感想など
久々の九州上陸ということで、最初は九州の玄関を守る小倉城に登城しました。
小倉城は山陽新幹線も乗り入れる小倉駅から徒歩15分程の市街地にあり、アクセスは申し分ないです。
最寄り駅はJR小倉駅の隣、JR西小倉駅ですが、電車の便を考えるとJR小倉駅を使用したほうが便利です。
政令指定都市の市街地中心に位置しており、遺構の多くは失われていますが、主郭部を囲む水堀の一部と石垣が残っています。
こられの部分はそれほど広くはないのでお堀の周りをぐるっと一周するのも良いと思います。
ただ、水堀に沿って斬新なデザインの巨大商業施設が建てられており、天守が埋もれてしまっているのが少々残念なところです。
南蛮造(唐造)の天守は、本来は破風のまったくないシンプルな層塔型天守でしたが、復興時に多くの破風で飾り立てられました。
この天守を見てデジャブを感じると思ったら、四重目より下はほぼ姫路城天守と造りが同じでした。
姫路城と南蛮造のハイブリッド天守ということで、これはこれでなかなか面白いものだと感じました。
登城記
1. 虎の門跡
虎の門跡その一
虎の門跡その二
虎の門跡の鏡石
虎の門跡から見た水堀
小倉駅から歩いた場合、最も近い城への入口がこの虎ノ門跡になります。
天守から見て丑寅(北東)に位置していますが、これが虎の門の名前の由来となったのかは不明です。
建物の礎石等は確認出来ませんでしたが、正面には巨大な鏡石が据えられています。
また、使用されている石材はかなり大きなものもあり、明らかに「見せる石垣」として築かれているようです。
石垣の隅は石材を縦に積んでいます。石材を縦に使用すると、石垣の強度が落ちるとされていますが、このように見せる石垣としてあえて縦に使用して見栄えを良くしている城もあります。
2. 水堀の石垣
水堀の石垣その一
水堀の石垣その二
水堀の石垣その三
水堀の石垣その四
小倉城では主郭部を囲んでいた水堀の一部が残っています。水堀の周囲を歩きながら石垣を観察すると、野面積みとなっており、隅の積み方に目が行きます。
ある場所では算木積みを志向しつつもまだまだ未熟、しかしある場所では完成度が高まり、また別の場所ではかなり完成された算木積みを見ることが出来ます。
ひとつの城で算木積みの進化の様子を見ることができます。
3. 西の口門跡
西の口門跡
西の口門跡から見た水堀
継ぎ足された石垣
矢穴
西の口門は主郭部の裏門で搦手門とも呼ばれていました。
下級藩士などはすべてこの門から出入りをしていたそうです。現在の小倉城ではこの西の口門から北側にあたる、本丸・北の丸の石垣がよく残っています。
このあたりでは石垣の継ぎ足し跡や、切り取りに失敗したであろう矢穴の残された石材を見ることが出来ます。また石材の間を埋める間詰め石もよく残っています。
4. 鉄門跡・槻門跡
鉄門跡
鉄門跡の焼けた石材
槻門跡
槻門跡の礎石
鉄門は槻門を通行できない下級藩士などが本丸への出入りに使用していた門です。
階段の幅は近代になってから2倍ほどに広げられていますが、外側から向かって左側が幕末時の石垣と階段です。
ここには第二次長州征伐による小倉城自焼時の火災によって赤く変色した石材を見ることが出来ます。
槻門は本丸御殿の玄関前に位置しており、家老や小笠原氏菩提寺住職など限られた者だけが通ることが出来る門でした。
渡櫓門だったようで、現在も礎石が残されています。
鉄門と槻門は文化11年(1814)の御家騒動(白黒騒動)のとき、藩主小笠原忠固を始めとする白(城)方が閉鎖し、本丸への黒方4家老の登城を阻んだと言われています。
5. 天守
本丸から見た天守
天守東面
北東から見た天守
北から見た天守
天守台石垣
天守台石垣隅
天守西面鬼瓦と唐破風
一重目大入母屋の鯱
最上階からの眺望(南)
最上階からの眺望(東)
最上階からの眺望(北)
最上階からの眺望(西)
現在の小倉城天守は藤岡通夫博士の設計により昭和34年(1959)に建てられた鉄筋コンクリート製の復興天守です。
藤岡通夫博士は
熊本城や
和歌山城などの外観復元も手がけています。
復興天守ということで、その外観は創建当時のものとは大きく変わっており、一重の下層部に三重の望楼部が載った望楼型天守となり、数多くの破風が設けられました。
細川忠興が慶長15年(1610)ごろに完成させた創建当時の天守は、四重五階で穴蔵のない構造でした。
特徴の一つは、飾り破風のない層塔型天守であることが上げられます。
小倉城天守が完成した慶長15年以前の五重規模の天守はすべて望楼型天守で、採光の目的で多くの破風を設ける必要がありました。
もちろん層塔型天守にも飾り破風をつけることは可能でしたが、破風自体が望楼型天守と対の古式なものとされたためか、一時期は無破風の層塔型天守が流行したようです。
もう少し時代が下ると、層塔型天守にも多くの飾り破風が設けられるようになります。
他に飾り破風のない層塔型天守は、丹波亀山城、
津山城、島原城などがあります。
特に津山城天守は小倉城天守の図面を参考に築かれたとも言われています。
通常であれば天守の図面持ち出しなど許されないことですが、細川忠興は気前よくこれを許したと伝えられています。
もう一つの特徴は、五階が四階よりも一回り大きく張り出した造りです。これは「南蛮造」とか「唐造」と呼ばれるものです。
岩国城や
高松城の天守にも見られるものですが、小倉城では意図的に張り出したものではなく、五階の廻縁を雨戸で覆ったものと考えられています。
その根拠として四重目の軒の出が、張り出しを考慮したものになっていない(張り出しに対して軒の出が浅い)ことが上げられます。
廻縁は見栄えが良く格式は上がりますが、風雨により痛みやすく保守が大変でした。
そのため小倉城と同様に
熊本城や福山城でも同様に廻縁を雨戸で覆っていました。
このような特徴を持った小倉城天守でしたが、天保8年(1837)の失火により焼失、あと数十年残っていれば、幕末期の写真にその姿を残していたかもしれません。
6. 大手門跡・着見櫓周辺
大手門跡その一
大手門跡その二
着見櫓
八坂神社裏の空堀
大手門は本丸の東に位置する表門です。藩主及び幕府役人の他は、分家の小倉新田藩主、家老、小笠原氏菩提寺住職、英彦山座主など主だった人物だけが通行を許されていました。
現在はスロープ状になっていますが、かつては階段状だったようで、本丸大手に相応しい渡櫓門でした。
着見櫓は本丸の北西に位置しており、鉄筋コンクリートで復興されたものです。パンフレットによると沖からの通行船を監視する櫓で、当時の場所にそのままの姿を再現したとのことです。
しかし小倉城の模型や古絵図を確認してもこのあたりに同様の櫓は見られないため少々疑問が残ります。
現在は「糠蔵」という土産店になっています。細川氏の後に小倉に入った小笠原忠真は、ぬか漬けが盛んな信州松本を統治していたこともあり、大変ぬか漬けを好んでいたとのこと。
そのため城下にもぬか漬けを奨励し、現在でも小倉にはぬか漬け文化が根づいています。
北の丸には現在、八坂神社が鎮座しています。もともと城下の鋳物師町にあったものを明治3年(1870)に移転したものです。
八坂神社の裏手には北の丸と本丸を区切る空堀が残っています。かつては水堀だったようで、この当たりの石垣は現在残る小倉城の石垣の中でも有数の高さとなっています。
城の地図
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