小田原城御用米曲輪では2011年から断続的に発掘調査と整備事業が続いています。11月23日(土)に約1年ぶりの発掘調査現地説明会が行われました。
これまでの説明会については以下を御覧ください。
第1回(2012年2月4日)
第2回(2012年8月18日)
第3回(2013年2月16日)
第4回(2013年10月19日)
第5回(2013年11月23日)
第6回(2013年12月21日)
第7回(2014年3月8日)
第8回(2014年11月8日)
第9回(2015年3月7日)
第10回(2023年11月25日)
これまでの調査で御用米曲輪には戦国時代・江戸時代を通して重要な遺構が展開していることがわかっており、戦国時代、江戸時代の両方の様子がわかるように史跡整備を進める方針となっています。しかし、まだ戦国時代の様子については不明瞭な点が多いです。
当時の空間がどのようなものであったかを考えるうえで重要な鍵の一つが石組水路です。石組水路は水を流すだけでなく、その位置が敷地の境、庭や建物など土地の用途ごとの区画が反映されていると考えられています。そこで未調査の石組水路の展開を明らかにすることを目的として第8次調査、第9次調査を行っています。
・第9次調査範囲
第9次調査範囲には平成26年の第6次調査範囲、昭和57年の第1次調査範囲の一部が含まれます。今回の説明会では昨年の第8次調査範囲の一部も公開されました。
・公開範囲の様子
今回の公開範囲には過去の調査範囲も含まれておりわかりやすいように青ロープ、赤ロープで区切られています。
・地割れ
御用米曲輪の調査では、地震による地割れが度々見つかっています。その原因は寛永10年(1633)の大地震と考えられます。地割れの見つかる面の直上には地震後の盛土と考えられる土層が厚く堆積しており、時代判別のための重要な鍵となっています。
・井戸
この井戸の上部分は残っていませんが、江戸時代のもので、寛永大地震の盛土の堆積よりも古い時期に造られたものであることがわかっています。
・礎石建物
第6次調査で見つかった礎石建物について、礎石の下に展開している遺構を確認するため、礎石部分を掘り残して掘り下げを行いました。
第9次調査ではこの礎石建物に接続する形で、礎石および礎石を抜き取った跡が多数確認され、その周囲には溝が配置されていました。説明によるとここでは瓦片が見つかっていないことから、瓦葺きではない重量建造物があったかもしれないとのことです。建物の輪郭が白ロープで示されていましたが、あくまで仮のもので、今後建築専門家に確認してどのような建物であったかを詳しく検討する必要があるそうです。
・切石敷遺構
昭和57年の第1次調査で見つかった切石敷遺構が再発掘され公開されていました。御用米曲輪で確認された初の戦国時代の遺構です。第4次調査~第6次調査では全国でも例のない見事な切石敷遺構が見つかりましたが、その片鱗が実は40年以上前に見つかっていたわけです。
・かわらけ廃棄土坑
ここでは寛永大地震の盛土の上から彫り込まれた土坑と重複していますが、完成形に近い戦国時代の土器が大量に集中して見つかりました。そのため戦国時代の土坑が江戸時代以降に一部壊された状態であることがわかりました。見つかったかわらけは、御用米曲輪で出土したかわらけでも古い段階のものす。
・石材への環境影響調査
引き続き石材への環境影響調査が行われていました。右側の16個の石は約1年前の発掘調査説明会のときにあったものですが、その中でも左下の茶色い石は1年でかなり風化していました。夏の酷暑と大量の雨で痛みが早いのでしょうか。
掘るたびに江戸時代、戦国時代の遺構が折り重なって見つかる御用米曲輪ですが、実際に現地を見るとその様子が実感できます。私が子供のころは御用米曲輪には駐車場があり、色々なイベントが行われていましたが、その足元数メートルにこれだけのものが眠っていたことに改めて驚かされます。
担当の方は「整備に時間がかかり大変申し訳ない」とおっしゃっていましたが、掘るたびになにかしら見つかるのでは仕方のないことです。それに近年の発掘調査でこれまではよくわからなかった北条氏の小田原城主郭部の様子が見えてきたことは戦国ファンの一人として大変嬉しいことです。今後も御用米曲輪の調査、整備状況に注目していきます。