飯梨川に突き当たり、対岸に安来市立歴史資料館と背後の月山が見えてきます。
安来市立歴史資料館は大きな蔵風の建物で、背後の山は山頂付近の木々が伐採され平場が見えるのでひと目で普通の山ではないことがわかります。
下流にかかる巌倉橋を渡れば安来市立歴史資料館は目の前、市立病院からゆっくり歩いても15分ほどです。
安来市立歴史資料館では月山富田城の城主だった尼子・毛利・堀尾氏の遺物や、富田川の氾濫で水没した城下町の遺構・富田川河床遺跡からの出土品などを展示しています。
登城前にここで情報収集するのがよいでしょう。なお100名城スタンプと御城印はこちらにあります。
安来市立歴史資料館の左には城への登城道が整備されており、途中には尼子経久の三男、興久の墓があります。
2. 安来市立歴史資料館から千畳平まで
馬乗馬場の石垣
登城道から見た飯梨川
千畳平
千畳平から見た馬乗馬場
安来市立歴史資料館から千畳平までは尾根と尾根の間に整備された登城道を進みます。
月山富田城の主な登城道は菅谷口、御子守口、塩谷口の三つですが、この登城道はこのいずれにも該当しない小道のようです。
ですが両側の尾根上の曲輪から見下される様子は、山城ならではの堅固さを感じます。
千畳平は城の北端に位置する広い曲輪で、高石垣が積まれています。これは直下にあった城下町からの見栄えを意識していたようです。
尼子氏時代はその広さと位置から、千畳平で軍勢を揃えてから出陣したといわれています。
現在は尼子氏を祀った尼子神社が建てられています。
3. 太鼓壇と奥書院
山中鹿介の銅像
奥書院
千畳平の上の曲輪が太鼓壇、そのさらに上の曲輪は奥書院と呼ばれ、どちらも広い曲輪です。
太鼓壇にはかつて太鼓櫓が建てられ、現在は山中鹿介の銅像があります。
山中鹿介は毛利元就による月山富田城落城後、尼子氏の生き残りである尼子勝久を奉じて尼子氏再興を目指し、
織田信長と結んで毛利氏と戦い続けました。
「われに七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったエピソードはあまりにも有名で、忠義の士として名高い武将です。
4. 花ノ壇周辺
花ノ壇と月山
復元建物その一
復元建物その二
復元建物内部
花ノ壇石垣
登城道から見た花ノ壇
堀切
花ノ壇と山中御殿間の石垣
奥書院の上、月山富田城の中枢である山中御殿と堀切を挟んでほぼ同じ高さに位置するこの曲輪は、多くの花が植えられていたことから花ノ壇と呼ばれています。
大手筋である御子守口からの通路を見下ろし、山中御殿との連絡が容易であることから重要な曲輪であったと考えられています。
曲輪の外周の一部には土留程度ですが、石垣も築かれています。この石垣についての説明はありませんでしたが、この程度の石垣であれば尼子氏時代のものの可能性もありそうです。
花ノ壇と山中御殿の間は通路ないし堀切のようになっており、尾根を区切って築いたいかにも山城らしい造りとなっています。
発掘調査によって掘立柱建物三棟の跡や柵跡などが発見され、そのうち二棟の建物が復元されており、近世城郭とは異なる中世の建物の様子を知ることができます。
これら復元建物と背後にそびえる月山の眺めは月山富田城を象徴する風景といえるでしょう。
余談ですが、人の気配がないと思って復元建物に入るとどうみても緒方拳の顔ハメ看板があり少々驚かされました。
5. 山中御殿と七曲り
山中御殿と月山
菅谷口
菅谷口櫓跡
菅谷口の井戸
塩谷口
山中御殿全景
七曲り
七曲りから見た山中御殿
山中御殿は月山の中腹に位置する城内最大規模の曲輪で、菅谷口、御子守口、塩谷口の主要城内道がここに集結しています。
このことから城の中枢となっていたと考えられ、発掘調査によって御殿建築とみられる大型の掘立柱建物跡や石組みの土壙(墓穴)、そして礎石建物跡も見つかっています。
掘立柱建物跡と礎石建物跡が見つかったことから、尼子・堀尾両氏の時代を通して城内の重要な曲輪であったことは明白です。
周囲を囲む石垣は堀尾氏時代のもので、廃城直前まで手が加えられていたようです。
特に曲輪北端の菅谷口、南端の塩谷口周辺の石垣は堅固なもので、月山富田城でぜひとも見ておきたいポイントです。
この山中御殿から三ノ丸、二ノ丸、本丸のある月山山頂部へは七曲りと呼ばれる急峻な登城道を登る必要があります。
少し前までは登城道周辺に木々が生い茂っていたようですが、最近の整備で伐採され、山中御殿や遠く飯梨川対岸からもそのの急峻ぶりが見えるようになりました。
今ではどこの山城に行っても木々が生い茂り、麓からは城らしさを感じることが難しいですが、ここでは現役時代の山城の姿を垣間見ることができます。
6. 山吹井戸と三ノ丸
山吹井戸
三ノ丸その一
西から見た三ノ丸
三ノ丸その二
西袖ケ平からの眺望
七曲りの途中には現在でも湧き水をたたえた小さな山吹井戸があります。これより上には井戸らしき遺構はなかったので、山頂部の水需要を一手に担った井戸のようです。
このあたりからは眼下にこれまで登ってきた山中御殿や花ノ壇を見下ろすことができ、月山富田城のスケールを実感できます。
七曲りを登り切ると東西に細長い月山山頂部となります。山頂部には西から三ノ丸、二ノ丸、本丸が連郭式に設けられ、三ノ丸下には西袖ケ平が付属しています。
西端に位置する三ノ丸は山頂部の入口にあたる重要な曲輪で、堀尾氏時代には石垣が築かれました。
石垣は山中御殿と比べると小ぶりな積石が使われた野面積みでいかにも山城といった趣があります。
山麓の飯梨川沿いや城下町からはこのあたりがよく見え、見栄えを意識して二段の石垣を築いたと思われ、その立派さから一見するとここが本丸のようです。
ここに天守が建っていたとしたらさぞ見栄えがしたことでしょうが、月山富田城には尼子氏時代、堀尾氏時代を通して天守の存在は確認されていません。
三ノ丸下の西袖ケ平は西側に張り出した曲輪で、先端からは飯梨川河口まで一望でき、中海や弓ヶ浜半島を見ることができます。
7. 三ノ丸から二ノ丸
三ノ丸から見た二ノ丸
二ノ丸
二ノ丸石垣
二ノ丸と堀切
二ノ丸と三ノ丸には大規模な石垣が積まれていますが、山中御殿のものと比べて隅石垣が算木積でないなど明らかに古式を示しています。
これを堀尾氏11年間の初期と後期の違いと考えるか、あるいは山頂部石垣はそれより前の毛利氏時代の構築によるためかはわかりません。
二ノ丸からは発掘調査により建物や柵、塀の柱穴跡が見つかっています。
そのうち一棟からは備前焼のカメ三個が発見され、飲み水や食料を保存するための建物であったと考えられます。
本丸との間には石垣で固められた深さ約10メートルの堀切があり、本丸を厳重に守っていました。
8. 本丸
本丸からの眺望
本丸
本丸と勝日高守神社
本丸内石垣
本丸は月山山頂部、東西に連なる本丸、二ノ丸、三ノ丸の最東端に位置しています。
本丸が月山山頂になりますが、本丸、二ノ丸は高低差がほとんどなく、一つの平場を堀切で区切りその残土で山頂部を整地したのではないかと思います。
堀を掘ったその残土で平場を作る…中世、近世に関わらず城造りの基本となります。
本丸は二ノ丸や三ノ丸に比べ虎口も質素で、大規模な石垣は設けられていません。
わずかに確認できたそれらしきものは本丸奥に鎮座する勝日高守神社の裏、高さ1メートルに満たない石垣ですがいつ頃のものかはわかりません。
また、本丸ということでさぞや見晴らしが良いのかと思いきや三ノ丸や二の丸に比べるとあまり眺望は開けていません。
本丸から北東に向かう尾根筋にも、鉢屋ケ成を始めとした小曲輪が数多く配置されていますが、史跡としての整備がされているのはここまでとなります。
9. 御子守口登城道周辺
御子守口登城道から見た月山
巌倉寺
堀尾吉晴の墓
山中鹿介供養塔
山中御殿には菅谷口、御子守口、塩谷口の主要城内道が集結していますが、現在観光客が主に往来している安来歴史資料館からの登城道はこのいずれでもない近代になって整備された登城道です。
せっかくなので帰りは御子守口登城道を下っていきます。
御子守口は月山富田城の大手口にあたり、当時の再現イラストを見ると尾根筋の曲輪を通りながら山中御殿に至るのではなく、尾根と尾根の間の谷底に設けられたこの道を通るのが正式な登城道のようです。
多数の曲輪に挟まれたこの道を登ってくる攻め手は甚大な被害を受けたことでしょう。
現在でも両側の急斜面を見ると容易にこれを想像できます。
御子守口登城道南側にも数多くの曲輪がありましたが、その曲輪の一つに巌倉寺があります。
巌倉寺は真言宗の古刹で、歴代城主によって暑く崇敬されてきました。境内には堀尾吉晴の墓と伝わる日本最大級の五輪塔があります。
五輪塔の裏には堀尾吉晴の妻によって建てられた山中鹿介の供養塔もあります。
この二つの石塔、本堂の近くではなくだいぶ奥まったわかりにくいところにあるので注意してください。
10. 三日月公園周辺
戸田橋と月山
尼子経久銅像その一
尼子経久銅像その二
三日月公園からの月山望遠
最後は飯梨川上流の戸田橋を渡り三日月公園に立ち寄ります。
安来市立歴史資料館で入手した安来市広瀬町の史跡ガイドマップにはやたらとカッコいい騎馬武者像が載っていました。
この写真と同じ写真を撮りたい!と思いたち、これはなにかと調べてみると飯梨川沿いの三日月公園にある尼子経久像だとわかり、急遽寄り道をしました。
この銅像の何が素晴らしいかというと、背後に望遠する月山山頂の三ノ丸石垣との組み合わせが実に絵になり、風雲急を告げるといった雰囲気満点です。
兜ではなく烏帽子姿なのも室町後期っぽく、経久が信長台頭前の古い時代の武将であることを思わせます。
城の地図
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