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お城EXPO 2016 レポート

2016年12月23(金)、24(土)、25(日)の三日間、おそらく全国初であろう大規模お城イベントの「お城EXPO 2016」がパシフィコ横浜で開催されました。
主催者の一角である東北新社様からのご案内もあり、招待状まで受け取りましたので喜んで行ってきました。
もっとも私が楽しみにしていたお城会の重鎮の先生方による厳選プログラムは別料金が必要で、座席指定となるため、満席を恐れて前売り券を買ってしまい、招待券は使わずじまいとなりました。私は23(金)、24(土)と参加して、厳選プログラムの講演やトークショーに張り付いていたので、テーマ展示はゆっくり見ることが出来ませんでした。次回は厳選プログラムの密度をもう少し減らしていただけるとテーマ展示も十分見ることができ、城ファンとしてはありがたいと思います。

テーマ展示 – 熊本城復興支援コーナー
4月の熊本地震で甚大な被害を受けた熊本城について、被害状況説明と8ヶ月がたった現在の姿の写真が公開されていました。4月14日21時26分の前震(M6.5)では石垣の崩壊は6箇所のみ、現存建造物は長塀のみが崩壊、と比較的被害は軽かったようですが、16日1時25分の本震(M7.3)で石垣、現存建物ともに大被害を被りました。現代の建物でもM7クラスの地震を二回も喰らえばただではすまないので致し方ないでしょう。むしろ前震をほとんどの石垣、建物が持ちこたえたことは熊本城の築城技術の高さを証明していると思います。最終的な被害状況は以下となります。

・石垣
膨らみ・緩み 64箇所、517面 約23600㎡(29.9%)
うち崩壊50箇所、229面 約8200㎡(10.3%)
・重要文化財建造物
13棟 倒壊2棟、一部倒壊3棟、他は屋根・壁破損など
・復元建造物
20棟 倒壊5棟 他は屋根、壁破損など

被害総額
・石垣 約425億円
・重要文化財建造物 約72億円
・再建・復元建造物+その他公園施設 約137億円
計 634億円

ジオラマ-熊本城
ジオラマ-熊本城

お土産、グッズ、書籍販売会
お城や戦国関係の書籍や模型等が販売されていました。特に私が気になったのは「城ラマ」ブースです。城ラマとは「お城ジオラマ復元堂」さんが作成・販売している中世城郭のジオラマで、お城ブームの昨今注目を集めています。これまでお城の模型というと天守やその周辺のみで、土の城である中世城郭が商品化されるのは初めてだと思います。私がはじめて「城ラマ」を知ったのはたしかタモリ倶楽部ででした。そのときは、かなり小さいため作りが雑なのかなと思っていましたが、実際に現物を見てみるとかなり細かい作り込みに感動しました。
現在は長篠城、高天神城、上田城が販売されており、近々竹田城がラインナップに加わるとのこと。ここでは非売品の小机城も展示されていました。気になったのは小田原城にも取材(?)に行ったとの新聞記事が展示されており、担当者さんに小田原城も出るか伺ったところ、小田原城は大きすぎてちょっと厳しいとのこと。でも顔は笑っていたのでもしかしたら…小田原城となればお値段が張っても私は買うので期待したいところです。

城ラマブース
城ラマブース
城ラマー小机城
城ラマー小机城
城ラマ-高天神城
城ラマ-高天神城
城ラマ-長篠城
城ラマ-長篠城

テーマ展示 – お城のジオラマ模型展
「お城のジオラマ模型展」では、城郭模型作家・岐部博氏が製作した城ジオラマを40点を展示。現存十二天守の城から、なかなかマニアックな城まであり見入ってしまいました。ジオラマということでサイズの制約上かなりデフォルメがされていますが、いずれもその城の特徴が出ており、中には歴史的事件等を盛り込んだものもあり面白い造りになっていました。

お城のジオラマ-苗木城 その二
お城のジオラマ-苗木城 その二
お城のジオラマ-苗木城 その一
お城のジオラマ-苗木城 その一
お城のジオラマ-小田原城 その一
お城のジオラマ-小田原城 その一
お城のジオラマ-小田原城 その二
お城のジオラマ-小田原城 その二
お城のジオラマ-松山城
お城のジオラマ-松山城
お城のジオラマ-竹田城
お城のジオラマ-竹田城
お城のジオラマ-豊臣大坂城 その二
お城のジオラマ-豊臣大坂城 その二
お城のジオラマ-豊臣大坂城 その一
お城のジオラマ-豊臣大坂城 その一
お城のジオラマ-石垣山一夜城と小田原城 その一
お城のジオラマ-石垣山一夜城と小田原城 その一
お城のジオラマ-石垣山一夜城と小田原城 その二
お城のジオラマ-石垣山一夜城と小田原城 その二
お城のジオラマ-浜松城
お城のジオラマ-浜松城
お城のジオラマ-宇和島城
お城のジオラマ-宇和島城
お城のジオラマ-和歌山城
お城のジオラマ-和歌山城
お城のジオラマ-来島城
お城のジオラマ-来島城
お城のジオラマ-高知城
お城のジオラマ-高知城
お城のジオラマ-高松城
お城のジオラマ-高松城
お城のジオラマ-高取城 その一
お城のジオラマ-高取城 その一
お城のジオラマ-高取城 その二
お城のジオラマ-高取城 その二
お城のジオラマ-飛騨高山城
お城のジオラマ-飛騨高山城
お城のジオラマ-松前城
お城のジオラマ-松前城
お城のジオラマ-萩城
お城のジオラマ-萩城

テーマ展示 – 城郭の浮世絵展
城郭の浮世絵展では江戸時代、文化文政期から幕末、明治にかけての戦国時代の合戦等をモチーフにした浮世絵が展示されています。戦国時代をモチーフにしながら幕末の洋船、いわゆる黒船が描かれている、立派な天守があったりといろいろと面白いものがありました。
真柴久吉公播州姫路城郭築之図では秀吉が「真柴久吉」と描かれ、周りには「浮島正則」や「畑切且元」といったどこかで見たような人物が描かれています。豊臣政権を否定する徳川幕府にはばかってのことでしょうが、ミエミエな感じがおかしくすらあります。浮世絵師も幕府もお互いなあなあでやっていたのかもしれません。名将諸国を征伐之図は秀吉の一連の戦いを抽象的に描いたもののようで、城の周りには北条や本願寺など、秀吉がその生涯で対峙した相手の旗がはためいています。

城郭の浮世絵展-真柴久吉公播州姫路城郭築之図 その一
城郭の浮世絵展-真柴久吉公播州姫路城郭築之図 その一

城郭の浮世絵展-真柴久吉公播州姫路城郭築之図 その二
城郭の浮世絵展-真柴久吉公播州姫路城郭築之図 その二
城郭の浮世絵展-名将諸国を征伐之図 その二
城郭の浮世絵展-名将諸国を征伐之図 その二
城郭の浮世絵展-名将諸国を征伐之図 その一
城郭の浮世絵展-名将諸国を征伐之図 その一

テーマ展示 – 厳選城絵図展
厳選城絵図展では、公益財団法人 日本城郭協会が長年にわたり収集した城郭の絵図から選りすぐりの8点が展示されています。今回展示されている絵図は、歴史資料というより美術品としての性格が強いものですが、城の様子をイメージするには十分で面白かったです。特に日本城郭配置図には各国の石高や、城名、宿場町などが描かれており人だかりができていました。こういうのはやはり地元が気になるんですよね。

厳選城絵図展-日本城郭配置図 その一
厳選城絵図展-日本城郭配置図 その一

厳選城絵図展-日本城郭配置図 その二
厳選城絵図展-日本城郭配置図 その二

テーマ展示 – 現存十二天守模型展示
現存十二城の同縮尺での精巧な天守模型の展示です。神奈川県での開催ということで特別出演として小田原城も展示されていました。

現存十二天守模型展-小田原城 その一
現存十二天守模型展-小田原城 その一

現存十二天守模型展-小田原城 その二
現存十二天守模型展-小田原城 その二
現存十二天守模型展-松江城
現存十二天守模型展-松江城
現存十二天守模型展-丸亀城
現存十二天守模型展-丸亀城

厳選プログラム
厳選プログラムへの参加には通常の「入城券」の倍のお値段の「プレミアム入城券」が必要となります。私は正直なところテーマ展示はともかくこの厳選プログラムが目当てでした。なんといってもお城会の重鎮である小和田哲男先生や三浦昌幸先生のお話を生で聞けるわけですから。
実はいくつかの厳選プログラムの際、登壇していなかった小和田哲男先生が四席くらい隣に座っていて、思わず声をかけようかと思いましたがぐっと我慢しました。周りの人は気付いていたかったのでしょうか。サインが欲しかった…

ここでは厳選プログラムの中で特に印象に残った三浦正幸先生の講演をご紹介します。

厳選プログラム – 12/23(金) 天守と櫓について 三浦昌幸先生
天守復元でおなじみの三浦正幸先生の講演です。お題は熊本城の天守と櫓について。目からウロコの内容で要点は以下となります。

・宇土櫓の築城時期について
宇土櫓は一昔前は小西行長の宇土城天守を移築したものと伝えられてきましたが、現在はその説は否定されています。では宇土櫓はいつごろのものなのかという内容でした。

-櫓台は付近の石垣の積み方より新しい積み方となっており、増築されたものと考えられる

-櫓台には穴蔵があるが、一階床下の造りが穴蔵を持った櫓として相応しくない

-一階内部に広縁と呼ばれる空間がある。これは安土城や豊臣大坂城にもあったもので非常に古い時代の天守の特徴である

-最上階に高欄を設け天守なみの格式を持っている

-現在の大天守と大入母屋や破風の配置が類似している。このような配置を持つのは熊本城のみで、現在の大天守の縮小版が宇土櫓であると言える

結論:宇土櫓は清正が熊本に入ってから関ヶ原の戦いで加増されるまでの間に建てられた清正最初の天守である

宇土櫓については清正最初の天守であることが確実となれば、現存十二天守よりも古いものとなり、日本史上においても城郭建築史上においても非常に貴重な建物だといえます。そのため三浦先生は次に国宝にする必要がある城郭建築は間違いなく宇土櫓と太鼓判を押していらっしゃいました。僭越ながら私もそう思います。

・熊本城大天守の張り出しと得意な構造について
熊本城大天守は一重目が石垣から張り出し、通常の望楼型天守のパターンである一重と二重が同大な城(萩城、岡山城、豊臣大阪城など)と異なるユニークな形となっている。その理由について。

-もともと清正は四重ないし三重の天守をここに建てることを想定していた

-ところが関ヶ原での戦功での大幅加増(50万石)のため、石高に相応しい天守を築くことになった。当時の不文律として中納言以上あるいは50万石以上の大名は五重天守を建てる必要があった

-関ヶ原以前から現在の天守台を造っていたため小さな天守台に五重天守を建てることになり、苦肉の策として一重目を張り出した

結論:熊本城天守の特異な構造は、四重ないし三重天守の天守台に、無理やり五重天守を建てたため

ここからは私の推論ですが、天守台には現在の大天守の二重目から上だけが建てられる予定だったのではと思いました。すでに二重目より上の設計は終わっていたが、五重天守にする必要があったため一重目を継ぎ足した。今の大天守を見ているとだるま崩しの容量で一重目だけを外してみるとぴったりと天守台と二重目の大きさが一致するように見えます。いかがでしょうか。

お城EXPO 2016 開催決定!

細々とお城関係のサイトとブログを運営している私ですが、先日1通のメールが届きました。

「お城EXPO2016」開催のご案内と告知協力のご依頼…

どうやらこのささやかなブログが株式会社東北新社様の目に留まったようで、12月に開催する全国初(?)の大型お城イベントの告知依頼でした。というわけで喜んで協力させて頂きます。

お城EXPO2016

開催日は12/23(金)、24(土)、25(日)の三日間で場所はパシフィコ横浜です。プログラム内容は以下となります。

<テーマ展示>
・浮世絵に見る攻城戦展
・厳選城絵図&お城模型展示
・日本100名城写真展
・熊本城復興支援コーナー
・お城シアター
・お城EXPO検定
・城めぐり観光情報ゾーン
・城下町 特産・名産品即売会
・お城EXPOフォトコンテスト
・ワークショップ   ほか

<厳選プログラム>
お城のスペシャリストたちが登壇するここでしか聞けない貴重な講演会・フォーラム・トークショーなどの厳選プログラム。12月24日(土)に開催するトークショーでは、春風亭昇太さんにご参加いただき、城郭考古学を専門とする考古学者の千田嘉博さん、城郭ライターの萩原さちこさんとともに、お城について熱く語っていただきます。

この中で私が特に気になっているのが厳選プログラムです。三日間それぞれで別のゲストが登場し、トークショーや貴重な講演会が開かれます。そのゲストが実に豪華です。

戦国時代といえばこの方 … 小和田哲男先生
数多くの天守復元を手がけ、私の愛読書「城の作り方図典」の著者 … 三浦正幸先生
後北条氏関係のディープな書籍を多数著作 … 黒田基樹先生
芸能界随一のお城通 … 春風亭昇太師匠

お城、戦国好きなら見覚えのある名前ばかりだと思います。入場料とは別料金が必要ですが、これだけの豪華キャストなので十分勝価値あると思います。私は以下のプログラムを見に行こうかと検討中です。

23日(金) 講演会「天守と櫓について」 …三浦正幸先生
24日(土) トークショー「山城の魅力を語る!」 …春風亭昇太師匠 他
24日(土) 講演会「秀吉の小田原攻めの意義と背景」 …黒田基樹先生 他
24日(土) フォーラム「小田原攻めの実態に迫る」…小和田哲男先生、黒田基樹先生 他

これだけ豪華ですとちょっとしたクリスマスプレゼントのようです。全国のお城好きの方はぜひこの三日間はパシフィコ横浜へ!
もちろん「お城EXPO2016」の様子はこのブログにも掲載します。

第2回 日本城検定

2013/5/26(日)にNPO法人歴史のかたりべ主催の第2回、日本城検定が行われました。
日本城検定公式サイト

第1回で中級に合格したので、上級を受験しました。上級はすでに中級に合格している場合のみ受験可能ということで、これで合格出来れば儲けものといったところです。
受験地は川崎になりましたが、最近の城ブームの影響か、NHKが取材に来ていたことに驚きました。

・上級試験の貫禄
さて、受験しての感想ですが、難易度はかなり高いと感じました。
今回はそれなりに勉強しようと思っていたのですが、結局1週間くらいまえからポツポツと公式サイトに掲載されている”参考図書紹介”の本を読む程度のことしかできませんでした。日本城郭検定と異なりテーマ等が定められていないので、どこから出題されるか予想がつかないので”広く浅く”覚える感じです。しかし、実際の問題は”広く浅く”ではなく”広く深く”出題され、上級試験の貫禄を見せてくれました。
出題内容は”いろいろ”としか言い用がありませんが、”特定の城に関する特徴・エピソードといった相当に深い知識が必要なもの”、”城の構造物の現存数など、特定の事項に関する数を答えるもの”などが特に難易度が高いと感じました。
自己採点はまだしてませんが、今回は半分正解していれば御の字かなと思っています。おそらく調べても答えがわからないものもいくつかありそうですし…次回の試験、頑張ります。

・日本城郭検定との比較
先日受験した、日本城郭検定 準1級との難易度比較ですが、級の差を考慮しても”日本城検定”のほうが難易度が高いのは間違いないです。前回でも難易度の違いがはっきり出ていたので、難易度については “日本城検定 > 日本城郭検定” の傾向にあると考えます。

・実問題
今回は前回と異なり、問題用紙の持ち帰りがOKだったので以下にいくつか問題をご紹介します。参考になれば幸いです。

12 東京国立博物館所蔵『後三年合戦絵巻』に描かれている城柵は次のうちどれか。正しいものを選びなさい。
(a) 厨川柵
(b) 金沢柵
(c) 嫗戸柵
(d) 川崎柵
(e) 衣川柵

16 佐和山城下で石田三成の屋敷があったとされる谷は何と呼ばれていたか。次のなかから正しいものを選びなさい。
(a) モチの木谷
(b) トチの木谷
(c) モミジ谷
(d) カシの木谷
(e) シイの木谷

29 篠脇城に設けられた畝状空堀郡を地元では何と読んでいたか。次のなかから正しいものを選びなさい。
(a) 連珠塞
(b) 算盤堀
(c) 渦目堀
(d) 櫛目堀
(e) 臼の目堀

41 浅野文庫所蔵『諸国古城之図』には何名の絵図が収録されているか。次のなかから正しいものを選びなさい。
(a) 77枚
(b) 127枚
(c) 177枚
(d) 227枚
(e) 277枚

43 江戸時代に大阪城代に任じられたのは何人か。次のなかから正しいものを選びなさい。
(a) 40人
(b) 50人
(c) 60人
(d) 70人
(e) 80人

62 岩村城主の松平氏は十八松平のうちで、次のどれか。次のなかから正しいものを選びなさい。
(a) 形原松平氏
(b) 深溝松平氏
(c) 桜井松平氏
(d) 大給松平氏
(e) 瀧脇松平氏

64 後北条氏領国に認められる石垣の工法を何というか。次のなかから正しいものを選びなさい。
(a) 顎止技法
(b) 顎出技法
(c) 顎石技法
(d) 顎受技法
(e) 顎持技法

78 高槻城跡の本丸南西隅部から発掘調査によって胴木が検出された。この胴木は材木を組み合わせた構造の特殊なものであった。その名称として正しいものは、次のなかから選びなさい。
(a) 階段胴木
(b) 梯子胴木
(c) 算木胴木
(d) 算盤胴木
(e) 木目胴木

89 2012年に発掘調査で検出された聚楽第の長さ32mの石垣は次のどの部分と考えられているか。正しいものを選びなさい。
(a) 本丸東辺
(b) 本丸西辺
(c) 本丸北辺
(d) 本丸南辺
(e) 北の丸南辺

91 次の近世城郭の中で、畝堀、堀障子の検出されていない城はどれか。正しいものを選びなさい。
(a) 山形城
(b) 加納城
(c) 大阪城
(d) 姫路城
(e) 高崎城

赤木城と熊野市観光

運良くゴールデンウィークが10連休となったため、紀勢本線の乗りつぶしも兼ねて紀伊半島をぐるっと周ってきました。
その中のメインイベント、公共交通機関利用での赤木城登城+おまけの様子をご紹介します。

赤木城は築上の名手、藤堂高虎が豊臣秀長の家臣時代に築いた城で、規模こそ小さいですが、藤堂高虎築城術のルーツとして城ファンの関心を集める城です。
また、最寄りの鉄道駅から20キロ近く離れた山の中にあることから、全国の城の中でも到達するのが困難な城のひとつとしても有名です。
一応周囲にバス路線はあるのですが、一日数本レベルです。最寄りバス停は熊野市バスの田平子で、赤木城から徒歩15分ほどのところにあります。時刻表は以下のとおり。

平谷方面
13:30
19:00

紀南病院方面
07:31
14:16

平谷方面がこの当たりの中心駅である熊野市駅方面から来るバスになりますが、出発地が紀南病院で熊野市駅からは直通していません。また到着時間が13:30になるので次の逆方向のバスまでの時間が45分しかありません。よって田平子バス停のみで往復するのは難しいという結論に至ります。

こんなときに頼りになるのが某ルート検索サービス。毎月300円払って利用しているのですが、運良くこのあたりを走る熊野市バス、三重交通バスに対応していました。
そこで時間を細々と変更しながら検索し、なんとか実現できそうなルートを決定しました。ルート地図は以下になります。


より大きな地図で 赤木城と熊野市観光 を表示

この旅程をご紹介します。

・前日に熊野市に入りホテルで宿泊

(01) 08:28 熊野市駅前 発 [三重交通バス 南紀01-1 新宮駅行] に乗車
写真を撮り忘れましたが、熊野市駅前特産品館の前にあるバスのりばから出発です。

(02) 08:49 阿田和端地 着
国道42号線沿いにある阿田和端地バス停の目前には七里御浜と熊野灘が広がります。降りた場所で熊野市バス瀞流荘行に乗り換えます。

七里御浜と熊野灘
七里御浜と熊野灘

(03) 09:04 阿田和端地 発 [熊野市バス 瀞流荘紀南病院線 瀞流荘行] に乗車
海岸線を離れ山に入っていきます。コミュニティバス的な小さなバスに乗り換えます。

(04) 09:34 千枚田・通り峠入口 着
阿田和端地から30分ほどですが、だいぶ山奥に来ました。途中の道は側面がそそり立つ崖となっておりバスが通るのがやっとの部分もあり「なんかすごいところに迷い込んじまった」感がありワクワクします。

千枚田・通り峠入口バス停からの風景
千枚田・通り峠入口バス停からの風景

人がいる気配はありませんでしたが、バス停近くには小さな観光案内所のような建物があります。ここ以降赤木城まで、自動販売機はありませんでした。
写真右の橋をわたると右側に今回進む道が続いています。Google Mapではこの道は載っていませんが、某ルート検索サイトを信用して進みます。道はコンクリートで舗装されており歩きやすいです。

千枚田・通り峠入口の観光案内所?
千枚田・通り峠入口の観光案内所?

(05) 10:00ころ 熊野古道・通り峠ルート入り口
千枚田・通り峠入口バス停からコンクリートで舗装された道を20分ほど進むと、県道40号線に合流します。ここには小さな駐車場とトイレがあります。そして、目の前には急な坂道があり、ここが熊野古道・通り峠ルートの入り口になります。まさか某ルート検索サイトが熊野古道をルートとして提示してくるとは思わず、しばらくそこでスマホを見ながら確認をしていましたが、まちがいなくこの石畳の道を指していす。

(06) 熊野古道・通り峠ルート
今回の登城は舗装された道路のみで完結すると思っていたのですが、ここでまさかの巡礼道を歩くことになります。城同様に歴史の香りがするものは大好きなので、これは一石二鳥ということで喜んで進み始めました。杉の木立の間に苔むした石畳が続く非常に雰囲気の良い場所ではあるのですが、想像以上に勾配が激しく、存外歩きづらい。考えてみれば峠というくらいなので当然なのですが…昔の人はここを草履で歩いていたのですから本当に大したものです。

熊野古道・通り峠ルート その1
熊野古道・通り峠ルート その1
熊野古道・通り峠ルート その2
熊野古道・通り峠ルート その2
熊野古道・通り峠ルート その3
熊野古道・通り峠ルート その3
熊野古道・通り峠ルート その4
熊野古道・通り峠ルート その4

普段全く運動をしない私が休み休み20分ほど歩くと、通り峠に到着します。
通り峠は吉野方面へと向かう「北山道」の入り口にある峠で、かつてはここから海を望むことができたそうです。通り峠ルートは山林を直線的に抜ける約1キロメートルのルートで、写真のように石畳もよく残っており、峠には子安地蔵が祀られています。

通り峠の子安地蔵
通り峠の子安地蔵

通り峠からは脇道があり、170段の階段を登ると、丸山千枚田を眼下に一望できる展望台があります。
平地がほとんどないこの当たりでは、人々が一粒でも多く米を収穫したいとの思いで棚田を開墾しました。その中のひとつが丸山千枚田です。慶長6年(1601)にはすでにその数は2000枚を超えるほどになっており、昭和40年代半ばまではその規模が維持されていました。しかし、その後の稲作転換政策や過疎化・高齢化の進行で放棄される棚田が増え、平成初期には530枚までに減っていました。近年になり丸山地区の人々が荒廃していく丸山千枚田を憂い保存会を結成。徐々に棚田を復活させ現在は1340枚になっています。
藤堂高虎が赤木城を築いた天正期、文禄期にはすでに多くの棚田があったと思うと、感慨深いものがあります。

眼下に広がる丸山千枚田
眼下に広がる丸山千枚田

約1キロメートルの熊野古道・通り峠ルートを約1時間かけて抜けました。某ルート検索サービスはたぶん高低差や道の整備状況などは考慮していないのでしょう。千枚田・通り峠入口バス停から赤木城まで徒歩1時間10分ほどで到着となっていましたが、まだ半分しか来ていません。途中で休んだ時間を差し引いても、ちょっとこの時間での到着は無理な気がします。それとも私の体力が低すぎるのか…平地で舗装された道であればこれくらいの時間でいける気はします。

(07) 11:30ころ 赤木城の案内版を発見
熊野古道・通り峠ルートからは舗装された比較的平坦な道路をひたすら歩きます。途中何台かの車を見かけましたが歩行者は私のみでした。30分ほど歩くと道路の分岐点に赤木城の文字を発見!だいぶ近づいてきました。

赤木城案内板
赤木城案内板

(08) 11:40ころ 田平子処刑場跡・田平子峠
分岐点から先程まで歩いてきた道路より細めの道路を10分ほど進むと、赤木城とともに国指定史跡となっている田平子処刑場跡があります。
もともと藤堂高虎がこの地に入った理由のひとつが一揆の鎮圧だったわけですが、その鎮圧の現場のひとつがこの田平子処刑場跡になります。天正と慶長に起こった北山一揆で処刑された村人の数は513名に上ると言われ、道路建設の際にはたくさんの人骨が発見されたそうです。高虎は赤木城が完成すると村人に祝儀に来るように命じ、祝儀に来た村人を捕らえ、ここで打首にしてその首を晒したと言われています。「行たら戻らぬ赤木の城へ 身捨てどころは田平子じゃ」という里歌が今に伝わっています。

田平子処刑場跡
田平子処刑場跡

田平子処刑場の少し先が田平子峠になります。写真の左側に田平子バス停があり、写真右の道路を下ると赤木城にたどり着きます。熊野古道・通り峠ルートを抜けた跡は比較的平坦な道路が続いていましたが、ここから赤木城までの道路はそこそこの勾配が続きます。

田平子峠
田平子峠
田平子バス停
田平子バス停

(09) 12:00ころ 赤木城到着!
千枚田・通り峠入口バス停から2時間半ほど歩いてようやく赤木城に到着しました。

赤木城
赤木城

赤木城には土産店や管理事務所等はなく、あるのは自動販売機ひとつです。そこで久しぶりに見たmiuを一杯。あれ?昔はAQUARIUSみたいな味だったんだけど、ただのミネラルウォーターになってる…
城を見学していると初老の夫婦から「おお、早いね。もう着いたんだね」と声を掛けられました。どうやら追い越された車から目撃されていた模様。まああんなところを一人で黙々と歩いていれば目立つのも納得です。
城をゆっくり見学し、西郭でのどかな風景を眺めながらのんびりと遅めの昼食(おにぎり2つ)を食べました。天気が良くて本当に良かった。
ちなみに私がいた約2時間の間に6人ほどが城を訪れましたが、どの人もすぐ帰ってしまい、1時間半くらいは貸切状態でした。
赤木城の登城記は“こちら”をご覧ください。

・13:50ころ 赤木城出発
帰りは14:16 田平子発のバスに乗るので、登り坂ということもあり余裕を持って出発しました。

(10) 14:16 田平子 発 [熊野市バス 瀞流荘紀南病院線 紀南病院行] に乗車
再び熊野市バスに乗ります。乗客は私一人でした。
運転手さんによると赤木城で使用されている石材は、近くの北山川から調達してきたらしいです。なるほど、確かに赤木城まで歩く間に北山川の支流と思われる小さな川がいくつもありましたが、どこも大きめの石が露出しており、石材の調達には困らなそうです。

(11) 14:23 小栗須 着
最後のバス乗り換え地です。乗り換えバスまでは30分ほどあるので城郭検定公式問題集を読んで時間をつぶしました。

小栗須バス停から田平子峠方面を望む
小栗須バス停から田平子峠方面を望む

・14:52 小栗須 発 [熊野市バス 熊野古道瀞流荘線 木本高校行] に乗車
ここで乗ったバスは普通の路線バスと同じ大きさのバスでしたが、例のごとく最後まで乗客は私一人でした。
このバスに乗れば40分ほどで熊野市駅前に到着しますが、まだホテルに戻るには時間が早いので熊野市の名所に寄り道をすることにしました。熊野市駅前から2つ手前のバス停、(12) 松原で下車し「獅子岩」まで歩きます。

(13) 15:35ころ 獅子岩
松原バス停から少し歩くと海岸沿いに続く国道42号線に突き当たります。朝にバスで通った道路です。
そこから右を見ると、海岸に小さな岩山が見えます。これが獅子岩です。しかし獅子を見るためには反対側まで行く必要があります。反対側に行くと想像以上の獅子振りに少し感動しました。だいたいこういう”岩系”のものは、そう見えなくもないという感じがなのですが、確かにこれは獅子です。奥の大きな岩が阿行、手前の小さい丸い岩が吽形と呼ばれています。これらは熊野市の山奥にある大馬神社の狛犬とされており、大馬神社には狛犬がないそうです。ですが、この奇跡の造形は少し角度を変えると消えてしまい元の小さな岩山に戻ってしまいます。
近くの海岸には5月ということで、たくさんの鯉のぼりが泳いでいました。

獅子岩
獅子岩
違う角度から見た獅子岩
違う角度から見た獅子岩
海岸の鯉のぼり
海岸の鯉のぼり

(14) 15:55ころ 花の窟神社
獅子岩から400メートルほど歩くと日本最古の神社ともされる花の窟神社があります。
祭神は皇祖神である天照大神の母神である伊奘冉尊(いざなみのみこと)、その子神の火の神・軻遇突智(かぐつち)神です。伊奘冉尊は、日本神話で国生みをしたあのイザナミです。伊奘冉尊は軻遇突智神を産んだ時に火傷を負って亡くなり、この地に葬られたとされています。
御神体は境内にある巨大な岩山そのもので、そのため本殿は建てられていません。御神体ということで写真撮影は控えましたが、巨大な岩山の中央に割れ目があり、そこが岩で塞がれているように見え、確かにお墓のような印象を受けます。この岩山の中になにかあるのか、あるいはなにもないのかはわかりませんが、神話と現実の交錯点といった感じで不思議な気分になりました。

花の窟神社
花の窟神社

16:40ころ 熊野市駅
少し寄り道をしましたが、出発点に帰って来ました。おおよそ8時間の道のりでしたがローカルバスあり、巡礼道あり、秘境(?)の名城あり、日本最古の神社ありの充実した1日でした。赤木城まで公共交通機関でたどり着いたということで、どんな城でも行けると少し気が大きくなっている今日このごろです。