アクセス
公共交通機関利用の場合、JR唐津駅から歩いて10分ほどの大手口バスセンターからのバスでのアクセスが基本となります。唐津バスセンターは最近建て替えられたようで、近代的で綺麗なバスセンターになっています。
唐津バスセンターから名護屋城博物館前まで乗り継ぎなしのバスもありますが本数は少ないです。そのためイカで有名な呼子でバスを乗り継ぐのが楽かと思います。呼子経由であれば大手口バスセンターからのバスは1時間に2本程度と比較的多く、そのうち半分ほどで名護屋城博物館前を経由する呼子・波戸岬線のバスにスムーズに乗り継げます。
なお日中の呼子・波戸岬線は大型ワゴン車を使用したはジャンボタクシーとなっており、初めての方は戸惑うと思います。乗り逃さないよう注意してください。時刻表などの詳細は
昭和バスの公式サイトを確認してください。
感想
12年ぶり二回目の登城です。また必ず登城すると思いつつ九州はなかなか遠く随分と間が空いてしまいました。今回の九州遠征は一年のうちでも晴れる確率が高い10月中旬に計画、狙い通り全日好天に恵まれそのラストを飾るに相応しい登城ができました。
肥前名護屋城には建物は一切残っていませんが、石垣は残存状況がよく復元も進んでおり、名護屋城博物館も併設され史跡としての整備がよくされています。また、各所でV字型に石垣を破壊した痕跡を観察でき、徳川幕府による「破却」が城郭全体を跡形もなく破壊するのではなく、石垣の要所を破壊するに留まっていたことが伺えます。
関ヶ原の戦い以前の大規模な織豊系城郭であり、慶長の築城ラッシュ時に築かれた城より古式な石垣は貴重です。木々に覆われた三ノ丸から見た本丸大手の石垣はどことなく
安土城を彷彿とさせます。他にも安土城との共通点としてごく短期間繁栄し、たくさんの有名武将が集まったことが挙げれれると思います。かつて九州の果てに当時の京都、大坂に匹敵する人口10万人の大都市が存在し、何事もなかったかのように元に戻ったという点もグッときます。
天守台からはかつては軍船が溢れていたであろう名護屋浦、玄界灘の島々を臨むことができ、秀吉が見ていたのと同じ風景を見ることができます。栄枯盛衰、盛者必衰、こんな言葉が浮かぶロマン満点の古城です。
登城記
写真をクリックすると画像ファイルが表示できます。
1. 名護屋城博物館
名護屋城博物館
名護屋城模型
名護屋城模型
名護屋城模型
名護屋城模型
名護屋城模型
案内図、模型Dの方向から山里丸を中心にアップで撮影。
黄金の茶室(復元)
日本丸と亀甲船の模型
名護屋城博物館前バス停の目の前には「道の駅 桃山天下市」がありますがお土産は帰りにゆっくり見るとして、まずは名護屋城博物館に向かいます。地図では名護屋城博物館の建物はバス停と同じ側(道路左側)にありますが、歩道のある道路右側に渡りトンネルの上をまたいで建物に入ります。
名護屋城博物館は平成5年(1993)に開館した佐賀県立の博物館で、名護屋城跡からの出土品などを展示しています。入場料は無料です。
展示品の中でも名護屋城とその周囲の広い範囲を再現した模型は見事で、全国の城で展示されている城郭模型の中でもトップクラスの出来だと思います。この模型を見ると本当に10万人の人口だったのかという疑問は浮かびますが、白漆喰でまとめられた建物の様子や曲輪の位置関係がよくわかります。まずはこの模型をじっくり観察してこれから歩き回る城の縄張りを叩き込みます。
他にも秀吉の御座船であった日本丸、朝鮮軍の亀甲船の模型なども完成度が高く、これらをじっくり見るだけでも結構な時間がかかります。
2023年3月には秀吉が名護屋城に持ち込んだ組み立て式の黄金の茶室も復元公開され、実際に茶室内で喫茶できるプログラムもあるようです。大阪城などにも黄金の茶室は復元されていますが、実際に茶室内に入ることができるのは全国でもここだけのようです。
2. 大手口・東出丸
大手口
正面の高石垣は三ノ丸のもの。
大手口
大手口から東出丸まではゆるやかな坂道となっている。
大手口櫓台
大手口右脇に位置する。
大手口から見た三ノ丸石垣
東出丸櫓台
大手口側から撮影。
東出丸櫓台
東出丸内から撮影。
東出丸門の礎石
東出丸
城外側を向いて撮影。
東出丸
三ノ丸側を向いて撮影。
東出丸から見た大手口方面
東出丸櫓台から撮影。
東出丸から見た名護屋浦方面
写真ほぼ中央の開けた草地は徳川家康陣屋跡。
東出丸説明版
大手口は名護屋城主要部の南側、三ノ丸南東隅の直下に位置しており、唐津へと続く太閤道の起点となっています。名護屋城の一級資料である肥前名護屋城図屏風では大手口は三ノ丸の裏側になり描かれていないためどのような形式の門であったかは不明です。名護屋城博物館の模型では薬医門ないし高麗門、右脇の櫓は二重櫓として復元されています。
発掘調査でも礎石の痕跡は見つかっていないため建物自体なかった可能性もあります。右脇の櫓台は規模が小さく二重櫓を建てるには少々狭いのではといった印象を受けます。
大手口から三ノ丸東面に沿った緩やかな坂道を登ると主要部南側に突出した東出丸に至ります。
東出丸は小さな曲輪で、門跡には礎石が残っており大手口と同様に右脇に櫓台があります。肥前名護屋城図屏風では門、櫓ともに描かれていません。名護屋城博物館の模型では大手門と同様に薬医門ないし高麗門、右脇の櫓は二重櫓として復元されています。東出丸はその規模から三ノ丸の馬出しや外枡形的な位置付けの曲輪だったのかもしれません。
3. 三ノ丸
東出丸側の三ノ丸虎口
三ノ丸
三ノ丸から見た本丸大手
三ノ丸井戸
城内の高台で唯一の井戸。
馬場側の三ノ丸虎口
左側は城内最大規模の三ノ丸櫓台。
三ノ丸櫓台
三ノ丸櫓台西面
写真中央の巨石は城内最大の鏡石で重さ約11トン。
三ノ丸南東隅櫓台
三ノ丸南東隅櫓台・旧石段
三ノ丸南東隅櫓台・新石段
三の丸は本丸の東側に位置する東西75メートル、南北110メートルの曲輪で東出丸、本丸、馬場、水手通路と接続しています。肥前名護屋城図屏風には公家風の人物や複数の櫓、御殿が描かれており、発掘調査でも玉砂利敷や礎石の痕跡が見つかっています。
三ノ丸は木々の少ない開けた曲輪が多い現在の名護屋城内では珍しく木々が茂り少し薄暗くなっています。そのためか三ノ丸から見た本丸大手はどことなく
安土城の本丸を彷彿とさせます。織豊系城郭ということで同じような雰囲気があるのかもしれません。
東出丸側の虎口は、名護屋城図屏風には真壁造で切妻屋根の渡櫓門が描かれており、門跡からは面白いことに奈良時代から平安時代にかけて流通した神功開宝という古銭が出土しています。
三ノ丸の中央部には名護屋城の高台で唯一の井戸があり、現在の深さは2メートルほどですが、三ノ丸は高台であり、湧き水の深さまで掘っているとすれば当時はかなりの深さであったと推定されています。
馬場側の三ノ丸虎口脇の三ノ丸櫓台は城内最大規模の櫓台で、馬場に面した西面には三つの巨石が鏡石として使用され、中央の鏡石は重さ約11トンで城内最大です。解体修理では栗石の一部に大型石材を使用していることや、石材を一尺単位の規格で割ろうとした矢穴跡が確認されています。
南東隅櫓台では発掘調査によって櫓台に続く二つの石段が見つかっています。北側の石段(旧石段)はほぼ完全に埋められていたもので、現在の地面より1.2メートル低いことから二つの石段が同時期に存在していたのではないことがわかりました。また、旧石段は櫓台から北にはずれており、登り上がった先も狭く歩きにくいため石段として実際に使用された可能性は低いようです。これらから新旧二つの石段は名護屋城築城後に改造したというよりも、櫓台を構築しているときに設計変更が行われたものと考えられています。
名護屋城ではこのような改造の跡が各所で見つかっていますが、これは割普請によって城造りを各大名に分担させたことや、出兵に合わせて築城を急いだことなどが原因と考えられています。
4. 本丸
本丸大手
三ノ丸側から撮影。
本丸大手
本丸側から撮影。
本丸大手の雁木
本丸大手説明版
本丸
中央の石碑は東郷平八郎筆による名護屋城址の碑。
本丸西側
手前は多門櫓跡、奥は天守台。
天守台
本丸から撮影。
天守台礎石
天守台
遊撃丸から撮影。
天守台
水手曲輪から撮影。
天守台からの360度パノラマ(右にスクロールできます)
二の丸、遊撃丸を見下ろし、玄界灘に浮かぶ島々、天気が良ければ遠く壱岐や対馬まで見渡せる。
名護屋城の最高所である本丸は三ノ丸、帯曲輪(三ノ丸と水手曲輪に続く)と接続しています。
本丸大手は三ノ丸からの虎口で、屈曲させた通路の途中に門を設ける食違虎口で、発掘では大きな礎石やL字型に曲がった石段、石垣の上へあがる雁木の遺構、大量の瓦などが見つかっています。平成5年(1993)の石垣修理の際、発掘の結果判明した変化の最終時期を基本に門礎石を加えて整備されました。
肥前名護屋城図屏風では真壁造で切妻屋根の渡櫓門、その脇に少し間隔を空けて二重櫓が描かれています。
肥前名護屋城図屏風や名護屋城博物館の模型をよく観察すると、名護屋城の渡櫓門がもれなく切妻造であることに気づきます。切妻屋根は格式が低く、渡櫓門のように規模の大きな門は入母屋造にするのが一般的です。あえて切妻造にしているのはなにか意図があるのではと勘ぐってしまいます。
本丸には当時のキリスト教宣教師が「驚嘆に値する程の美麗、清潔、新鮮、巨大なもの」と記録した本丸御殿が建っていました。発掘調査では本丸一面に玉石が敷かれ、一部に玉石が敷かれていない部分がありました。その部分には礎石が点在しており、13棟の建物と各建物を繋ぐ廊下、門が確認されました。最も大きな建物は300畳の広さで諸大名が秀吉と謁見する「御対面所」と考えられています。建物周辺からは瓦の出土が少なく、肥前名護屋城図屏風で描かれたように桧皮・こけら葺の格式の高い御殿だったようです。
現在これらの遺構は保護のため埋め戻され、盛土を行い規模や形を示すと共に、擬似礎石を置いて整備されています。
本丸北西隅には天守台があります。名護屋城で最も見晴らしの良い場所で、お城好きでなくとも必見の絶景を見ることが出来ます。
肥前名護屋城図屏風には五重の望楼型天守が描かれており、平七間、妻六間、高さは25〜30メートルであったと推定されています。黒を基調とした
豊臣大坂城の天守とは対象的な白漆喰総塗籠造の細身の瀟洒な姿だったようです。
発掘調査で礎石、穴蔵の石垣、穴蔵への二か所の出入り口などが発見され、穴蔵の床面は玉石敷きの土間であったことがわかりました。天守は江戸時代に入って間もなく取り壊され、天守台石垣も同時に取り壊されたものと推定されています。城の象徴であるためか、城内の他の石垣に比べ破却が徹底的に行われており、土盛りだけが現存する状態となっています。
江戸時代を通して唐津藩によって古城を管理する「古城番」が城内に置かれますが、天守台からも番所のものと思われる石列などが見つかっています。
5. 馬場
馬場
馬場から見た本丸南面石垣
馬場櫓台
馬場櫓台隅石
馬場櫓台
二ノ丸側から撮影。
馬場説明版
馬場は本丸の南側に位置する東西100メートル、南北15メートルの細長い帯曲輪で、ここで乗馬の訓練をしたとも伝えられています。本丸には接続していませんが、二ノ丸と三ノ丸を連絡する役割を果たしています。本丸までの高さは12メートルあり、本丸南面の高石垣がよく残されています。南側の石垣には櫓に通じる石段も残り、築城時の様子と崩壊した状況を同時に観察することができます。
馬場の途中には馬場櫓台があり、隅石では矢穴をはっきりと確認できます。櫓台西方の石垣上部と馬場通路面には海岸産玉砂利が敷き詰められていたようですが、この周辺に門等の建物を示す痕跡は発見されませんでした。
曲輪の隅部以外に突然現れる櫓台は城内でも特異な配置ですが、中央よりかなり二の丸側に位置しておりここを境に馬場と二ノ丸が分かれていたと考えても差し支えはないような気もします。
肥前名護屋城図屏風では本丸の裏側に位置することから描かれていないため、謎の多い曲輪です。
6. 二ノ丸・遊撃丸
二ノ丸
二ノ丸長屋建物跡
二ノ丸西側石塁
二ノ丸合坂と雁木
南側から撮影。
二ノ丸合坂と雁木
北側から撮影。
二ノ丸西側石類
石塁上から撮影。
遊撃丸南面石垣
V字状の破却跡が残る。
遊撃丸
遊撃丸石段
遊撃丸説明板
二ノ丸は本丸西側に位置する本丸に匹敵する規模の曲輪で、馬場、弾正丸、遊撃丸と接続し、城外への虎口として船手口が設けられています。肥前名護屋城図屏風では二ノ丸に桧皮葺あるいはこけら葺で入母屋造りの屋根を持つ御殿風建築や瓦葺の門や塀、西面石塁上には多聞櫓が描かれています。
三棟の掘立柱建物跡が発見されていますが周辺から瓦が発見されず、掘立柱の簡素な建物であることから築城時の仮設敵な建物であったのではないかと推定されています。
西面石塁にはいくつかの合坂があり、発掘調査では最下段から軒丸瓦や丸瓦を重ねあわせた瓦積みが整然と6列並んだ状態で発見されました。これらの瓦群の上に石材や裏栗石が堆積していたことから、瓦を置いた後に石垣を破却したものと推定されています。これらは江戸時代に行われた名護屋城の破却を考える上での重要な資料となっています。
遊撃丸は天守台の真下、西側に位置する曲輪です。二ノ丸と同じ高さに位置しており、二ノ丸の一部を石塁で区切る形で設けています。文禄2年(1593)に明の講和施設(遊撃将軍)が滞在しもてなしを受けた曲輪といわれています。発掘調査では、門礎石・石段・玉砂利敷が発見され、船手門や天守台北側からは金箔瓦が出土しています。
天守台の真下に位置するこの曲輪からは、天守がさぞ立派に見えたことでしょう。秀吉は自分の力を誇示するために明の講和施設をこの曲輪でもてなしたのではないでしょうか。
7. 山里丸
上山里丸、草庵茶室跡
上山里丸石垣
草庵茶室跡説明板
山里丸虎口(くのき門か)
説明板に記載はないが肥前名護屋城図屏風に描かれた「くのき門」か。石段は広沢寺に続く。
広沢寺
山里口全景
昭和63年(1988)に名護屋城跡で最初に石垣保存修理工事を実施した箇所となる。
山里口
山里口
石段の先、真正面に広沢寺本堂がある。
山里口
最上段から撮影。
山里口説明板
山里丸は東出丸、三ノ丸の北に位置する曲輪で上・下二つの曲輪からなっています。曲輪の規模は名護屋城内でも屈指で、書院、御台所、添の間、上台所などの建物が建ち並んでいました。秀吉が在陣中に居住し、側室の広沢局らを呼び芝居・能・茶の湯を楽しんだと言われています。
上山里丸の西端部分からは掘立柱造りで四畳半規模の茶室跡が発見されました。茶室跡の周囲からは飛石、井戸跡、玉石敷、垣根跡などが発見され、飛石は細い石段を経て水手曲輪方面に接続していました。本丸方面との連絡に使用していた通路でしょうか。
上山里丸には広沢の局が眼病治癒のお礼に仏像を祀ったのが始まりとされる広沢寺があります。広沢局は秀吉死後に出家しこの寺で秀吉の菩提を弔ったと伝えられています。現在、広沢寺の脇に続く小さな虎口がありますが、位置と構造から肥前名護屋城図屏風に描かれた「くのき門」の跡ではないかと思います。
山里口は上山里丸に通じる虎口で、二重の食違虎口となっており城内で最も見応えのある虎口です。名護屋城跡で唯一破却を免れた隅角部が存在しています。このような折れを多用した通路は織豊系城郭の特徴とされ、
熊本城などで類例を見ることが出来ます。発掘調査により門礎石・石段・玉砂利敷が発見されています。築城後400年を経て孕み、脱落、風化が著しかったため平成2年(1990)年に大規模な修理が行われました。
8. 鯱池・台所丸
鯱池
鯱池
正面民家下の石垣は当時のものか。
台所丸虎口
台所丸は私有地のためか立入禁止となっている。
太閤井戸
台所丸と鯱池は山里丸の北側に位置し、山里丸と連動する遊興的な場と考えられています。山里丸や鯱池・台所丸は名護屋城博物館から見ると城の裏側になるため、観光客もほとんどおらず静かな一体となっています。
鯱池は名護屋城で唯一の堀になります。肥前名護屋城図屏風では台所丸から鯱池に懸け造り状の建物が突出し、池には小舟が描かれています。
ただ、遊興的な池であれば細長い形ではなくまとまった広さとしたほうが良いですし、あくまで掘としての役割がメインであり、池としての役割は副次的なものだったのかなとも思います。しかし、そうすると他に堀がないことの説明がつきません。肥前名護屋城は大軍に対して水不足気味だったとも言われており、貯水池としての役割もあったのかもしれません。
太閤井戸は台所丸虎口の外側に位置しています。肥前名護屋城図屏風に描かれている井戸と現在の姿が全く一致する点で注目されていましたが、平成28年(2016)からの調査の結果、井戸を取り囲む石垣の大部分は後世の積み直しによるものと推定されています。
9. 水手曲輪
水手曲輪
水手曲輪井戸跡
帯曲輪
水手曲輪説明板
水手曲輪は本丸の北側に位置する方形の曲輪で、天守台北の一段下にある帯曲輪(三ノ丸や遊撃丸に続く)と接続しています。本丸等の雨水をこの曲輪に集めて貯めたと伝えられ、現在も井戸跡が残り、水に関する施設があったと推定されています。
名護屋城北側の水手曲輪や山里丸背後の斜面は石垣がなく、あったとしても低いものです。大手側となる名護屋城南側のような高石垣は見られません。しかし名護屋城図屏風や名護屋城博物館の模型ではしっかりと石垣があるため破却や経年によって失われたものと思われます。
10. 弾正丸
搦手口
搦手口
弾正丸から見た本丸石垣
弾正丸から見た大手口方面
弾正丸は三ノ丸の南側に位置する本丸や二ノ丸に匹敵する規模の曲輪で、三ノ丸と接続し、城外への虎口として搦手口を設けています。直線的な大手口とは異なり搦手口は典型的な食違虎口となっています。
搦手口の東側からは大手口方面の城外を広く見渡すことができます。あらためてこの風景を眺めてみると名護屋城がその規模に対して、虎口の造りや堀の数など防御面ではやや不十分と感じます。
一方、三ノ丸・本丸の御殿群は豪華で格式高く、広大な山里丸や鯱池など遊興施設は充実していました。これらのことから、攻撃されることを想定していない大軍の渡海のための前線基地であり、シンボル的な城であったことが伺えます。
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