JR岡山駅東口正面に岡山電気軌道(路面電車)の岡山駅前電停があります。ここからは東山本線の電車が5分に一本の割合で発車しているので大変便利です。
また、城下電停までの運賃は100円なのでわかりやすいです。城下電停から最も近い入り口は本丸廊下門となりますが、ここは少し遠回りをして本丸大手門に当たる内下馬門跡から登城したいところです。
岡山城は関ケ原の戦い以前の織豊期の城の面影を色濃く残す城で、慶長2年(1597)に豊臣政権の重鎮である宇喜多秀家によって近世城郭化が行われました。
本丸の背後(北・東側)は旭川を天然の堀として利用した「後ろ堅固」の縄張りで、南・西側に二の丸、西の丸、三の曲輪が築かれました。
本丸以外は大半が市街地となりほとんど残っていませんが、旭川を挟んで岡山城の庭園として築かれた広大な後楽園が、日本三名園のひとつとして残っています。
近世城郭化が行われた安土桃山時代から江戸時代にかけて幾度かの改修が行われたため、様々な時代の石垣を同時に見ることが出来る石垣の博物館のような城でもあります。
特に天守台の石垣は不等辺五角形で初期の天守台の様子を今に伝えており、その上に建つ天守も信長の安土城を模したとも伝えられる初期望楼型天守で、江戸時代以降の整った天守にはない趣があります。
旭川の向こう岸から見上げる天守と川面に映る天守は絶好の撮影ポイントです。
各写真は大きな写真にリンクしています。各写真の下の番号は
城の地図と対応しています。赤い番号は写真の撮影対象の場所を示し、青い番号は写真の撮影場所を示します。
1. 内下馬門跡
本丸の大手門は内下馬門です。左折れの内枡形を形成しています。内下馬門に至る目安橋は現在は土橋となっていますが、かつては木造で丸みを帯びた太鼓橋でした。
石垣には威厳を示すために巨石が使用されており、岡山城の巨石は本丸の大手門であるこの内下馬門周辺に多く使われています。
最大のものは高さ4.1メートル、幅3.4メートルあります。しかし厚みはない板石であり、見かけほど強固ではありません。
2枚目写真のように石垣の隅部に大きな立石を入れるのは古式な手法で、宇喜多秀家時代に築かれたものと考えられていました。
しかし、発掘調査により関が原の戦い直後に池田氏によって築かれたものである可能性が高まりました。
2. 鉄門跡
鉄門は本丸表向の正門です。かつてはこの階段の上に櫓門がありました。
岡山城の本丸は高さの異なる上中下三段からなっておりそれぞれを本段、表向、下の段と呼んでいました。
このような高さの異なる曲輪で形成された本丸は、豊臣秀吉の大阪城に類似しており、秀吉の寵愛を受けた秀家が大阪城を真似たものと考えられています。
本段は宇喜多秀家築城時の様子をよく残しており、その特徴は郭の輪郭に直角部がほとんどなく、緩い鈍角を多用した縄張りであることが上げられます。
3. 不明門
不明門は本丸本段全体の入り口を固めた門です。現在の渡櫓門は昭和41年(1966)に鉄筋コンクリート造りで復興されたものです。
本丸本段への平素の出入りは北にある渡廊下を使用しており、この門はほとんど閉ざされていたため、この名前で呼ばれるようになりました。
4. 本丸表向
本丸表向にはかつて表向御殿が建てられていました。この御殿は表書院とも呼ばれ、城中で最大規模かつ最高格式の殿舎群でした。
南向きに建てられ、表側には玄関、広間、書院が並び藩政上の重要な儀式の場となっていました。
裏側には台所と中奥があり藩主の日常生活の場、および藩政を執る政庁となっていました。
本丸表向の縄張りは池田氏時代に大修築が行われており、本段とは趣が異なります。曲輪の輪郭は何箇所も直角に屈曲し、横矢掛かりを形成しています。隅櫓を多用していたことも特徴です。
このような縄張りは関ケ原の戦い後の築城ブーム時に流行した手法で、名古屋城や萩城など多くの城で見られる手法で、近世城郭らしい整った印象を受けます。
平成5年(1993)の発掘調査では3枚目写真の宇喜多秀家時代の野面積み石垣が地中から見つかりました。
この石垣は角が70度にも尖った全国的にも珍しい石垣で、元の地形をきっちり切り通したため珍しい石垣の隅が出来上がったと考えられています。
5. 大納戸櫓跡
本丸表向の南西隅には一階平面が長辺20メートル、短辺10メートルの城内最大の櫓である大納戸櫓が建っていました。
この櫓は三重四階の望楼型で、小早川秀秋時代に沼城天守を移築したものと伝えられています。
沼城とは宇喜多秀家の父、直家が永禄年間(1558-70)に築いたとされる城で、詳細は明らかではありませんが、江戸時代の絵図には天守台らしき高台が描かれています。
慶長6年(1602)以前に遡る相当に古い天守であることが考えられ、城郭史を考える上でも重要な建物でした。
古写真等でその外観は確認でき、下重の大入母屋に上重の屋根を直行するように望楼部を乗せる姿は望楼型天守でも最古式のもので、岡山城の天守よりも古い時代の建物であったことは間違いないと考えられています。
6. 月見櫓
本丸表向の北西隅には月見櫓があります。池田忠雄時代の元和元年(1615)から寛永年間(1624-1645)前半に建てられたものです。
城外側からみると二重、城内側から見ると三重で、内部は二階、地下一階となっています。
城外側初重目には入母屋破風を設け望楼型に見せていますが、城内側では層塔型となっており、平面も正方形に近く新しい時期の形式となっています。
唐破風の出窓や出格子を多用した華麗な意匠となっています。二階の城内側は入側の開放的な造りとなっており、月見や小宴を催すのに格好の構造となっています。
7. 天守
岡山城の天守は本丸本段北端に位置しています。五重六階の望楼型天守です。
最大の特徴は一階平面の形状で、不等辺五角形で並行となる辺は一切なく、東西方向に長細くなっています。
石垣築造技術が未発達な時代、正確な四角形の天守台を造ることができない事があり、そうした場合は天守一階を石垣と同じ不整形に建て、
一階ないし二階に入母屋の大屋根を掛け、その上部に正方形の望楼部を建て天守台の歪みを吸収していました。
望楼型天守は数多くありますが、ここまで複雑な形状の天守台は岡山城と織田信長が築いた安土城(不等辺八角形の天守台)のみで他に例がありません。
そのためか、岡山城は安土城を模したという伝承もあります。確かに秀吉がすでに大阪城(正方形の天守台)を築いた後に建てられた天守であり、石垣を整えることは不可能ではなかったと考えられます。
また、天守北面の大入母屋の隅を隠すための唐破風、一見すると三重目のように見える巨大な入母屋造りの出窓など、安土城と類似する点が数多く見られます。
このことから秀吉が自身の権威が信長を超えたことを示すために、家臣である秀家に安土城を模した天守を建てさせたといった説も出ています。
宇喜多秀家創建の天守は昭和20年(1945)6月29日の空襲で消失しました。最初期の天守の様子を伝える非常に貴重な建物であっただけに残念です。
現在の天守は昭和41年(1966)に鉄筋コンクリート造りで外観復元されたものですが、天守に地下を造り通用口とするなど、正確な外観復元とはなっていません。
かつては城に接続する付櫓(塩蔵)からのみ天守に出入りすることができました。
平成8年(1996)には秀家築創建時をイメージし、金箔瓦を施すなどの改修を行い、安土桃山風のきらびやかな天守となりました。
8. 天守台
天守台は宇喜多秀家による創建時のまま現在に残っています。
関が原の戦い以前の古い石垣らしく野面積みとなっており、非常に多くの丸い石材が使用されています。
前項でご紹介した通り、不等辺五角形の不整形な形状のため、鈍角に折れ曲がる部分が多いのですが、隅部は算木積み風の積み方をしており、念入りに施工されています。
算木積みの原点といったところでしょうか。築城後400年を経てなお健在なことから石積み技術の高さをうかがいしることができます。
9. 廊下門
廊下門は本丸表向の北側に位置する渡櫓門です。この廊下門は名前が示す通り、本丸本段にあった本段御殿と表向御殿をつなぐ廊下の役割を果たしていました。
岡山城本丸は地盤高の異なる三つの曲輪から形成され、下段(下の段)には花畑御殿、中段(表向)には表向御殿、上段(本段)には本段御殿があり、藩主がそれらを行き来するために三つの渡り廊下が築かれました。
本段御殿と表向御殿をつなぐものが2棟、本段御殿と花畑御殿をつなぐものが1棟で、この廊下門以外は柱の上に廊下を渡しており、さながら空中回廊のようでした。
城の曲輪を廊下が超えることは軍事上好ましくなく、江戸時代になってからの泰平ぶりを示すものとも言えそうです。
このような渡廊下は盛岡城の本丸と二の丸の間にもありましたが、全国的に珍しいものでした。
現在の建物は昭和41年(1966)に鉄筋コンクリート造りで復興されたものです。
10. 六十一雁木下門跡と要害門
本丸本段東面中央には本丸本段の搦手に当たる六十一雁木下門と要害門があります。
六十一雁木下門は江戸時代の絵図によると小型の切妻造りの櫓門で、1枚目写真、階段左側の石垣の上に通路をまたいで築かれていました。要害門は階段の上の薬医門です。
両門とも明治時代に破却されましたが、要害門のみ昭和41年(1966)に木造で復興されました。
11. 本丸の石垣
本丸周辺では宇喜多秀家築城時のものから江戸時代修築時の石垣まで、さまざまな時代、方式の石垣を見ることができます。
1枚目写真は本段東側の石垣で、秀家が築いた石垣の隅部(左側)に小早川秀秋が石垣を継ぎ足した部分を見ることができます。
秀家は安定性の高い大型の石材をきちっと積んでいるのに対して、秀秋は丸みの強い石材を粗雑に積んでいます。
2枚目写真は本段南東の石垣で、秀家が慶長2年(1597)までに築いた野面積みの石垣です。
西寄りでは石垣が3メートル近く埋まっており、それを合わせると高さは約16メートルになり、関が原の戦い以前の石垣としては全国屈指の高さを誇ります。
3枚目写真の石垣も2枚目写真と同様に秀家が築いた石垣で、関が原の戦い以前の鈍角の折れを多用した古い縄張りがよくわかる部分です。
4枚目写真は本丸表向西側の石垣で、写真手前の赤っぽい石垣は小早川秀秋の修築によるもの、奥の白っぽい石垣は池田氏が修築したものです。
関が原の戦い以後に流行した直角の屈曲を多用した縄張りですが、秀秋修築の石垣は野面積み、池田氏修築のものは打込み接ぎとなっておりここでも石垣の進化を垣間見ることができます。
12. 後楽園
岡山城の北側、旭川の対岸に築かれた池泉回遊式の大名庭園です。金沢の兼六園、水戸の偕楽園とともに日本三名園のひとつに数えられています。
この庭園は池田綱政によって貞享4年(1687)から元禄13年(1700)にかけて造営されたもので、最初は御菜園場などと呼ばれていましたが、城の背後に位置することから御後園と呼ばれるようになり、
後楽園と呼ばれるようになったのは明治4年(1871)からです。
後楽園には馬場や弓場も設けられており、城主や家臣の武芸の鍛錬の場でもあり、儒学者を招いての抗議も行われるなど、岡山藩文化センターのような
役割を果たしていました。江戸時代の庭園としては他に例を見ない広大な芝生を植えているのが特徴で、晴れの国と呼ばれる岡山の青空とよくマッチしています。