「城」カテゴリーアーカイブ

第2回 日本城検定

2013/5/26(日)にNPO法人歴史のかたりべ主催の第2回、日本城検定が行われました。
日本城検定公式サイト

第1回で中級に合格したので、上級を受験しました。上級はすでに中級に合格している場合のみ受験可能ということで、これで合格出来れば儲けものといったところです。
受験地は川崎になりましたが、最近の城ブームの影響か、NHKが取材に来ていたことに驚きました。

・上級試験の貫禄
さて、受験しての感想ですが、難易度はかなり高いと感じました。
今回はそれなりに勉強しようと思っていたのですが、結局1週間くらいまえからポツポツと公式サイトに掲載されている”参考図書紹介”の本を読む程度のことしかできませんでした。日本城郭検定と異なりテーマ等が定められていないので、どこから出題されるか予想がつかないので”広く浅く”覚える感じです。しかし、実際の問題は”広く浅く”ではなく”広く深く”出題され、上級試験の貫禄を見せてくれました。
出題内容は”いろいろ”としか言い用がありませんが、”特定の城に関する特徴・エピソードといった相当に深い知識が必要なもの”、”城の構造物の現存数など、特定の事項に関する数を答えるもの”などが特に難易度が高いと感じました。
自己採点はまだしてませんが、今回は半分正解していれば御の字かなと思っています。おそらく調べても答えがわからないものもいくつかありそうですし…次回の試験、頑張ります。

・日本城郭検定との比較
先日受験した、日本城郭検定 準1級との難易度比較ですが、級の差を考慮しても”日本城検定”のほうが難易度が高いのは間違いないです。前回でも難易度の違いがはっきり出ていたので、難易度については “日本城検定 > 日本城郭検定” の傾向にあると考えます。

・実問題
今回は前回と異なり、問題用紙の持ち帰りがOKだったので以下にいくつか問題をご紹介します。参考になれば幸いです。

12 東京国立博物館所蔵『後三年合戦絵巻』に描かれている城柵は次のうちどれか。正しいものを選びなさい。
(a) 厨川柵
(b) 金沢柵
(c) 嫗戸柵
(d) 川崎柵
(e) 衣川柵

16 佐和山城下で石田三成の屋敷があったとされる谷は何と呼ばれていたか。次のなかから正しいものを選びなさい。
(a) モチの木谷
(b) トチの木谷
(c) モミジ谷
(d) カシの木谷
(e) シイの木谷

29 篠脇城に設けられた畝状空堀郡を地元では何と読んでいたか。次のなかから正しいものを選びなさい。
(a) 連珠塞
(b) 算盤堀
(c) 渦目堀
(d) 櫛目堀
(e) 臼の目堀

41 浅野文庫所蔵『諸国古城之図』には何名の絵図が収録されているか。次のなかから正しいものを選びなさい。
(a) 77枚
(b) 127枚
(c) 177枚
(d) 227枚
(e) 277枚

43 江戸時代に大阪城代に任じられたのは何人か。次のなかから正しいものを選びなさい。
(a) 40人
(b) 50人
(c) 60人
(d) 70人
(e) 80人

62 岩村城主の松平氏は十八松平のうちで、次のどれか。次のなかから正しいものを選びなさい。
(a) 形原松平氏
(b) 深溝松平氏
(c) 桜井松平氏
(d) 大給松平氏
(e) 瀧脇松平氏

64 後北条氏領国に認められる石垣の工法を何というか。次のなかから正しいものを選びなさい。
(a) 顎止技法
(b) 顎出技法
(c) 顎石技法
(d) 顎受技法
(e) 顎持技法

78 高槻城跡の本丸南西隅部から発掘調査によって胴木が検出された。この胴木は材木を組み合わせた構造の特殊なものであった。その名称として正しいものは、次のなかから選びなさい。
(a) 階段胴木
(b) 梯子胴木
(c) 算木胴木
(d) 算盤胴木
(e) 木目胴木

89 2012年に発掘調査で検出された聚楽第の長さ32mの石垣は次のどの部分と考えられているか。正しいものを選びなさい。
(a) 本丸東辺
(b) 本丸西辺
(c) 本丸北辺
(d) 本丸南辺
(e) 北の丸南辺

91 次の近世城郭の中で、畝堀、堀障子の検出されていない城はどれか。正しいものを選びなさい。
(a) 山形城
(b) 加納城
(c) 大阪城
(d) 姫路城
(e) 高崎城

赤木城と熊野市観光

運良くゴールデンウィークが10連休となったため、紀勢本線の乗りつぶしも兼ねて紀伊半島をぐるっと周ってきました。
その中のメインイベント、公共交通機関利用での赤木城登城+おまけの様子をご紹介します。

赤木城は築上の名手、藤堂高虎が豊臣秀長の家臣時代に築いた城で、規模こそ小さいですが、藤堂高虎築城術のルーツとして城ファンの関心を集める城です。
また、最寄りの鉄道駅から20キロ近く離れた山の中にあることから、全国の城の中でも到達するのが困難な城のひとつとしても有名です。
一応周囲にバス路線はあるのですが、一日数本レベルです。最寄りバス停は熊野市バスの田平子で、赤木城から徒歩15分ほどのところにあります。時刻表は以下のとおり。

平谷方面
13:30
19:00

紀南病院方面
07:31
14:16

平谷方面がこの当たりの中心駅である熊野市駅方面から来るバスになりますが、出発地が紀南病院で熊野市駅からは直通していません。また到着時間が13:30になるので次の逆方向のバスまでの時間が45分しかありません。よって田平子バス停のみで往復するのは難しいという結論に至ります。

こんなときに頼りになるのが某ルート検索サービス。毎月300円払って利用しているのですが、運良くこのあたりを走る熊野市バス、三重交通バスに対応していました。
そこで時間を細々と変更しながら検索し、なんとか実現できそうなルートを決定しました。ルート地図は以下になります。


より大きな地図で 赤木城と熊野市観光 を表示

この旅程をご紹介します。

・前日に熊野市に入りホテルで宿泊

(01) 08:28 熊野市駅前 発 [三重交通バス 南紀01-1 新宮駅行] に乗車
写真を撮り忘れましたが、熊野市駅前特産品館の前にあるバスのりばから出発です。

(02) 08:49 阿田和端地 着
国道42号線沿いにある阿田和端地バス停の目前には七里御浜と熊野灘が広がります。降りた場所で熊野市バス瀞流荘行に乗り換えます。

七里御浜と熊野灘
七里御浜と熊野灘

(03) 09:04 阿田和端地 発 [熊野市バス 瀞流荘紀南病院線 瀞流荘行] に乗車
海岸線を離れ山に入っていきます。コミュニティバス的な小さなバスに乗り換えます。

(04) 09:34 千枚田・通り峠入口 着
阿田和端地から30分ほどですが、だいぶ山奥に来ました。途中の道は側面がそそり立つ崖となっておりバスが通るのがやっとの部分もあり「なんかすごいところに迷い込んじまった」感がありワクワクします。

千枚田・通り峠入口バス停からの風景
千枚田・通り峠入口バス停からの風景

人がいる気配はありませんでしたが、バス停近くには小さな観光案内所のような建物があります。ここ以降赤木城まで、自動販売機はありませんでした。
写真右の橋をわたると右側に今回進む道が続いています。Google Mapではこの道は載っていませんが、某ルート検索サイトを信用して進みます。道はコンクリートで舗装されており歩きやすいです。

千枚田・通り峠入口の観光案内所?
千枚田・通り峠入口の観光案内所?

(05) 10:00ころ 熊野古道・通り峠ルート入り口
千枚田・通り峠入口バス停からコンクリートで舗装された道を20分ほど進むと、県道40号線に合流します。ここには小さな駐車場とトイレがあります。そして、目の前には急な坂道があり、ここが熊野古道・通り峠ルートの入り口になります。まさか某ルート検索サイトが熊野古道をルートとして提示してくるとは思わず、しばらくそこでスマホを見ながら確認をしていましたが、まちがいなくこの石畳の道を指していす。

(06) 熊野古道・通り峠ルート
今回の登城は舗装された道路のみで完結すると思っていたのですが、ここでまさかの巡礼道を歩くことになります。城同様に歴史の香りがするものは大好きなので、これは一石二鳥ということで喜んで進み始めました。杉の木立の間に苔むした石畳が続く非常に雰囲気の良い場所ではあるのですが、想像以上に勾配が激しく、存外歩きづらい。考えてみれば峠というくらいなので当然なのですが…昔の人はここを草履で歩いていたのですから本当に大したものです。

熊野古道・通り峠ルート その1
熊野古道・通り峠ルート その1
熊野古道・通り峠ルート その2
熊野古道・通り峠ルート その2
熊野古道・通り峠ルート その3
熊野古道・通り峠ルート その3
熊野古道・通り峠ルート その4
熊野古道・通り峠ルート その4

普段全く運動をしない私が休み休み20分ほど歩くと、通り峠に到着します。
通り峠は吉野方面へと向かう「北山道」の入り口にある峠で、かつてはここから海を望むことができたそうです。通り峠ルートは山林を直線的に抜ける約1キロメートルのルートで、写真のように石畳もよく残っており、峠には子安地蔵が祀られています。

通り峠の子安地蔵
通り峠の子安地蔵

通り峠からは脇道があり、170段の階段を登ると、丸山千枚田を眼下に一望できる展望台があります。
平地がほとんどないこの当たりでは、人々が一粒でも多く米を収穫したいとの思いで棚田を開墾しました。その中のひとつが丸山千枚田です。慶長6年(1601)にはすでにその数は2000枚を超えるほどになっており、昭和40年代半ばまではその規模が維持されていました。しかし、その後の稲作転換政策や過疎化・高齢化の進行で放棄される棚田が増え、平成初期には530枚までに減っていました。近年になり丸山地区の人々が荒廃していく丸山千枚田を憂い保存会を結成。徐々に棚田を復活させ現在は1340枚になっています。
藤堂高虎が赤木城を築いた天正期、文禄期にはすでに多くの棚田があったと思うと、感慨深いものがあります。

眼下に広がる丸山千枚田
眼下に広がる丸山千枚田

約1キロメートルの熊野古道・通り峠ルートを約1時間かけて抜けました。某ルート検索サービスはたぶん高低差や道の整備状況などは考慮していないのでしょう。千枚田・通り峠入口バス停から赤木城まで徒歩1時間10分ほどで到着となっていましたが、まだ半分しか来ていません。途中で休んだ時間を差し引いても、ちょっとこの時間での到着は無理な気がします。それとも私の体力が低すぎるのか…平地で舗装された道であればこれくらいの時間でいける気はします。

(07) 11:30ころ 赤木城の案内版を発見
熊野古道・通り峠ルートからは舗装された比較的平坦な道路をひたすら歩きます。途中何台かの車を見かけましたが歩行者は私のみでした。30分ほど歩くと道路の分岐点に赤木城の文字を発見!だいぶ近づいてきました。

赤木城案内板
赤木城案内板

(08) 11:40ころ 田平子処刑場跡・田平子峠
分岐点から先程まで歩いてきた道路より細めの道路を10分ほど進むと、赤木城とともに国指定史跡となっている田平子処刑場跡があります。
もともと藤堂高虎がこの地に入った理由のひとつが一揆の鎮圧だったわけですが、その鎮圧の現場のひとつがこの田平子処刑場跡になります。天正と慶長に起こった北山一揆で処刑された村人の数は513名に上ると言われ、道路建設の際にはたくさんの人骨が発見されたそうです。高虎は赤木城が完成すると村人に祝儀に来るように命じ、祝儀に来た村人を捕らえ、ここで打首にしてその首を晒したと言われています。「行たら戻らぬ赤木の城へ 身捨てどころは田平子じゃ」という里歌が今に伝わっています。

田平子処刑場跡
田平子処刑場跡

田平子処刑場の少し先が田平子峠になります。写真の左側に田平子バス停があり、写真右の道路を下ると赤木城にたどり着きます。熊野古道・通り峠ルートを抜けた跡は比較的平坦な道路が続いていましたが、ここから赤木城までの道路はそこそこの勾配が続きます。

田平子峠
田平子峠
田平子バス停
田平子バス停

(09) 12:00ころ 赤木城到着!
千枚田・通り峠入口バス停から2時間半ほど歩いてようやく赤木城に到着しました。

赤木城
赤木城

赤木城には土産店や管理事務所等はなく、あるのは自動販売機ひとつです。そこで久しぶりに見たmiuを一杯。あれ?昔はAQUARIUSみたいな味だったんだけど、ただのミネラルウォーターになってる…
城を見学していると初老の夫婦から「おお、早いね。もう着いたんだね」と声を掛けられました。どうやら追い越された車から目撃されていた模様。まああんなところを一人で黙々と歩いていれば目立つのも納得です。
城をゆっくり見学し、西郭でのどかな風景を眺めながらのんびりと遅めの昼食(おにぎり2つ)を食べました。天気が良くて本当に良かった。
ちなみに私がいた約2時間の間に6人ほどが城を訪れましたが、どの人もすぐ帰ってしまい、1時間半くらいは貸切状態でした。
赤木城の登城記は“こちら”をご覧ください。

・13:50ころ 赤木城出発
帰りは14:16 田平子発のバスに乗るので、登り坂ということもあり余裕を持って出発しました。

(10) 14:16 田平子 発 [熊野市バス 瀞流荘紀南病院線 紀南病院行] に乗車
再び熊野市バスに乗ります。乗客は私一人でした。
運転手さんによると赤木城で使用されている石材は、近くの北山川から調達してきたらしいです。なるほど、確かに赤木城まで歩く間に北山川の支流と思われる小さな川がいくつもありましたが、どこも大きめの石が露出しており、石材の調達には困らなそうです。

(11) 14:23 小栗須 着
最後のバス乗り換え地です。乗り換えバスまでは30分ほどあるので城郭検定公式問題集を読んで時間をつぶしました。

小栗須バス停から田平子峠方面を望む
小栗須バス停から田平子峠方面を望む

・14:52 小栗須 発 [熊野市バス 熊野古道瀞流荘線 木本高校行] に乗車
ここで乗ったバスは普通の路線バスと同じ大きさのバスでしたが、例のごとく最後まで乗客は私一人でした。
このバスに乗れば40分ほどで熊野市駅前に到着しますが、まだホテルに戻るには時間が早いので熊野市の名所に寄り道をすることにしました。熊野市駅前から2つ手前のバス停、(12) 松原で下車し「獅子岩」まで歩きます。

(13) 15:35ころ 獅子岩
松原バス停から少し歩くと海岸沿いに続く国道42号線に突き当たります。朝にバスで通った道路です。
そこから右を見ると、海岸に小さな岩山が見えます。これが獅子岩です。しかし獅子を見るためには反対側まで行く必要があります。反対側に行くと想像以上の獅子振りに少し感動しました。だいたいこういう”岩系”のものは、そう見えなくもないという感じがなのですが、確かにこれは獅子です。奥の大きな岩が阿行、手前の小さい丸い岩が吽形と呼ばれています。これらは熊野市の山奥にある大馬神社の狛犬とされており、大馬神社には狛犬がないそうです。ですが、この奇跡の造形は少し角度を変えると消えてしまい元の小さな岩山に戻ってしまいます。
近くの海岸には5月ということで、たくさんの鯉のぼりが泳いでいました。

獅子岩
獅子岩
違う角度から見た獅子岩
違う角度から見た獅子岩
海岸の鯉のぼり
海岸の鯉のぼり

(14) 15:55ころ 花の窟神社
獅子岩から400メートルほど歩くと日本最古の神社ともされる花の窟神社があります。
祭神は皇祖神である天照大神の母神である伊奘冉尊(いざなみのみこと)、その子神の火の神・軻遇突智(かぐつち)神です。伊奘冉尊は、日本神話で国生みをしたあのイザナミです。伊奘冉尊は軻遇突智神を産んだ時に火傷を負って亡くなり、この地に葬られたとされています。
御神体は境内にある巨大な岩山そのもので、そのため本殿は建てられていません。御神体ということで写真撮影は控えましたが、巨大な岩山の中央に割れ目があり、そこが岩で塞がれているように見え、確かにお墓のような印象を受けます。この岩山の中になにかあるのか、あるいはなにもないのかはわかりませんが、神話と現実の交錯点といった感じで不思議な気分になりました。

花の窟神社
花の窟神社

16:40ころ 熊野市駅
少し寄り道をしましたが、出発点に帰って来ました。おおよそ8時間の道のりでしたがローカルバスあり、巡礼道あり、秘境(?)の名城あり、日本最古の神社ありの充実した1日でした。赤木城まで公共交通機関でたどり着いたということで、どんな城でも行けると少し気が大きくなっている今日このごろです。

日本城検定の問題その1

2012/9/1(土)に行われた第1回日本城検定中級で、私が間違えた問題をいくつかご紹介します。筑前六端城なんて初めて聞きましたよ…
正解は白文字で書いてありますので、マウスで反転させて下さい。

26 世界遺産にも指定されている国宝姫路城には、重要文化財に指定されている建物が多数存在します。そのうち門は、何棟が重要文化財ですか。
(a) 5棟
(b) 10棟
(c) 15棟
(d) 20棟
正解 → (c) 15棟

73 大阪城の京橋門枡形内の巨石「肥後石」は畳約33畳敷の大きさを誇っています。この巨石を運搬した大名は誰ですか。
(a) 加藤清正
(b) 福島正則
(c) 黒田長政
(d) 池田忠雄
正解 → (d) 池田忠雄

93 慶長6年(1601)黒田長政は、領国防御として筑前六端城と呼ばれる支城を国境沿いに築きました。次のうち六端城でない城はどれですか。
(a) 若松城
(b) 黒崎城
(c) 直方城
(d) 鷹取城
正解 → (c) 直方城

日本城検定合格!

2012/9/1(土)にNPO法人歴史のかたりべ主催の第1回、日本城検定が行われました。
日本城検定公式サイト

長年溜め込んできた(?)城の知識をいざ試そうということで、勇んで中級に挑戦しました。
結果、100問中84問正解。合格ラインは80問正解なのでぎりぎり合格することができました。
仕事が忙しく勉強できない状態での受験でしたが、まあなんとかなるだろうと思っていました。確かになんとかはなったのですが、思ったより成績が悪い…甘く見すぎていました。

上級は第2回からの開催で、すでに中級を合格している場合のみ受験できるとのこと。最初の上級合格者の一人になることを狙っていますが、中級でこの調子だと上級は真面目に勉強しないと合格は難しそうです。

問題用紙と合格認定証(プラスチック製)
問題用紙と合格認定証(プラスチック製)
 

出題傾向

問題は4つの回答からの選択式で、出題内容は以下のようなものでした。
・写真から破風や瓦、門の金具の名称を選択する問題
・近年復元された城郭建築の写真から城名を選択する問題
・各城のエピソードにまつわる問題(例:安土城の蛇石、大阪城の肥後石、徳川家康が鯛の天ぷらを食べた城)
・築上技術に関する問題(例:南蛮造り、稜堡式、雁行)
・歴史上重要な舞台となった城に関する問題(例:戊辰戦争、文禄・慶長の役)
・現存する御殿の数や、城の設備の数(例:姫路城で重要文化財に指定された門の数、篠山城の馬出しの数)

上記以外にもいろいろな問題があり「広く、浅く」ではなく「広く、結構深く」といった知識が問われるという印象です。

実問題

今回の検定問題でこれは難しいと思ったもの(要は私が間違えたもの)を何回かに分けていくつかご紹介します。
正解は白文字で書いてありますので、マウスで反転させて下さい。

44 朝鮮半島の最西端にある光洋湾に面した沿岸に、宇喜多秀家、藤堂高虎を中心として築城を始め、突貫工事により短期間で完成をみた、慶長の役の際の城はどこですか。
(a) 蔚山城
(b) 順天城
(c) 金海竹島城
(d) 西生浦城
正解 → (b) 順天城