アクセスについては最寄り駅である明知鉄道の岩村駅から城の入り口にある岩村町歴史資料館までは徒歩20分ほどです。
城までの道筋は古い街並みを活かした整備がされており情緒たっぷりで退屈しません。
ただ明知鉄道の本数は一時間に一本しかないため注意が必要です。ですが、帰りの電車まで時間が余ってしまった!なんてことになっても、
ゆっくりと街並みを見ていればあっという間に時間がすぎることでしょう。
日本三大山城の一つに数えられる岩村城ですが、他の二つの城に比べると登城はだいぶ楽です。
それもそのはず、確かに本丸の標高は717メートルあるのですが麓の各ポイントの標高と直線距離は以下となっており…
岩村駅 標高約500メートル
↓ 直線距離 約1200メートル
岩村町歴史資料館 標高約560メートル
↓ 直線距離 約600メートル
岩村城本丸 標高約717メートル
あくまで目安ですが、岩村駅から岩村町歴史資料館までは1メートルあたり平均5センチメートルの勾配、岩村町歴史資料館から岩村城本丸までは1メートルあたり平均26センチの勾配となります。
山城としてはゆるやかな勾配で、山城の急峻な趣はあまりありません。それぞれの曲輪もなかなか広く、山城というよりは平山城といった雰囲気を感じました。
城内の各所に残る石垣は野面積みが多く、隅部の算木積みも未発達で安土桃山時代後期の様子を伝えています。
今回は積雪の影響で詳しく見ることが出来ませんでしたが、調べたところ打込ハギの石垣もどこかにあるとか…この辺りは同じ時代でも好みによって積み分けていたのかもしれません。
標高717メートルの本丸からの眺めは絶景かと思いきや、あまり良くありません。周りが木々に囲まれているためで、遠くを見渡せるのは北東方面のみです。
残念ながら情緒ある城下町を見下ろすことはほとんどできません。
いろいろと書いてきましたが、山の中に忽然と現れる石垣群は実に見事で、日本三大山城の名に恥じない立派な城です。
山城でありながら登山も比較的楽でおすすめできる城です。
今回は積雪に阻まれ隅々まで見ることができませんでしたが、いずれ折を見て再び登城したいです。
各写真は大きな写真にリンクしています。各写真の下の番号は
城の地図と対応しています。赤い番号は写真の撮影対象の場所を示し、青い番号は写真の撮影場所を示します。
1. 岩村の街並み
岩村駅から数分歩くと岩村の古い街並みが現れます。ここから岩村町歴史資料館までこのような情緒ある町並みが続きます。
最近電柱の地中化が完了したそうで、より一層昔の趣を感じられます。勾配は比較的緩やかで、ゆったりと街並みを楽しむことができます。
写真奥が岩村城方面になります。
途中、町の方に「お城に行くなら雪に気をつけて」と温かい声をかけていただきました。先日
苗木城に行ったことを話すと、苗木よりこっちのほうが雪深いとのこと。
2. 岩村町歴史資料館周辺
岩村町歴史資料館は昭和47年(1972)に城山の山麓、江戸時代の藩主邸跡に開館しました。二階建の資料館で、岩村城や岩村藩に関する資料を展示しています。
登城した月曜日は残念ながら休館日、見学することはできませんした。
平成2年(1990)には藩主邸の表向きに建てられていた、太鼓櫓、表御門、脇櫓、平重門などが復元されました。この辺りから城下町まではほど近く、太鼓の音もよく聞こえたのではないでしょうか。
3. 藤坂と初門
岩村城の大手登城道のうち、麓の藩主邸から一之門まで続く急な坂道は「藤坂」と呼ばれています。
加藤景康の妻が生まれ育った紀州から持参した種から育ったフジの大木があったことが由来とされています。
「初門」は比較的直線状に伸びる藤坂で唯一クランク状に折れ曲がった部分で、有事の際はここに臨時の門を設けて通行を遮断するようになっていました。
城山への最初の関門となります。
4. 一之門
一之門は大手一之門とも呼ばれ、古絵図によると石垣と石垣の間に建つ楼門だったようです。
城に向かって左側に多門櫓、右側に張り出した石垣上に土塀を設け、門前の守備を固めていました。
5. 土岐門
土岐門は一之門に続く第二の門で、登城道はこの門の内側で大きく折れ曲がり、小さな曲輪を形成しています。
古絵図によると薬医門または四脚門だったようです。土岐氏を破ってその城門を奪い移築したことからこの名前がついたとされています。
この門は恵那市内の徳祥寺に移築され現存しています。
6. 畳橋・追手門と三重櫓
畳橋は追手門へ渡るための橋で、南からの登城道と東向きに開かれた追手門をL字形につないでいました。
この形も特徴敵ですが、有事の際には床板を畳のようにめくることができ、このことから畳橋と呼ばれていました。
畳橋を渡ると棟門、枡形、渡櫓門で構成される追手門がありました。渡櫓門の脇には畳橋を正面も見下ろすように三重櫓が構えられており、天守のない岩村城の実質的な天守とされていました。
一枚目写真奥の石垣の上に三重櫓が建っていたようです。城下町の馬場と本通りはこの櫓を正面に見えるように設計されていました。
いくつもの石垣が折り重なる様子は岩村城の見どころのひとつです。
現在。この辺りの石垣は改変がされており、整備されている通路とかつての登城道は一致していないようです。
また、畳橋の架かっていた空堀が埋まってしまったためか、畳橋の端の位置もよくわからない状態です。
7. 八幡曲輪周辺
追手門を過ぎると視界が開け、直線上の緩やかな坂道となります。両脇には広々としたいくつかの曲輪が広がっています。
このあたりの造りを見ると平山城に居るような錯覚をしてしまいます。
竜神の井は岩村城で最大規模の井戸で、昭和60年(1985)に築城800年記念として復元されました。岐阜県の名水五十選に認定されており、今も水を湛えています。
ただし生水は飲用しないようにとのこと。
霧ヶ井は岩村城の別名「霧ヶ城」の由来となった井戸です。敵が攻めてきたとき、城内秘蔵の蛇骨をこの井戸に投じると、たちまちに霧が城を覆い隠し城を守ったといわれています。
蛇骨は二の丸の宝蔵に収蔵されており、虫干しをした記録が残されています。こちらも岐阜県の名水五十選に認定されています。
8. 六段壁
本丸の北東面に雛壇状に築かれた六段の石垣は六段壁と呼ばれ、岩村城のシンボルとなっています。
古絵図では石垣は最上部の一段のみ描かれており、崩落を防ぐために順次補強の石垣を積んでいった結果、現在の姿になったようです。
これらの石垣は犬走りとしても活用でき、防御面も強化されています。石垣の修築等にも利用されたことでしょう。
9. 長局埋門
長局埋門は本丸に至る表門にあたり、渡櫓門となっていました。門を潜ると帯曲輪状の長局となっており、ここからさらに一段上がったところが本丸となります。
10. 本丸
城内最高所の本丸は北と東に門が開かれ、東口門が表門にあたります。南東隅には昇竜の井戸があります。
現在では周囲を木々に囲まれ視界はよくありませんが、北東方面の視界は開けており長野方面の山々を望む事ができます。
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