「小田原城」カテゴリーアーカイブ

小田原城の桜【2018】3月31日編

3月25日(日)から約一週間、まだ満開ではなかった小田原城の桜がどうなったのか、3月31日(土)も朝6時半に家を出発し、撮影に行ってきました。
私は仕事で藤沢まで通勤しているのですが、藤沢の桜はすでに散り始めていたので、小田原の桜が持っているか心配でしたが、杞憂だったようです。
一週間で見事に花が開き、満開、まさに花盛りでした。
今年は満開、休日、晴天が重なり、ここ数年で一番綺麗な桜を見ることが出来ました。お城の近くで「今年の桜は凄いねぇ」とご近所さんの井戸端会議を耳にしましたが、まさにそのとおり桜でした。これだけ見事な桜は一生に何回も見られるものではないと思うほどでした。

小田原城の桜(3月31日)#1
小田原城の桜(3月31日)#1
小田原城の桜(3月31日)#2
小田原城の桜(3月31日)#2
小田原城の桜(3月31日)#3
小田原城の桜(3月31日)#3

何年も小田原城で桜を撮影してきて、今頃になって気がついたのですが、隅櫓近くのこの当たりはソメイヨシノの他に濃いピンク色で小さい桜があるようです。花には詳しくないので種類はわかりませんが、ピンクのグラデーションが美しいです。

小田原城の桜(3月31日)#4
小田原城の桜(3月31日)#4

馬出門を入った馬屋曲輪にも桜があります。以前はここに桜はなかったような記憶があります。ここからは銅門、常盤木門、天守が一列に並ぶ姿を見ることが出来、そこに桜がくわわり絶景となってます。私のお気に入り桜ポイントになりました。

小田原城の桜(3月31日)#5
小田原城の桜(3月31日)#5
小田原城の桜(3月31日)#6
小田原城の桜(3月31日)#6

そして本丸の常盤木門を入ったところに小田原城の桜の標本木があることを今年になって知りました。今年はその木に「標本木」と張り紙がしてあったためです。3月25日(日)の時点では、この標本木とお堀端の桜ではだいぶ開花具合に差があり、標本木はかなり先行して花が開いていました。3月31日(土)にはどちらも満開でした。

小田原城の桜(3月31日)#7
小田原城の桜(3月31日)#7
小田原城の桜(3月31日)#8
小田原城の桜(3月31日)#8
小田原城の桜(3月31日)#9
小田原城の桜(3月31日)#9
小田原城の桜(3月31日)#10
小田原城の桜(3月31日)#10

天守の裏手、現在は遊園地になっている屏風岩と呼ばれる当たりの桜も見事です。ここからはピンク色の絨毯に浮かぶ天守を見ることが出来ます。
ちょっと寂れた遊園地と桜の組み合わせもなかなか良い雰囲気です。今年は遊園地のメリーカップが撤去され、残る乗り物は豆汽車とゴーカート、その他の電動遊具のみとなりましたが、昔はここに観覧車や飛行塔があったことを覚えています。

小田原城の桜(3月31日)#11
小田原城の桜(3月31日)#11
小田原城の桜(3月31日)#12
小田原城の桜(3月31日)#12
小田原城の桜(3月31日)#13
小田原城の桜(3月31日)#13

最後に小田原城の様々な場所で撮影した桜です。それぞれの撮影場所がわかったらかなりの小田原城マニアだと思います。

小田原城の桜(3月31日)#14
小田原城の桜(3月31日)#14
小田原城の桜(3月31日)#15
小田原城の桜(3月31日)#15
小田原城の桜(3月31日)#16
小田原城の桜(3月31日)#16

 

小田原城の桜【2018】3月25日編

今年も桜の季節がやってきました。
3月に入ってからも暑かったり、寒かったりとなかなか安定しない気候でしたが、ようやく安定して暖かくなってきました。
というわけで、毎年恒例の小田原城早朝桜見物に行ってきました。
開花宣言直後だったので、全体的には三分咲きといったところで満開まではまだまだでしたが、同じ小田原城址公園内でも場所によっては六分咲きくらいのところもあり、桜の環境に対する敏感さにあらためて驚かされました。

小田原城の桜(3月25日)#1
小田原城の桜(3月25日)#1
小田原城の桜(3月25日)#2
小田原城の桜(3月25日)#2
小田原城の桜(3月25日)#3
小田原城の桜(3月25日)#3

#3の写真のあたりは確か去年は桜の木がなかった場所だったので、最近植えられた桜だと思います。銅門、常盤木門、天守が一列に望める場所でお気に入りの場所です。

小田原城の桜(3月25日)#4
小田原城の桜(3月25日)#4

#4の写真の桜は本丸にある小田原城の桜標本木です。今年は木の幹に堂々と「標本木」の張り紙がしてありました。この木を基準にして開花宣言がされるようで、この木だけは六分咲から七分咲きといったところで、開花がかなり進んでいました。

小田原城の桜(3月25日)#5
小田原城の桜(3月25日)#5
小田原城の桜(3月25日)#6
小田原城の桜(3月25日)#6

3月25日の時点では、まだ満開ではありませんでしたが数日中に満開になりそうな様子でした。次に早朝桜見物ができるのは3月31日(土)なので、そのころにちょうど満開になっていることを期待しています。しかし、ここ数日はかなり気温が高いので満開は過ぎて散り始めているかもしれません…
まあ全部散っていることはないと思うので、31日にまた早朝桜見物に行って、写真を沢山撮ってきます。

小田原城 堀の水抜き

テレビ東京で放送されている「池の水ぜんぶ抜く」のターゲットに小田原城のお堀が選ばれたそうです。水抜きをしての清掃と特定外来生物の駆除が主な目的で、おまけとして池の底から新発見があるかも…といった番組です。
私はこの番組を見たことはないのですが、なかなか面白いようで噂は聞いていましたが、まさか小田原城がターゲットになるとは思いませんでした。ちなみに小田原城の堀の水が抜かれるのは38年ぶりとのことです。
早速、水が抜かれた小田原城のお堀の様子を撮影してきました。

3月17日(土)にはすでに水抜きが始まっており、水位が50センチほど下がっていました。水面下の石垣は日焼けや汚れがなく綺麗な状態でした。このような様子は昔と比べて堀の水位が大幅に下がった大坂城でも見ることが出来ます。小田原城の堀の水はお世辞にも綺麗とは言えず、鯉やらアヒルやらが住んでいます。深さもそれほどではないですが、水抜きをしてはじめてその深さを実感することができました。

二の丸東側の堀(3月17日)
二の丸東側の堀(3月17日)
馬出門と隅櫓周辺(3月17日)
馬出門と隅櫓周辺(3月17日)

水位が下がったため石垣が少し高くなったように見え、ちょっと嬉しいです。
ちなみに、関東大震災前の小田原城の石垣は全体的に今よりかなり高かったのですが、震災後の復興時に低く積み直してしまいました。

学橋(3月17日)
学橋(3月17日)
馬屋曲輪東側の堀(3月17日)
馬屋曲輪東側の堀(3月17日)
馬屋曲輪南側の堀(3月17日)
馬屋曲輪南側の堀(3月17日)

今回の水抜きで堀底から何が出てくるのか楽しみでしたが、銅門が復元される前にかけられていた端の橋脚跡が現れました。この橋は現在の馬出門正面から銅門の場所に掛けられていたもので、工事用の仮設の橋だったと記憶しています。

銅門付近の橋脚跡(3月17日)
銅門付近の橋脚跡(3月17日)

翌3月18日にも水位がどのくらい変わっているかを確認しましたが、ほとんど水位は変わっていないようでした。
この日は隅櫓脇から馬出門の場所にかけられていた橋の橋脚跡を見ることが出来ました。この橋は確か「隅櫓橋」で、学び橋と同じ造りの赤い橋で、学橋と同様に近代になってかけられた橋でしたが、馬出門復元にあたり取り壊されたものです。

二の丸東側の堀(3月18日)
二の丸東側の堀(3月18日)
隅櫓脇の橋脚跡(3月18日)
隅櫓脇の橋脚跡(3月18日)

そして番組収録当日の3月21日(水)、本降りの雨に加え、3月とは思えない寒さの中、お堀の様子を見に行くと…
大混雑でした。

お堀端通り(3月21日)
お堀端通り(3月21日)

もともと番組の収録にはあまり興味がなく、混雑と寒さも想像以上だったため、水位の確認をして帰宅することにしました。

隅櫓周辺(3月21日)
隅櫓周辺(3月21日)

水位は3月17日に比べて若干下がったといったところでしょうか。堀の水を抜くということで、完全に干上がらせるのかと思っていたのですが、そうではないようです。

38年ぶりのお堀の水抜きということで、小田原城の珍しい姿を見ることができました。かつての小田原城のなごりである二つの橋脚跡を見ることができたのがなによりでした。
番組の放送は4月22日(日)ということなので、今から楽しみです。

早川口二重外張発掘調査見学会

早川口二重外張は早川に面した(とは言っても早川までは結構な距離があります)小田原城惣構の虎口で、熱海方面に向かう街道(熱海道)に対応した城門でした。その名前の示すとおり、土塁と堀を二重に配した構造で、低地部で確認できる数少ない小田原城惣構の遺構です。
これまで小田原城惣構の低地部の遺構は、本格的な発掘調査が行われていませんでした。今回の早川口二重外張の発掘調査がその最初の例になるそうです。
現地発掘調査説明会が2017年12月2日(土)に開催されたので、その様子をお知らせします。

早川口二重外張全景

早川口二重外張全景その一
早川口二重外張全景その一
早川口二重外張全景その二
早川口二重外張全景その二

早川口二重外張はその名の示すとおり、土塁が二重になっています。この当たりは明治時代遺構に屋敷の庭園としてかなりの改変を受けていますが、外側の土塁と内側の土塁に挟まれた谷のような地形を確認することが出来ます。東側(内側)は標高10メートル程度、南側は標高8メートル以下で、早川に近づくにつれて標高が低くなっていきます。また土塁に沿って西から南へ小田原用水の分流が今でも流れています。

5トレンチ・7トレンチ

5トレンチ
5トレンチ
7トレンチ
7トレンチ

5トレンチでは現況地形が明治以降に大きく改変されているとがわかりました。特に興味深かったのは5トレンチで、ここでは近代に掘られた穴に大量の海砂が詰まっていました。これは1902年9月28日に発生した小田原大海嘯で陸に上がった海砂を捨てた跡ではないかとのことでした。こんなところに近代小田原の歴史の一旦が埋もれているとは驚きです。
7トレンチを始めとした内側土塁の側からは、江戸時代に水田として利用されていたと考えられる土の堆積が確認できました。水分を多く含んだ状態が続くと、土の中の酸素が減り、土が青緑色になるようです。街中で発掘調査をして、このような青緑色の地層が出た場合は大体が水田だとか。またひとつ勉強になりました。

6トレンチ

6トレンチその一
6トレンチその一
5・6トレンチ全景
5・6トレンチ全景
6トレンチその二
6トレンチその二

今回の見学会で最も見ごたえがあったのが、外側の土塁を試掘した6トレンチになります。このあたりは今でも土塁らしさをとどめており、その土塁の断面を確認することが出来ました。
驚いたことにここでは「土塁」と言いながら、その芯から大量の石材が使用されている状況が確認できました。石材と土で土塁の中心を造り、それを土で覆って土塁としているイメージです。小田原市史には海岸線(浜町)の惣構土塁において「石がまとまって出土したといわれている」という記述があり、今回確認できた遺構の状況と合致しており、低地部惣構土塁の構造上の特徴である可能性が高まりました。
低地部の土塁としては、惣構東側の蓮上院周辺にも残されていますが、もしかしたら蓮上院の土塁も掘り返してみると石が大量に出てくるかもしれません。あるいは、早川口は早川が近く川石の入手が容易なため、とりあえず資材として使ったという可能性もありますが。
しかし、土塁は芯まで土で埋まっているものというのが私の常識であったため、土の中から石が出てきたことには驚きました。

8トレンチ

8トレンチ
8トレンチ

8トレンチでは外側土塁の法面、二重の土塁の間隔が狭くなっている部分から砂利敷きが確認されました。砂利敷きについては、虎口内の通路ではないかと考えられますが、今後のさらなる調査が必要なようです。

小田原城の桜 2016

いろいろあって投稿が遅くなりましたが、4/9(土)に春恒例の早朝小田原城桜見物に行ってきました。
一週間前にはすでに五分咲きになっており、加えて雨の日が幾日かあったためもう散ってしまっているのではないかと心配していましたが、調度よい感じに咲いていました。
さらに今年は小田原城天守最初で最後(のはず)の大改修工事が完了し、年季の入っていた天守が真っ白になり、桜色と白亜の天守の組み合わせが本当に綺麗でした。天守の周りの木も何本か伐採されておりこれまでと違った印象を受けました。
ちなみに天守の新装オープンは5/1(日)です。初日は流石に混みそうなので大型連休中のどこかでふらっと入ってみようと思っています。

お堀端通りの桜その一
お堀端通りの桜その一
お堀端通りの桜その二
お堀端通りの桜その二
隅櫓と桜その一
隅櫓と桜その一
お堀端通りの桜その三
お堀端通りの桜その三
隅櫓と桜その二
隅櫓と桜その二
天守と桜その一
天守と桜その一
天守と桜その二
天守と桜その二
天守と桜その三
天守と桜その三
天守と桜その四
天守と桜その四
天守と桜その五
天守と桜その五
天守と桜その六
天守と桜その六
天守と桜その七
天守と桜その七
遊園地と桜
遊園地と桜

小田原城天守耐震改修工事見学会

2015年7月から2016年4月まで、小田原城天守は建築後初めての大規模改修工事を行っています。主な目的は築55年がたち老朽化が進む鉄筋コンクリート製天守の耐震補強です。
当所は予算3億円ほどで柱の補強など小規模な改修となる予定でしたが、専門家の検査によりそれでは耐震性に問題ありとなったため、耐震壁を設けるなど大規模な改修工事となりました。耐震壁を設けることで内部の構造が大きく変わるため、展示等も大幅リニューアルすることになりました。私としても昭和の香りたっぷりだった展示がリニューアルするのは嬉しい限りです。
最終的な予算は9億7000万円となりましたが、うち3億円はこれまで入場料で貯めたお金、残りは借り入れ金でまかない、税金は使用しないとのこと。小田原城天守が独立採算でやっていることを初めて知りました。

さて、2016年3月6日(日)、小田原市民を対象に佳境に入った小田原城天守耐震改修工事見学会に行ってきました。定員50名のところ130名の応募があったとのことで、なかなか盛況な様子。工事中の貴重な様子を見ることが出来ました。

  • 外観
    外壁はヒビ等が数多く合ったため、全面的に塗り直しをしました。漆喰をベースとしてはいますが現代塗料も使用しているとのこと。また大棟の上に2本突き出ていた避雷針は見栄えを良くするために撤去、かわりに鯱に小さな避雷針を設置したそうです。

    外観その一
    外観その一
    取り外された避雷針
    取り外された避雷針
    外観その二
    外観その二

    塗り替え前後の壁
    塗り替え前後の壁
  • 内部
    内部は多くの場所に耐震壁を設置したため、今までよりだいぶ狭く感じます。天井に空調を設置したため天井も低くなっています。1階には窓がなく通路の両脇に設置されたパネルを見ながら進むような感じでしょうか。1階は江戸時代がテーマになります。これまで5階にあった売店は1階に移動します。

    1階
    1階

    2階は窓が開かれていますが、やはり耐震壁を設けたためこれまでより狭く感じます。2階は北条氏時代がテーマになります。1階と2階にはそれぞれミュージアムシアターが設けられ、いかにも今風な博物館といった感じです。しかしあの小田原城が随分とおしゃれになったものです。

    2階その一
    2階その一
    2階その二
    2階その二
    2階その三
    2階その三

    3階、4階は展示スペース的にはこれまでとほぼ変わらず、工芸品などを展示します。

    3階吹き抜け
    3階吹き抜け
    4階から3階を見る
    4階から3階を見る

    5階は今回リニューアルの目玉である摩利支天空間の木造再現がメインとなります。小田原城天守復興の際、参考とされなかった東博模型で確認された摩利支天と天守七尊を祀る空間(詳しくはこちら)を「オール小田原」をコンセプトに木造再現しています。木材は辻村山林(小田原の人ならわかるかな…)の樹齢300年、200年といった木材を使用しています。あの山にこんな立派な木があるとは知りませんでした。そして宮大工の芹澤棟梁は銅門の復元を手がけた方です。「摩利支天様がこらからも末永く小田原を守ってくれることを願い造らせて頂いた」との棟梁の言葉が印象的でした。

    階段から5階を見る
    階段から5階を見る
    5階摩利支天空間
    5階摩利支天空間

    摩利支天について
    摩利支天について
  • 最後に
    築55年がたちだいぶくたびれた感じの小田原城天守でしたが、今回のリニューアルにより大きく生まれ変わりそうです。
    昭和30年代に造られたコンクリート製天守の多くは、市民の寄付が大きな財源となり建築されているものも多く、小田原城もそのひとつです。当時の人々の城と郷土に対する愛着の現れがこのコンクリート製天守といえるのではないでしょうか。こういった人々の思いも含め、コンクリート製天守もそう悪いものではないと私は思います。
    今回のリニューアルで小田原城に来た人々の満足度がアップし、小田原城の経営も上向くことを期待しています。リニュアールオープンは5月1日の予定です。

小田原城天守耐震改修工事

2015年7月から小田原城天守は昭和35年(1960)の建築後初めてとなる大規模改修工事を行っています。建築後55年がたち老朽化が進む鉄筋コンクリート製の天守の耐震補強が目的です。
小田原市では当所、柱をカーボンファイバーで補強するといった小規模な耐震補強を考えていたようですが、専門家の検査によりそれでは耐震性に問題ありとのことで耐震壁を新たに設置するなどの大規模な耐震補強工事をすることになりました。

ここでは昨年の7月以来、気が向いた時に撮影した小田原城天守の様子をご紹介します。スマホでの撮影のため雑ですがご勘弁を。
足場で囲まれた小田原城は建築以来55年ぶり、この先も当分見ることはできない貴重な光景です。

  • 2015年8月22日
    夏の暑い盛りに足場設置が本格始動です。
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  • 2015年9月5日
    二週間で一重くらいのペースで足場の建築は進むようです。
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  • 2015年9月23日
    足場の設置はかなりのペースで進みます。
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  • 2015年10月18日
    工事開始から三ヶ月ほどで足場で完全に覆われました。このころ最上部にあった2本の避雷針が取り外されました。
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  • 2016年2月20日
    足場の解体が始まりました。壁も塗り替えられたようで綺麗になっています。
    IMG_20160220_092820 IMG_20160220_092744

小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会(2015年3月7日)

小田原城の御用米曲輪では今年の3月まで史跡整備のための発掘調査が行われています。最後の現地説明会が3月7日(土)に行われました。

今回は昨年度確認され、歴史ファンの間で大きな話題となった切石敷庭園から続く石組みの溝や、江戸時代の地震による地割跡などが確認されました。

これまでの説明会については以下をご覧ください。

第1回(2012年2月4日)
第2回(2012年8月18日)
第3回(2013年2月16日)
第4回(2013年10月19日)
第5回(2013年11月23日)
第6回(2013年12月21日)
第7回(2014年3月8日)
第8回(2014年11月8日)

  •  切石敷き庭園に続く石組み水路
    現在は遺構保護のため埋め戻された切石敷き庭園には、石組みの溝のようなものが続いていることが確認されていました。今回は江戸時代の蔵の遺構を壊さないように、その石組みの溝の続きを探る調査が行われました。その結果、石組みの溝は曲がりながら北西へと続き、礎石建物の周りをおよそ20メートルの長さで続いていました。
    江戸時代以降に壊されている部分がありましたが、これにより切石敷き庭園とセットになっていたであろう礎石建物の存在が明確になりました。
    これら切石敷き庭園・石組み溝は北条氏時代の終わり頃には埋め立てられ、その跡に礎石建物が建てられていたことがわかりました。このことから小田原合戦の時にはすでに切石敷き庭園は土の下で、秀吉や家康、後の小田原藩主らも目にすることはなく、420年以上の時を経て現代の私達の目の前に現れたわけです。
    切石敷きの庭園から続く石組み構
    切石敷きの庭園から続く石組み構
    石組み水路と数々の礎石
    石組み水路と数々の礎石
  • トレンチ再調査の成果
    今回は昭和57年度に調査されたトレンチの再調査も行われました。以前の調査は江戸時代の深さまでしか行っていませんでしたが、今回は戦国時代の深さまで調査が行われました。
    その結果、戦国時代の建物礎石跡、石組み水路、金製の飾り金具などが見つかりました。特に石組み水路は御用米曲輪で確認された他の石組み水路よりもしっかりとした造りで一見すると近世のもののように見えます。これらの発見から御用米曲輪北側にも戦国時代の遺跡が濃密に分布していることが確認できました。
    戦国時代の少し上の地層からは地震による地割れの跡が確認されました。これは寛永地震の痕跡と考えられ、小田原城と地震の関係を考える上で重要な発見となりました。
    立派な石組み水路
    立派な石組み水路
    礎石
    礎石
    地震による地割れ跡
    地震による地割れ跡
  • 結び
    足掛け3年におよぶ御用米曲輪の発掘調査も3月末で一区切りとなり、調査の場は発掘現場から室内へと移ります。現地説明会もこれが最後です。
    今回の調査での最大の成果はなによりも小田原城中心部で初めて見つかった大規模な戦国時代の遺構になるでしょう。しかもそれは全国にも類例のない切石敷き庭園で、後北条氏独特の切石文化ともいうべきものも見えてきました。
    非常に貴重なこれらの遺構ですが、保護のため埋め戻されることになります。数百年ぶりに姿を現したこれらの遺構が再び人々の目に触れるのはいつになるのでしょうか。数百年に一度の貴重な景色を見ることができ非常に感慨深いものがあります。
    今後、御用米曲輪は戦国時代エリアと江戸時代エリアに分けて整備が行われ、切石敷き庭園も同じ場所に復元展示されるそうです。はやく戦国時代の御用米曲輪の再現イメージを見てみたいものです。

小田原城天守模型等調査報告会

12/20(土)に小田原市民会館にて”小田原城天守模型等調査報告会”が行われました。小田原城関連の報告会ということで行ってきました。会場は定員150名ほどで、本降りの雨の中にもかかわらず、7割ほどが埋まっていました。

  • 調査目的

来年から小田原城天守は大掛かりな耐震補強工事を行います。この工事に際し昭和35年(1960)に建設された現在の鉄筋コンクリート天守の設計方法、設計根拠等を調査する。

  • 現存の天守の設計根拠

現在の天守の外観設計(復元)根拠は主に模型と図面である。模型については3種類が確認されている。

大久保模型…大久保神社所蔵。現在は小田原城天守に展示。壁を省略しており内部の骨組みの様子がよくわかる。

大久保模型
大久保模型

東大模型…旧東京大学所蔵。現在は小田原城天守に展示。壁が表現されている。

東大模型
東大模型

東博模型…東京国立博物館所蔵。現在は神奈川県立歴史博物館に展示。大久保模型と同様に壁が省略されている。

東博模型
東博模型

小田原城三重天守引図…小田原藩作事方川部家に伝わっていたもの。原図は太平洋戦争で焼失。写しが小田原城天守に展示。

現在の天守の復元を行ったのは藤岡通夫氏で、氏は小田原城の他、和歌山城や小倉城などのコンクリート天守の設計を行っている。

小田原城天守の復元にあたって藤岡氏が参考にした模型は大久保模型と東大模型。東博模型については大久保模型と”まったく同一”として参考としていない。総合的な意匠構造は東大模型、平面規模は大久保模型、高さはその中間的なものとして。宝永3年(1706)再建天守の外観を目指して設計された。天守の高欄については往時はなかったものだが、小田原市の強い要望により設けられた。小田原城が外観復元天守と呼ばれず、復興天守と呼ばれるのはこのため。

  • 東博模型と摩利支天

文献資料によると小田原城天守には七尊を祀る空間があったとされる。摩利支天・大日如来・阿弥陀如来・如意輪観世音・弁財天女・子安地蔵・薬師如来で、天守のどこかに祀らていた記録が残る。明治時代の天守解体後、これら七尊は永久寺に移されたが、摩利支天のみコンクリート天守の復興時に天守最上階に戻された。
今回初めて詳細な調査が行われた東博模型には、最上階に特別な施設がある。これこそが上記の摩利支天像を祀る空間と判明した。大久保模型最上階にもその施設らしきもの(一部を上段とし、上段に相対して二本の柱を立てる)が不完全ではあるが存在している。この空間について藤岡氏は「その意図が不明」としている。
東博模型では須弥壇上部の火灯窓など、より詳細に再現がされている。これまで東博模型は神奈川県立歴史博物館に展示されていたが、展示台上に展示されており上層階内部を目にすることはできなかった。調査担当者によると椅子を借りて上層階を確認したところ明らかに他と異なる特別な空間が一目でわかったとのこと。

東博模型4階内観
東博模型4階内観
摩利支天像と厨子
摩利支天像と厨子
永久寺所蔵六尊
永久寺所蔵六尊

来年からの小田原城天守耐震補強工事では、同時に内部の展示もリニューアルするとのこと。今回の調査で判明した摩利支天を祀る特別な空間も復元する予定。

天守最上階内部復元パース
天守最上階内部復元パース
  • 天守模型の類例

全国には江戸時代以前に造られた天守模型が8棟残されている。小田原城天守3棟の他は宇和島城天守、松江城天守、延岡城三重櫓、延岡城二重櫓、大洲城天守である。多くは天守が損傷した際の修築方法検討のために造らえれたと考えられている。
中には縦横比が異なっていたり、柱が異常に太かったりするものもあるが重要な部分を強調しているとも考えられ、模型の造られた目的を考える必要がある。
特に宇和島城の天守模型は保存状態が良好で、完成度が非常に高い。天守も現存しているため天守実物と模型を比較することで、模型独特の表現方法を知ることができる。

宇和島城天守模型
宇和島城天守模型
松江城天守模型
松江城天守模型
大洲城天守模型
大洲城天守模型

  • 感想

天守模型についての調査ということで非常に面白いテーマでした。
コンクリート製であるにせよ木造であるにせよ天守を復元する大きなカギとなるのが模型です。小田原城はそれが3棟もあり、いずれも出来が良いとのことです。その気になれば木造復元も可能なようです。今は行方不明となっていますが小田原城五重天守模型もあったとか。
3棟のうち大久保模型と東大模型は神奈川県重要文化財に指定されていますが、摩利支天を祀る空間の謎の解明につながった東博模型は文化財指定を受けていないとの事。質疑応答でも東博模型を文化財指定して小田原に展示することはできないか、といった質問がありました。この辺りは文化財を適切に管理、展示できる環境の整備が必要なためすぐという訳にはいかないでしょう。小田原市ではようやく出土した文化財を展示するための天守以外の施設である「歴史博物館」整備計画が始まったそうで、こういった環境が整えば、重要な文化財も良好な環境で展示することができると思います。
ひとまずは来年度からの天守耐震補強工事&リニューアル工事で小田原城が昔ながらの展示から、今風の魅力ある展示へ変わってくれることを期待します。
なお冬休みに東博模型を見に行ってみようかと考え中。

小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会(2014年11月8日)

現在、小田原城の御用米曲輪では史跡整備のための発掘調査が行われています。約8ヶ月ぶりの現地説明会が11月8日(土)に行われました。

今回は前回までの発掘説明会での目玉であった切石護岸の池(2号池)の大半が埋め戻されていましたが、それによりこれまで発掘の出来なかった部分が発掘可能となり、池の北側護岸が確認されています。切石敷庭園でも新たな発見がありました。

これまでの説明会については以下をご覧ください。

第1回(2012年2月4日)
第2回(2012年8月18日)
第3回(2013年2月16日)
第4回(2013年10月19日)
第5回(2013年11月23日)
第6回(2013年12月21日)
第7回(2014年3月8日)

  • 切石護岸の池周辺
    これまで切石護岸の池と呼ばれていた池は、周囲を切石で護岸した下段の池(2号池)、下段の池と水路で接続し、水を流していた池を上段の池(1号池)と呼ぶようになりました。
    2号池は遺跡保護のため大半が埋め戻されていますが、新たに北側に10メートルほど護岸を確認することが出来ました。これによりおおよそ池の3/4の範囲が確認出たと考えられています。
    1号池はこれまでの調査で確認されていましたが、今回その下層に切石敷きの池が存在していたことがわかりました。池は楕円形の小さなもので根府川石や箱根安山岩を立てて護岸としています。この1号池には西側の石組み遺構から水を引いており、1号池から水路を経て西側の2号池に滝のように水を流していたと思われます。これらは戦国時代のものとは思えないとても凝った造りです。
    2号池北側護岸
    2号池北側護岸
    2号池と1号池
    2号池と1号池
    1号池と石組み遺構
    1号池と石組み遺構

     

  • 切石敷庭園
    御用米曲輪南側のほぼ中央で確認された切石敷きの庭園は、全国的にも類例のない極めて珍しい形状で、歴史ファンの間で大きな話題になりました。切石敷きは鎌倉石と風祭石、安山岩によって造られその規模は最大で東西6メートル、南北9メートルを測るものと考えられています。
    切石敷庭園の中央で出土した板状巨石は本来は立っていたことがわかりました。この巨石には仏像と梵字が刻まれていたようですが、これらは丁寧にノミで削り取られています。誰が何のために削ったのかは謎で、北条氏独特の思想があったのかもしれません。
    切石敷庭園
    切石敷庭園
    仏像の削られた巨石
    仏像の削られた巨石
    巨石に刻まれた梵字の様子
    巨石に刻まれた梵字の様子

     

  • 建物群
    これまでの調査で御用米曲輪の南西部では濃密に建物群が広がっている様子が確認されています。これまでに礎石建物跡が8棟、掘立柱建物跡が7棟を数え、戦国時代の終わりごろの建物跡と考えられています。
    建物群の中心であると思われる最も大きな建物には小さな礎石建物が付随しています。今回の調査で、切石・板石敷きの排水施設が確認され、傍らに切石敷井戸があることからこの建物は湯屋(蒸し風呂)の可能性が高いそうです。蔵と思われる建物も見つかりました。氏政に家督を譲った氏康は「御本城様」と呼ばれ、「大蔵」の管理を行っていたとの記録があります。大蔵とは税収の管理であり、氏康の隠居館には「大蔵」が伴っていたと考えられています。もし御用米曲輪が大蔵を伴う「御本城」であったとすると、全体的には庭園などを伴う居館的な様相を持ちながら、蔵も備えるという発掘結果と合致します。
    南側から見た発掘現場全景
    南から見た発掘現場全景

    いつかの記事で私見として書きましたが、北条氏時代、現在の本丸に当主、本丸の真下に位置する御用米曲輪に前当主が居住し、八幡山は詰城的な位置づけで普段の生活には使用していなかったのでは、といったことを再び想像する今日このごろです。