小田原 歴史的町名碑めぐり その二

小田原 歴史的町名碑めぐり その一の続きです。
これまでの小田原 歴史的町名碑めぐり。

小田原 歴史的町名碑めぐり その一

016 竹花広小路(たけのはなひろこうじ)2017/02/26撮影
「地名の由来は、井細田口の木戸から府内に入る甲州道を少し上って裏組に分岐する地点までの小路で、特に道幅が広くなっていたから「竹花広小路」といわれていた。」
このあたりは国道255号線がクランク状になっており、これはかつての井細田口の名残です。付近には暗渠になっていますが、かつての惣構の堀の一部が残っています。

016-01-01_竹花広小路
016-01-01_竹花広小路
016-01-02_竹花広小路
016-01-02_竹花広小路

017-01 先町(さきちょう)2017/02/26撮影
017-02 先町(さきちょう)2017/02/26撮影

「地名の由来は竹花町の町境から竹花広小路にかけての甲州道の両側に、表組の先手筒(先鋒の鉄砲隊)と先手弓(先鋒の弓組)の御組長屋があったことにより、これらを総称して「先町」といった。」

017-01-01_先町
017-01-01_先町
017-01-02_先町
017-01-02_先町
017-02-01_先町
017-02-01_先町
017-02-02_先町
017-02-02_先町

018-01 竹花町(たけのはなちょう)2017/02/26撮影
018-02 竹花町(たけのはなちょう)2017/02/26撮影

「この町は、小田原北条氏時代からある北の城門であった井細田口の近く、江戸時代末期には郷宿(ごうやど・公用で藩役所などへ出向く村人が泊まる宿屋)や日用雑貨品などを売る店が多く、城下町の出入口らしい町並みであった。」

018-01-02_竹花町
018-01-02_竹花町
018-01-01_竹花町
018-01-01_竹花町
018-02-01_竹花町
018-02-01_竹花町
018-02-02_竹花町
018-02-02_竹花町

019 裏組(うらぐみ)2017/02/26撮影
「この地は、持筒(鉄砲隊)や持弓(弓隊)の人たちが住む組長屋であった。地名の由来は甲州道筋の御組長屋を「表組」と呼んだのに対し、これと対象的に「裏組」といった。なお、明治以降は、「浦町」と呼ばれるようになった。」

019-01-01_裏組
019-01-01_裏組
019-01-02_裏組
019-01-02_裏組

020 半幸町(はんこうちょう)2017/02/26撮影
「この地名は、「貞享三年御引渡記録」(一六六八年)に「竹花裏はんこ町」として見られる。江戸時代後期、この地には長沼流軍学者山下与太夫が住み、彼は四国から菱(ひし)の種子を取り寄せ、忍びの者の侵入を防ぐため小田原城の堀にこれを植えたとの伝承もある。」

020-01-01_半幸町
020-01-01_半幸町
020-01-02_半幸町
020-01-02_半幸町

021-01 須藤町(すとうちょう)2017/02/26撮影
021-02 須藤町(すとうちょう)2017/02/26撮影

「町名の由来は、小田原北条氏の総職人頭で、北条氏の領内の職人を統括する立場にあった須藤惣左衛門が住んでいたためといわれている。町並みには商家が多く、江戸時代を通じ有力な商人が住んでいた。」
このあたりには古くからのお店も多く、中でも寛文元年(1661)に創業した、茶製品と和紙を扱う「江嶋」は小田原屈指の老舗です。

021-01-01_須藤町
021-01-01_須藤町
021-01-02_須藤町
021-01-02_須藤町
021-02-02_須藤町
021-02-02_須藤町
021-02-01_須藤町
021-02-01_須藤町

022 錦織町(にしこりちょう)2017/02/26撮影
「この地内に「錦織明神」がまつられていたところから「錦織町」(東海道分間延絵図)といわれた。明治以降は、「錦織横町」と呼ばれ、現在の「錦通り」の那覇、この「錦織神社」や「錦織町」に由来する。」

022-01-01_錦織町
022-01-01_錦織町
022-01-02_錦織町
022-01-02_錦織町

023 愛宕下(あたごした)2017/02/26撮影
「この地の西側にあった小高い丘の上には、古くから摩利支天(まりしてん)が祀られ、この山を「愛宕山」と呼んだ。この丘の東側の地なので愛宕下と呼ばれ、江戸時代前期のの稲葉氏時代(一六三二~八五年)には田畑の中に武家屋敷が点在していた。しかし、江戸時代の後期になると、道路の両側に組長屋が造られ、武家地の性格が強まった。この道路を中心にして「愛宕通り」とも呼んだ。」

023-01-01_愛宕下
023-01-01_愛宕下
023-01-02_愛宕下
023-01-02_愛宕下

024 新蔵(しんくら)2017/02/26撮影
「稲葉氏時代、小田原城主稲葉氏がこの地に新たに蔵屋敷を建てた。そこで、以前からあった小田原城三の丸弁財天曲輪の蔵を「本(元)蔵」と呼び、こちらを「新蔵」と呼ぶようになった。なお、この地を「新蔵屋敷」ともいい、幕末には八棟の蔵が並んでいた。」

024-01-01_新蔵
024-01-01_新蔵
024-01-02_新蔵
024-01-02_新蔵

025 揚土(あげつち)2017/02/26撮影
「地名の由来は、小田原城三の丸の空堀を造成した時の土や、そこに流入した土砂をこの地に揚げて埋め立てたためといわれている。ここは小田原城の城門の一つであった谷津口門に近く、小田原城を守る重要な地点でもあった。なお、揚土で植栽されたいた梅の実は、種子が小さく、果肉が厚いため「揚土の梅」と呼ばれ、食用に珍重したといわれる。」
現在の小田原駅が建っているのが揚土で、石碑も小田原駅ロータリーの中にあります。近くには小田原高校発祥の地の石碑もあります。

025-01-01_揚土
025-01-01_揚土
025-01-02_揚土
025-01-02_揚土
025-01-03_揚土
025-01-03_揚土

026 高部屋(たかべや)2017/02/26撮影
「稲葉氏時代、ここに鷹匠(たかじょう)の屋敷が設けられていたため、この地は「鷹部屋」、「高部屋」などと呼ばれていた。しかし、江戸時代中期以降は、専ら侍屋敷となっていた。」
現在は、小田原駅東口周辺の小田原市街の繁華街がこのあたりになります。

026-01-01_高部屋
026-01-01_高部屋
026-01-02_高部屋
026-01-02_高部屋

027-01 上幸田(うわこうだ)2017/02/26撮影
027-02 上幸田(うわこうだ)2017/02/26撮影

「地名の由来は、小田原北条氏時代、北条氏の家臣幸田氏がこの地に居住していたからといわれている。この地は、小田原城内に入る門の一つ、幸田門から北へ走る道路の両側にあった長方形の侍町で、隣の下幸田とともに、幸田門を守る重要な位置にあった。」

027-01-01_上幸田
027-01-01_上幸田
027-01-02_上幸田
027-01-02_上幸田
027-02-01_上幸田
027-02-01_上幸田
027-02-02_上幸田
027-02-02_上幸田

028 下幸田(しもこうだ)2017/02/26撮影
「地名の由来は、小田原北条氏時代、北条氏の家臣幸田氏がこの地に居住していたからといわれている。この地は、小田原城内に入る門の一つ、幸田門近くにあり、隣の上幸田とともにこの門を守る侍町にふさわしいたたずまいであった。」

028-01-01_下幸田
028-01-01_下幸田
028-01-02_下幸田
028-01-02_下幸田

029 藪幸田(やぶこうだ)2017/02/26撮影
「この地名は、小田原北条氏時代、北条氏の家臣幸田氏が居住していたためといわれる。下幸田(しもこうだ)・上幸田(うわこうだ)の西方に位置し、幕末には藩士の住まいが約十六軒あった。」

029-01-01_藪幸田
029-01-01_藪幸田
029-01-02_藪幸田
029-01-02_藪幸田

030 日向屋敷(ひゅうがやしき)2017/02/26撮影
「地名の由来は、慶長十九年(一六一四)、小田原城主大久保忠隣が改易(かいえき)となった時、その夫人である「日向御前」が閉居した屋敷跡があったためといわれている。江戸時代末期には、約十四軒の藩士の住まいがあった。」

030-01-01_日向屋敷
030-01-01_日向屋敷
030-01-02_日向屋敷
030-01-02_日向屋敷

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です