「小田原」カテゴリーアーカイブ

小田原 歴史的町名碑めぐり その一

生まれも育ちもずっと小田原の私ですが、物心がついたときには小田原の街中のあちこちに昔の地名を記した、この石碑が建っていました。これまでなんとなく眺めてきた石碑ですが、全部でどのくらいの数が有るのだろうと思っていました。最近、小田原市のサイトでこの石碑の場所を網羅した資料を見つけたので、街中めぐりも兼ねて全てを写真に収め、町並みを記録しようと思い立ちました。

市のサイトによると、昭和60年度から設置を初め、105カ所にあるようです。同じ町名で複数の石碑となっている場合もあり、町名の数はこれより少ないです。
石碑はかつての小田原城惣構の内側に点在しており、広範囲に広がっています。
小田原駅周辺に長年住んでいますが、実はまだ足を踏み入れたことのない場所が多いことに驚きながら、写真を撮っていきたいと思います。

なお、石碑の掲載順番は私が巡った順番となります。

001 大新馬場(おおしんばば)2017/02/11撮影
「地名の起りは、南隣の中新馬場と区別するため新たにこの名がついたと考えられる。江戸時代の藩主稲葉氏の「永代日記」の天和二年(一六八二)3月の記録に「竹花町に近く新馬場があり、足軽小屋を設けた」とあるのは、この大新馬場のことと思われる。」

001-01-01_大新馬場
001-01-01_大新馬場
001-01-02_大新馬場
001-01-02_大新馬場

002 渋取(しぶとり)2017/02/11撮影
「古い時代の渋取は、花ノ木の北方の広い区域を示す地名であった。ところが、天正十八年(一五九〇)の豊臣秀吉の小田原攻めに備え、北条氏が小田原城惣構(そうがまえ)を築いたとき、渋取は惣構の内側と外側に分断された。この地域は内側の渋取で、江戸時代のはじめは町人地であったが、稲葉氏の時代に武家地に変えられ、その範囲も「渋取口」付近の極く限られた区域を指すようになった。」

002-01-02_渋取
002-01-02_渋取
002-01-01_渋取
002-01-01_渋取

003 中新馬場(なかしんばば)2017/02/11撮影
「地名の起こりは、古くはここが馬場に利用されていたためと考えられる。稲葉氏時代(一六三二~八五年)にはここに十二軒ほどの藩士屋敷があったが、幕末には大久保藩士の屋敷として約十六軒に増えている。」

003-01-01_中新馬場
003-01-01_中新馬場
003-01-02_中新馬場
003-01-02_中新馬場

004 七枚橋(しちまいばし)2017/02/11撮影
「抹香町から大新馬場に通ずる道路と護摩堂川とが交差するところに、七枚の切石を並べて作った石橋があり、「七枚橋」といわれていたという。後にこれが付近の地名となった。」

004-01-01_七枚橋
004-01-01_七枚橋
004-01-02_七枚橋
004-01-02_七枚橋

005 花ノ木(はなのき)2017/02/11撮影
「小田原北条氏時代の花ノ木は、主として蓮乗院の寺地であった。江戸時代にはその一部が武家地などに変わった。」

005-01-01_花ノ木
005-01-01_花ノ木
005-01-02_花ノ木
005-01-02_花ノ木

006-01 新宿町(しんしくちょう)2017/02/11撮影
006-02 新宿町(しんしくちょう)2017/02/11撮影
「江戸時代前期、城の大手口変更によって東海道が北に付け替えられた時にできた新町。町は、藩主帰城の時の出迎場であったほか、郷宿(ごうやど-藩役所などへ出向く村人が泊まる宿屋)や茶店があり、小田原提灯(ちょうちん)づくりの家もあった。」

006-01-01_新宿町
006-01-01_新宿町
006-01-02_新宿町
006-01-02_新宿町
006-02-01_新宿町
006-02-01_新宿町
006-02-02_新宿町
006-02-02_新宿町

007-01 古新宿町(こしんしくちょう)2017/02/11撮影
007-02 古新宿町(こしんしくちょう)2017/02/11撮影
「この町は、もと新宿町と呼ばれていたが、江戸時代前期、東海道が町の北寄りにつけかえられたとき、新たな東海道沿いに町ができ、これを新宿町としたため、この町を古新宿町と改めた。千度小路とともに漁業の中心地であった。」

007-01-01_古新宿町
007-01-01_古新宿町
007-01-02_古新宿町
007-01-02_古新宿町
007-02-01_古新宿町
007-02-01_古新宿町
007-02-02_古新宿町
007-02-02_古新宿町

008 鍋町(なべちょう)2017/02/11撮影
「この町の規模は、はっきりしないが、古新宿町と新宿町の一部を含む小町だった。小田原北条氏時代から町には鍋などを作る鋳物師(いもじ)が多く住んでいたので、この名がついたといわれている。」
鍋町付近には、早川浄水跡の碑があります。
「昔、西方の板橋村で早川を分水して山門町を通り、旧東海道を疏通して鍋町の屋並に沿って東に流れ新宿から山王松原江戸口の連池に入った。」

008-01-01_鍋町
008-01-01_鍋町
008-01-02_鍋町
008-01-02_鍋町
008-01-03_鍋町
008-01-03_鍋町

009 十王町・抹香町(じゅうおうちょう・まっこうちょう)2017/02/11撮影
「十王町は、別にこの付近の武家地も含んで抹香町とも呼ばれた。地名の由来は、十王堂(閻魔堂・えんまどう)のほか近くに寺が多く、線香の煙がいつもたえなかったからと言われている。」

009-01-01_十王町・抹香町
009-01-01_十王町・抹香町
009-01-02_十王町・抹香町
009-01-02_十王町・抹香町

010 唐人町(とうじんちょう)2017/02/11撮影
「小田原北条氏時代、中国人が遭難して小田原に漂着し、その中の四十余人が許されてこの地に居住したので、「唐人村」と呼ばれていたことが、唐人町の名称と関係があるものと考えられている。唐人町の通りは、寛永年間(一六二四~四三年)、将軍家光の上洛に先立ち、小田原城大手門に至る御成道(おなりみち)として新設されたもので、その東端には土塁をともなった柵門(黒門)が設けられていた。」

010-01-01_唐人町
010-01-01_唐人町
010-01-02_唐人町
010-01-02_唐人町

011-01 万町(よろっちょう)2017/02/11撮影
011-02 万町(よろっちょう)2017/02/11撮影
「町名は古くから「よろっちょう」とよばれた。町内には、七里役所という紀州(和歌山)藩の飛脚継立書(ひきゃくつぎたてじょ)があった。江戸時代末期には、旅籠(はたご)が五軒あり、小田原提灯(ちょうちん)づくりの家もあった。」

011-01-01_万町
011-01-01_万町
011-01-02_万町
011-01-02_万町
011-02-01_万町
011-02-01_万町
011-02-02_万町
011-02-02_万町

012 高梨町(たかなしちょう)2017/02/11撮影
「東海道から北へ向かう甲州道の起点に当たり、古くから商家、旅籠(はたご)が並んでいた。町の中央南寄りには下(しも)の問屋場(人足や馬による輸送の取継ぎ所)が置かれ、中宿町の上(かみ)の問屋場と十日交代で勤めていた。」

012-01-01_高梨町
012-01-01_高梨町
012-01-02_高梨町
012-01-02_高梨町

013-01 青物町(あおものちょう)2017/02/11撮影
013-02 青物町(あおものちょう)2017/02/11撮影
「小田原北条氏時代、町内に野菜の市(いち)が開かれていたのでこの名がついたといわれ、商人の多い町であった。東京の日本橋にあった青物町は、徳川家康のころ江戸の町づくりのため、この土地の人たちが移り住んだ町といわれる。」

013-01-01_青物町
013-01-01_青物町
013-01-02_青物町
013-01-02_青物町
013-02-01_青物町
013-02-01_青物町
013-02-02_青物町
013-02-02_青物町

014-01 宮前町(みやのまえちょう)2017/02/11撮影
014-02 宮前町(みやのまえちょう)2017/02/11撮影
「小田原北条氏時代には上町・下町に分かれていたと伝えられている。町の中央に城主専用の入口、浜手門口高札場(幕府の法令などを掲示する場所)があり、江戸時代末期、町内には本陣一、脇本陣二、旅籠(はたご)が二十三軒あって、本町とともに宿場町の中心であった。
宮前町には小田原宿に四軒あった本陣のうちの筆頭で、町年寄も勤めた清水金左衛門の本陣がありました。この本陣の敷地面積はおよそ二四〇坪で、大名や宮家などの宿泊に当てられました。明治天皇もここに五回ほど宿泊しており、それを記念した石碑が残されています。

014-01-01_宮前町
014-01-01_宮前町
014-01-03_宮前町
014-01-03_宮前町
014-02-01_宮前町
014-02-01_宮前町
014-02-02_宮前町
014-02-02_宮前町

015-01 宮小路(みやこうじ)2017/02/11撮影
「町名の由来は、松原神社の門前にあたるためといわれている。この横町は、神社の門前から東へ伸び、青物町に至るまでの通りをいう。」
宮小路にある松原神社は、小田原北条氏時代から江戸時代に至るまで、小田原城主から崇敬され、小田原宿の総鎮守とされた神社です。創建の時期は不明ですが、かつては鶴の森明神、松原大明神と呼ばれてました。
ここには可愛らしい亀をかたどった石があります。これは小田原の海岸に現れた大亀に由来するもので、これを吉兆として氏康は松原神社に参詣し舞を奉納しました。翌年、日本三大夜戦のひとつ、河越夜戦で北条氏康は寡兵で敵を打ち破り、関東制覇に大きな一歩を踏み出しました。

015-01-01_宮小路
015-01-01_宮小路
015-01-02_宮小路
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015-01-03_宮小路
015-01-03_宮小路

早川石丁場群関白沢支群見学会

11月6日(土)に行われた早川石丁場群関白沢支群(はやかわいしちょうばぐんかんぱくさわしぐん)の現地見学会の様子をお伝えします。この見学会は今年3月に早川石丁場群関白沢支群(小田原市)、中張窪(ちゅうばりくぼ)石丁場(静岡県熱海市)、宇佐美北部石丁場群(静岡県伊東市)が江戸城石垣石丁場跡として国指定史跡となったことをきっかけに開催されました。一夜城の近くに江戸城のための石切場跡があるということは聞いていたのですが、なかなか行く機会がなく、今回は通常入ることが出来ない民間地にも入れるとのことでこれは見逃す訳にはいかないと参加しました。

出発は入生田の神奈川県立生命の星・地球博物館、解散地は一夜城ということで足掛け3時間ほど、山を200メートルほど登ることになります。

生命の星地球博物館
生命の星地球博物館
8:45に生命の星地球博物館前に集合です。ここから早川にかかる太閤橋を渡り山を登っていきます。石垣山一夜城までの道はそこまで急ではないため、余裕を持って登ることができます。

太閤橋から早川上流方面を望む
太閤橋から早川上流方面を望む
太閤橋は石垣山一夜城の大手道として早川に掛けられたと伝えられる橋です。今では一夜城の正面は早川方面のイメージですが、考えてみると京都から東海道を進むとこちらが正面になります。17世紀の江戸城修築の際には、石垣山の石丁場からこのあたりに石を下ろして早川を下り、早川河口で大船に積み替えて江戸に向かったと考えられています。ただ現在の早川を見ているとこの水深と水量で石材を積めるだけの船を航行させることができたのかは疑問です。昔は今とは随分違う様子だったのでしょうか。

段々畑の中の石垣用石材
段々畑の中の石垣用石材
しばらく舗装された農道を登っていくと右側に段々畑が見えてきます。段々畑には取り残された巨大な石垣用石材が残されています。この辺りの林の中にはこのような石がゴロゴロしているそうです。

運び出そうとした石垣用石材
運び出そうとした石垣用石材
段々畑を進みしばらくすると右側にいわゆる残念石が残されています。残念石は石垣用の石材として整形されながら何らかの理由で途中で運搬を止めた石で、この辺りだと伊豆半島の各所に残されているものが有名です。この残念石は整形の様子から17世紀前半の江戸城修築時のもので、なんらかの理由でこの沢(関白沢)に落としてしまったため縁起が悪い(落ちる=落城)ために放置されたものと考えられています。

斜面から突き出た大岩
斜面から突き出た大岩
残念石からしばらく、左側には斜面から突き出た大岩があります。昔の石工はこのような岩を目ざとく見つけて石垣用の石材に整形していきました。この岩は安山岩で固く大きくなる傾向があるため石垣に適しています。

下から見た石曳道
下から見た石曳道

上から見た石曳道
上から見た石曳道
途中で車道と別れ林道を進むと階段があります。この階段の脇に2005年から2006年の発掘調査で「石曳道」が発見されました。長さ175メートルに渡って残され斜面を切り通し状に掘り込んで南から北東に緩やかなカーブを絵が描きなら続いています。彫り込みの幅は約3.5メートル~約4.5メートル、路面の幅は約1.2メートル~約1.5メートルあります。路面は傾斜角約12度~15度、平均約14度となっており石材の運搬を考慮した一定の角度となっています。路面には轍が残されており、石材を運ぶための「地車」と呼ばれる荷車のものと考えられています。この地車を牛に牽かせて石を運搬していた様子が屏風に残されています。当時はこのような石曳道が延々と早川まで続いていたと考えられています。

石垣用石材の刻印
石垣用石材の刻印
石垣用石材とそこに根を張った木
石垣用石材とそこに根を張った木
斜面に残された石垣用石材群その一
斜面に残された石垣用石材群その一
斜面に残された石垣用石材群その二
斜面に残された石垣用石材群その二
矢穴の残る巨石その一
矢穴の残る巨石その一

矢穴の残る巨石その二
矢穴の残る巨石その二
石曳道の先、舗装路のヘアピンカーブの先には未舗装の林道が続いています。ここから先は民有地で通常立ち入りできませんが、今回は見学会ということで特別に立ち入り許可をいただいたとのことで奥に進みます。民有地ということでまだ史跡整備等がされていないため案内板はないのですが、このあたりが今回の見学会で一番の見どころになります。というのもこの一帯には加工途中で放置された石材が木々の間に多数転がっているからです。中でも目算になりますが、幅5メートル以上、高さ5メートル以上はあろう巨石は見ごたえがあります。縦に矢穴を彫り石を四等分しようとしていたようですが、真ん中の矢穴から想定外の割れ方をしたようで放置されたようです。あるいはこの辺り一帯の石材が矢穴を彫られかなりの行程まで切り出しが進んでいるようなので、もしかしたら場所的な問題で運び出しを断念したのかもしれません。市職員の方から矢穴の有無で石垣の修築時期を知ることができるとの解説がありなるほどと思いました。確かに織豊期の古い石垣には矢穴はなく(石材の大きさも原因でしょうが)矢穴があるとういうことは石材加工技術の発達した慶長期移行の石垣と見ることができるそうです。

保存された石丁場
保存された石丁場

先程のヘアピンカーブに戻り先に舗装路を進むと車道の走る開けた場所に出ます。ここには車道の橋の下に続く細い階段があり、橋の下にひっそりとこの石丁場があります。車道は広域農道小田原湯河原線で、建設に伴う発掘調査によってこのあたりで最大規模、保存状態も良好なこの石丁場が発見されました。車道建設のため失われるところでしたが、その価値から橋を架ける設計に変更され、現地保存されています。そのためちょうど橋が屋根の代わりにもなっておりなかなかユニークな史跡となっています。
ここでは石材の加工がつい先程まで行われていたかのような生々しい状況が残されており、石丁場を理解する上で極めて重要な場所となっています。石材の加工は以下の行程となります。
1. 安山岩の転石を割るために「矢穴」を一列に彫る
2. 目的とする大きさに割る
3. 形を整える
4. 整形が完了した石材を集める

石垣山一夜城入り口
石垣山一夜城入り口
移設された石垣用石材
移設された石垣用石材

八の刻印
八の刻印
本日のゴール、石垣山一夜城に到着です。今回見てきたのはあくまで江戸時代の石丁場であり、石垣山一夜城に使われた石材の石丁場とは別のものです。石垣山一夜城に使用されている石材は矢穴を用いない野面積みで、明らかに本日見てきた石丁場の石材とは異なっています。小田原合戦の翌年に築城が始まった肥前名護屋城は矢穴を用いた野面積みとなっており、この石垣山一夜城が矢穴の有無の転機となったとも考えられています。そういった意味でもこの石垣山一夜城とその周辺の石丁場群は日本城郭史を語る上で重要な場所と言えそうです。
こうなると石垣山一夜城に使用された石材の石丁場も見てみたいものです。市職員の方の説明では「今回見てきた石丁場は人海戦術で石を切り出したもので、未熟練工もたくさんいたため時間がかかっていたであろう」とのこと。対して石垣山一夜城の石材は「熟練職人がカンと経験を頼りに短期間で切り出したもの」とのことでした。野面積みは石材の加工度が低く、打込ハギに比べ石材は小さめになるため、石丁場も小規模であり、このあたりの自然に完全に埋もれてしまっているのかも…などととりとめのないことを考えています。

石垣山一夜城へは入生田方面からゆるゆると登って、残念石や石丁場を見学していくとよりどっぷりお城の世界に浸れると思います。早川方面からのルートより坂道も緩いのでおすすめです。

海から小田原を見てみよう

私の好きな某番組のタイトルをパクってみました。

10/25(土)に小田原ガイド協会主催「海から見る小田原・真鶴〜相模湾から眺める富士・箱根・丹沢〜」が行われました。普段は真鶴から三ツ石のあたりまで運行している遊覧船で小田原方面まで行ってみようという企画です。海から小田原を見る貴重な機会ということで参加しました。
真鶴から早川のあたりまではまとまった平地はほとんどなく、海から直接山が立ち上がる地形が続き、その先に足柄平野が広がります。海から見ると小田原もなかなか都会に見えるから不思議なものです。背後には街を抱くように箱根連山、丹沢山が望めます。
この日は残念ながらガスってて伊豆大島や三浦半島は見ることが出来ませんでした。富士山は少し見えましたがすぐ雲に隠れてしまいました。条件が良いと城山から利島が見えることもあるので、船上からはどこまでの眺望があったのでしょう…

真鶴港の周りは良い意味で神奈川県とは思えないのんびりした雰囲気です。

真鶴 遊覧船のりば
真鶴 遊覧船のりば

普段は城などの建物ばかり撮っている私ですが、遊覧船を追いかけてくるカモメを良い感じに撮ることが出来ました。

カモメその一
カモメその一
カモメその二
カモメその二

写真中央の大きな山は明神ヶ岳です。小田原から見える箱根の山々の中でもそのボリューム感からひときわ目立ちます。歌川広重の小田原宿の浮世絵でもこの山が描かれています。(もしかしたら左どなりの明星ヶ岳かもしれません…)

海から見た小田原その一
海から見た小田原その一

小田原もここ十数年で10階建て程度の中層マンションがずいぶんと増えました。こうやって見ると海側に多くのマンションが建っていることがわかります。目を凝らすと小田原駅の駅ビルも見えます。

海から見た小田原中心街その一
海から見た小田原中心街その一
海から見た小田原中心街その二
海から見た小田原中心街その二

なかなか見ることが出来ない海からの小田原城です。市街地からは周囲の建物に埋もれがちですが、海から見ると遮るものがないため存在感があります。江戸時代の旅人もこのような風景を見ていたのでしょう。

海から見た小田原城天守その二
海から見た小田原城天守その二
海から見た小田原城天守その一
海から見た小田原城天守その一

早川から酒匂川にかけてのパノラマ写真を作ってみました。サイズが8400×1200と大きいため右クリック→新しいタブで開いてください。
海から見た小田原(早川から酒匂川まで)