昨年末に開催されたお城EXPO2018ですが、お城会の重鎮の方々を講師とした厳選プログラムが今年もありました。今年はいろいろと都合があり全てを聴講することはできませんでしたが、自分の備忘録もかねていくつかその内容をご紹介します。
12月23日(日)16:00~17:30
「信長の城 ~岐阜から安土へ~」
登壇者:
小和田哲男先生
中井均先生
加藤理文先生
内堀信雄先生
・信長の居城変遷
勝幡城(?)→那古屋城→清州城→小牧山城→岐阜城→安土城。岐阜城は信長により大規模な改築が行われている。小牧山城、安土城はまっさらな場所への新規築城。
・小牧山城の特徴
山頂部に信長のプライベートエリアがあった。
最近の調査で本丸の周りに巨石による石垣が見つかった。ただし高さは低い。
・岐阜城の特徴
山頂部に信長のプライベートエリアがあった。
宣教師ルイス・フロイスによると山頂部は「何人も信長による許可がなければ入れない」とのこと。
山下部には大規模な庭園があり、迎賓館的な御殿があったようで、これはパブリックエリアとなる。
→山頂のプライベートエリア、山下のパブリックエリアからなる二元構造
・安土城の特徴
山頂部に信長のプライベートエリアがあった。
伝黒鉄門より内側が狭義の安土城。
山下にパブリックエリアがあった…はず。伝羽柴秀吉屋敷や伝前田利家屋敷あたりが信長の公邸だったのではないか。伝秀吉屋敷は上下二段構造となっており、当時の秀吉の織田家中での位置づけに対して立派すぎる。そもそも当時ナンバー2の明智光秀や柴田勝家の屋敷地が存在していないのがおかしい。
また、安土城から庭園は見つかっていないが、文献にも庭園のことが記されており、岐阜城であったものがなくなったとは考えられない。百々橋口からの途上ルートのどこかにあったのではないか。だが、現在安土城は入れないところが多く思うように調査ができない。
→山頂のプライベートエリア、山下のパブリックエリアからなる二元構造
・これら3つの城の共通点と相違点
共通点としては山上のプライベートエリア、山下のパブリックエリアの存在が挙げられる。
では相違点は?
石垣技術とその上の建物の発展。
→小牧山ではかなりの巨石を低く積む。並べたという方が適切か。当時の信長の経済力、技術力の限界。尾張一国レベル。
→岐阜城では巨石と混在して、山上部に石垣が積まれるようになる。山下には大規模な庭園。
岐阜在城時に足利義昭を報じて上洛。近江周辺の技術者を取り込む。京都の文化の取り込み。しかし山上の天守台に近くには巨石が残されており、信長独自の「巨石信仰」らしきものを踏襲している。
→安土城では石垣はさらに大規模なものになり、総石垣となる。また、岐阜城と比較すると建物の発展が著しい。巨大な建物を天端いっぱいに乗せるため石垣技術も発展せざるを得ない。しかし、あまりにもその差が大きい。
安土城以前に秀吉の長浜城、光秀の坂本城に天守があった記録がある。この二名が勝手に天守を建てることはありえず、信長による命令のはず。信長は技術者集団を二人に貸し出し、織田政権の城として長浜城、坂本城を築城した。この2つの城は安土城に至るプロトタイプであり、信長はここで様々なノウハウを蓄積したのではないか。
信長は用意周到であり、城づくりにおいてもそれは同じだった。