アクセス
鉄道利用の場合、平戸城の最寄り駅は
松浦鉄道のたびら平戸口駅となります。
松浦鉄道は佐賀県有田駅と長崎県佐世保駅を結ぶ私鉄で、有田駅から佐世保駅まで通しで運行する列車はなく、途中の伊万里駅で乗り換えが必須です。たびら平戸口駅を経由する電車の本数は有田駅(伊万里で佐世保行きに連絡)、佐世保駅のいずれも1時間に1本ほどありアクセスは比較的容易です。松浦鉄道では博多からJRの特急で有田駅まで向かい、有田駅からたびら平戸口駅を目指すのが
おすすめされています。
なお、たびら平戸口駅は日本最西端の駅で駅自体が観光名所となっています。
たびら平戸口駅からは平戸桟橋を経由する西肥バスに乗り換えます。平戸城最寄りバス停は平戸桟橋より手前になりますが平戸桟橋は平戸の中心市街地に位置しコインロッカーもあるためおすすめです。
駅前の平戸口駅前バス停から平戸桟橋を経由するバスは1時間に1本ほど、時間帯によっては2時間ほど間が空くため注意が必要です。タイミングが悪いようであればたびら平戸口駅から徒歩15分ほどの田平港まで歩いてバスに乗ることもできます。田平港バス停には佐世保駅から平戸桟橋まで直通するバスが1時間に1本ほど経由しており、平戸口駅前バス停、田平港バス停のどちらかを使うことで平戸島に渡ることができます。ちなみに西肥バスはSuicaなどの交通系ICカードが使えます。
今回私は本土最西端の
神崎鼻に立ち寄ったため佐世保駅からバスを何回か乗り継ぎ12年ぶりの平戸城にたどり着きました。
感想
平戸城といえば城主自ら完成間近の城に放火するという日本史上屈指の珍事件がまず思い浮かびます。放火の理由として豊臣家とつながりが深かった松浦家は徳川家から睨まれており、その疑いを晴らすためだったとも言われていますが、真相は不明です。築城開始は慶長4年(1599)で関ヶ原の戦い直前、放火事件は慶長18年(1613)で徳川家が天下の実権を握った時期。築城中に天下の情勢は大きく変わり、外様大名の松浦家は気が気ではなかったのでしょう。とはいえ、自分の城であったとしても放火は大きな罪です。そんなことをすればかえって改易の口実にされるような気もするのですが、どのような気持ちで法印は自ら城に火を放ったのでしょうか。
その後、100年の時を経て生き残った松浦家が見事に城を再築するというのも他に例がなく、合戦の舞台にこそなりませんでしたがドラマチックな城だと思います。
城は三方を海に囲まれた平山城ですが、平戸の市街地から平戸港越しに見る平戸城は海城の趣が強いです。海沿いにも石垣が残っており、当時の舟入を引き継いだような施設も見ることが出来ます。現在の天守や多重櫓はすべて資料に基づかない模擬天守や復興櫓ですが、建築から60年以上が経ち、平戸の街に欠かせない風景となっています。天守は初層同大二階建、三重であり地元の小田原城と同じでどことなく親近感が湧きます。
平戸の街はコンパクトにまとまっており、平戸城とともにオランダ商館や周辺の史跡など見どころが多く、時間があれば1日中歩き回るのもよいかと思います。もちろん長崎名物のちゃんぽんも美味しかったです。
登城記
写真をクリックすると画像ファイルが表示できます。
1. 平戸城遠景
平戸城遠景
平戸港交流広場から撮影。左から見奏櫓、天守、中央の木陰に狸櫓、北虎口門、少し離れて地蔵坂櫓が写る。
ポルトガル船入港碑と平戸城遠景
平戸城遠景
田平港から撮影。
平戸城遠景
田平港からズームで撮影。左上に本丸門、左下に懐柔櫓、中央に天守、右に見奏櫓が写る。
小高い丘に築かれた平山城で東・西・北の三方を海に囲まれた海城でもある平戸城は遠くからもよく見える城です。
平戸の中心市街地からは平戸港越しに北と西から平戸城を一望できます。平戸港交流広場のポルトガル船入港碑は永禄4年(1561)にポルトガル船が最初に平戸に入港した場所に建てられています。平戸というとオランダ商館のイメージが強いですが、オランダ船の前にポルトガル船が入港し、南蛮貿易拠点としての平戸の歴史はここから始まりました。平戸瀬戸の対岸、九州本土の田平港からは東から平戸城を一望できます。
余談ですが平戸大橋を通ると田平港から十数分でたどり着ける平戸島ですが、日本本土には含まれません。本土最西端と同時に九州最西端でもある
神崎鼻は平戸島より東に位置しています。調べてみると平戸島最西端には本土最西端の代わりに「本土とつながった最西端の道」の看板があるようですが、公式のものではなく誰かが勝手に置いたもののようです。
2. 幸橋・幸橋御門・西口門跡
幸橋御門と幸橋
南側から撮影。
幸橋
オランダ人風のフェンス装飾と幸橋。
幸橋
北側から撮影。
幸橋御門
幸橋御門脇の石垣と土塀
西口門へ至る通路
鳥居は亀岡神社のもの。
三の丸石垣
西口門枡形跡
改変されている可能性もあるが位置的に西口門枡形跡か。
・幸橋
幸橋は平戸城西側の堀としての役割も果たしていた鏡川に掛けられた橋で、寛文9年(1669)に平戸藩主松浦法印により木造で造られ、元禄15年(1702)に松浦棟により石橋に架け替えられました。
架け替えは17世紀初めにオランダ商館の石造建築に携わった石工、豊前からオランダ技法を伝授された石工によって行われました。そのためオランダ橋とも呼ばれています。昭和59年(1984)に全面解体・修復復元が行われ、同時に幸橋御門も復元されました。
・幸橋御門
幸橋御門は薬医門として復元され、両脇には当時の石垣が残り土塀も復元されています。幸橋は境川河口に位置するため、石垣は満潮時の水面の高さで色が変わっており海城ならではです。
・西口門跡
西口門跡は平戸の中心市街地から最も近い平戸城の出入り口となります。かつては幸橋御門、串崎門、西口門と小規模な門が続いていましたがいずれも建物は現存していません。現在は西口門付近の石垣から枡形らしさを感じることが出来ます。
3. 北虎口門・狸櫓・地蔵坂櫓
地蔵坂櫓
北虎口門前の通路
通路突き当りが狸櫓。
北虎口門
北虎口門と地蔵坂櫓
北虎口門と地蔵坂櫓
内側、狸櫓前から撮影。
狸櫓
外側、北虎口門前から撮影。
石垣と土塀
土塀と石垣が現存。石垣は登り石垣となっている。
石狭間
石垣を切り欠いた珍しい狭間が現存しており貴重。
・北虎口門
北虎口門は宝永4年(1707)に完成した渡櫓門で、二の丸の北西に位置しています。窓がガラス戸になるなど後世に改造された部分が多いですが、平戸城に残る現存建物の一つです。当時の門扉は天守に展示されています。北虎口門内部から本丸へと延びる北側の石垣は登り石垣となっており、石狭間と土塀が現存しています。石狭間は石垣を切り欠いて狭間としたもので極めて珍しいものです。
・狸櫓
北虎口門の東側に隣接する狸櫓は、北虎口門と同様に平戸城に残る数少ない現存建物のひとつで、北虎口門前面に横矢をかける位置にあります。12年前は小さな郷土資料館として農耕機具などが展示されていましたが、現在は土産店として利用されいます。もともとは多門櫓と呼ばれていましたが次のような伝説があり狸櫓と呼ばれるようになりました。
この櫓の床下に狸が住んでいたが修理のため床板を全部はがした。すると狸が小姓に化けて松浦藩主の寝床にやってきてこう言った。「私達一族を櫓に住ませてください。そうすれば私達一族は永代に渡ってこの城を守ります。」これを聞き松浦藩主は床を元のように戻したところ狸がずっと住み着いた。この狸の一族は今も城の近くの松浦家で昔の約束通り旧家を守り扶持米(餌)も貰っているとか…
お城にまつわる伝説は恐ろしいのものが多いですが、こういったほっこりする伝説は嫌いじゃないです。
・地蔵坂櫓
北虎口門の西側、少し離れたところには地蔵坂櫓があります。古絵図によると平櫓だったようですが二重櫓として復興されました。
4. 本丸
本丸門
昭和に復興された復興門。
本丸門枡形石垣
かつては石段の上に渡櫓門があった。
本丸門礎石
天守
正面(西側)から撮影。
天守
南側から撮影。
天守
東側から撮影。
平戸城模型
江戸時代後期に作成されたもの。
天守廻縁からの眺め
東側を撮影。見奏櫓(左)、懐柔櫓(右)、平戸大橋が写る。
天守廻縁からの眺め(右にスクロールできます)
市街中心部方面を撮影。右端に亀岡神社、左端にオランダ商館が写る。
本丸は城内のその他の曲輪に比べて極端に狭く、当時は二重の沖見櫓一棟のみがありました。現在の天守は沖見櫓の櫓台を覆うように建てられており、天守の下には沖見櫓の櫓台石垣を見ることができます。
12年前に登城したときは天守の東側に平櫓として沖見櫓が復興されており、内側の壁がない休憩所のような造りに驚いたものですが、今回の登城時には取り壊され展望台になっていました。
・本丸門
本丸門は本丸の南面に位置しており本丸唯一の虎口でした。高麗門と渡櫓門を組み合わせた左折れの外枡形門でしたが、現在は高麗門の位置に渡櫓門が復興され、かつて渡櫓門があった枡形石段上には当時の門礎石が残されています。
・天守
天守は昭和37年(1962)に藤岡通夫氏の設計によって建てられた鉄筋コンクリート製、三重五階の模擬天守です。初重が腰屋根なしの二階(一部三階)建てとなっているのが特徴で、これは同じく藤岡通夫氏が設計した小田原城天守と類似しています。一階部分は下見板張で、遠くから見ると石垣のように見えバランスが良いです。
天守内部は郷土資料館となっていますが、最近リニューアルされたようで入口はQRコード式の自動改札となっていました。展示物の中でも必見は文化14年(1817)に作られた平戸城全体の木製模型で、江戸時代の城郭全体の模型は
丸亀城のものなどもありますが全国的にも珍しいものです。
天守最上階には廻縁が設けられ、本土と平戸島を結ぶ平戸大橋、平戸の中心市街地、平戸港、玄界灘などを見ることができます。平戸城の廻縁のフェンスは他の城のものに比べてかなり低く少々怖いですが視界が遮られません。
5. 二の丸・三ノ丸
乾櫓
復興櫓。天守のない平戸城の代用天守とされた。
亀岡神社
方敬門跡
外側(枡形外)から撮影。
方敬門外枡形
方敬門跡
内側から撮影。
二の丸大手門跡石垣
一の大手門跡
平戸城で最も規模が大きく立派な門であった。
一の大手門内枡形
城内側を向いて撮影。
一の大手門内枡形
城外側を向いて撮影。
一の大手門礎石
・二の丸
二の丸は平戸城の中心となる曲輪で、二の丸御殿や天守代用の乾櫓などがあり、乾櫓、見奏櫓、懐柔櫓、地蔵坂櫓が鉄筋コンクリート製で昭和37年(1962)に再建されています。
乾櫓は二の丸西面のほぼ中央に位置する三重三階の層塔型櫓で、城下町に向かって建ち、天守のなかった平戸城では実質的な天守となっていました。復興櫓ですが外観は城内の他の復興櫓に比べ古絵図に近くなっています。
見奏櫓と懐柔櫓は二の丸北面の平戸瀬戸に面し、いずれも二重二階の層塔型櫓として復興されています。懐柔櫓は令和3年(2021)に超高級宿泊施設に改装(一泊約60万円、1日1組限定)され、常設としては日本で唯一城郭に宿泊できる施設となっています。
虎口は方敬門と二の丸大手門があり、枡形や石垣が残り虎口らしい通路の折れを見ることが出来ます。
・亀岡神社
二の丸の中央にはかつて二の丸御殿があり平戸藩政の中心となっていました。御殿は一部二階建て、部屋数は90ほどあり、主室は「皇帝の間」と呼ばれていました。現在は明治11年(1878)に城内の別の場所から遷座した亀岡神社があり、松浦家の始祖となる源融から歴代の松浦家当主が祀られています。
・三ノ丸
三ノ丸は現在運動広場などとして使用されていますが、南側には平戸城内最大の門であった一の大手門があります。建物は残っていませんが、石垣、枡形、雁木、渡櫓門の門礎石が残っています。平戸の中心市街地から少し離れていますが、平戸城で最も立派な石垣を見ることができます。
6. オランダ商館周辺(城下町)
オランダ埠頭付近の石垣
オランダ埠頭付近の海沿いには当時のものと思われる石垣が残る。
オランダ埠頭
オランダ商館倉庫
オランダ商館倉庫背後の石垣
オランダ商館高台から見た平戸城
左にオランダ商館の屋根、平戸大橋、右側に平戸城が写る。
御船手屋敷石塀
オランダ井戸
オランダ塀
平戸は天文19年(1550)のポルトガル船来航から寛永18年(1641)にオランダ商館が長崎に移されるまで、日本の数少ない国際貿易港の一つとして栄え、一時はポルトガル、スペイン、イギリス、オランダの商館がありました。最終的にオランダ商館のみが残ったのは、以前は「鎖国」と呼ばれていた江戸幕府の対外政策によりますが、ヨーロッパ情勢の変化も要因とされています。
・オランダ埠頭
オランダ商館前の岸壁にはオランダ埠頭と呼ばれる当時の荷卸し・積み込みを行った石段が残り、周囲の岸壁にも当時のものと思われる石垣が残っています。これらの築造年代は不明ですが、長崎への商館移転時の際に破壊を免れた貴重な遺構です。
・オランダ商館
平戸のオランダ商館は平戸城から見て平戸港挟んだ北側、平戸の城下町の外れに位置しています。平成23年(2011)に寛永16年(1639)建造の洋風二階建ての商館倉庫が復元され、新たな平戸のシンボルとなっています。商館倉庫の裏側には高台があり、絵図等の記録から商館長の居宅が建っていたと考えられています。高台からは平戸港越しに平戸大橋と平戸城を見ることが出来ます。
・御船手屋敷石塀
御船手屋敷は船の操舵を役目とする下級武士の屋敷とされ、コの字型の石塀が現存しています。御船手屋敷という名前から石塀の内側に小舟を停めていたのかと思いきや、小さな池などを設け箱庭のような使い方をしていたようです。オランダ商館が長崎に移転後、跡地に築かれたため商館倉庫のすぐそばに位置しています。
・オランダ井戸
オランダ井戸はオランダ商館時代から残る数少ない遺構の一つです。井戸内部は北側を半円、南側を方形に築き、南側の構築方は西洋のレンガブロック積みの応用と考えれれています。地上部分は長方形となっており珍しい形の井戸です。
・オランダ塀
石段に沿って続くかまぼこ型の漆喰で塗り固められた塀はオランダ塀と呼ばれています。塀の東側にはオランダ商館があり、城下町からの目隠し、延焼防止などの目的で築かれました。塀の高さは2メートル、底辺幅は約70センチメートルあり商館当時の様子を残す遺構です。
地図が表示されない場合は、F5キーでページを更新してください。