小田原 歴史的町名碑めぐり その三

小田原 歴史的町名碑めぐり その二の続きです。

これまでの小田原 歴史的町名碑めぐりは以下をご覧ください。
小田原 歴史的町名碑めぐり その一
小田原 歴史的町名碑めぐり その二

031 鍋弦小路(なべつるこうじ)2017/03/19撮影
「揚土(あげつち)道に接する小路で、その姿がコの字形で鍋の釣手に似ているため、この名がついたといわれている。江戸時代末期には、この小路の両側に二十軒ほどの藩士の家があった。」

031-01-01_鍋弦小路
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031-01-02_鍋弦小路
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032 入谷津(いりやつ)2017/03/19撮影
「現在、平地に近い東側のこの辺も、山地に近い西側と同じように入谷津と呼ばれる。しかし、稲葉氏が小田原城主でもあった江戸時代前期にはこの辺は谷津と呼ばれ、武家地であった。(貞享三年御引渡記録)稲葉氏時代末期、この地には藩士屋敷が十二軒ほどあった。江戸時代後期になってこの地域は、入谷津と呼ばれるようになったようである。」

032-01-01_入谷津
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032-01-02_入谷津
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033 八幡曲輪(はちまんくるわ)2017/03/19撮影
「この地は、古くは「裏大門」と呼ばれたところで「八幡曲輪」の地名は、武家屋敷地としての名である。東西に延びる坂道の両側には藩の中堅武士の屋敷があり、江戸時代を通じて五軒の住まいがあった。幕末にはこの地名は、単に「八幡山」とも呼ばれるようになった。」

033-01-01_八幡曲輪
033-01-01_八幡曲輪
033-01-02_八幡曲輪
033-01-02_八幡曲輪

034 八幡山(はちまんやま)2017/03/19撮影
「この地には、二つの八幡社があった。その一つは、北条氏が鎌倉八幡宮から勧請(かんじょう・神仏の分身を他に移す)したといわれ、江戸時代には、「元宮」または、「本丸八幡」と呼ばれた。他の一つは江戸時代初期、小田原城主大久保忠世が祀ったもので、「新御宮」または、「若宮八幡」とも呼ばれた。地名はこのように二つの八幡社にちなんだものである。」

034-01-01_八幡山
034-01-01_八幡山

035 鍛冶曲輪(かじくるわ)2017/03/19撮影
「鍛冶曲輪は丘陵地に位置し、小田原北条氏時代の小田原城の重要な曲輪(くるわ)であったと考えられる。この地は早くからこの地名があったが、江戸時代前期の寛文二年(一六六二)小田原城主稲葉正則に召抱えられた刀工藤原清平も移り住んだといわれ、「相州八幡山住藤原清平」の銘がある刀剣も残っている。」

035-01-01_鍛冶曲輪
035-01-01_鍛冶曲輪

036 御前曲輪(ごぜんくるわ)2017/03/19撮影
「この地は、今も底の広い窪地で、以前は土塁や空堀をもつ城郭遺構であった。この一角から中世の祭祀遺構と考えられる敷石遺構が発掘され、現在も保存されている。城郭でいう御前曲輪とは、一般例では城内で神仏をまつる場所である。なお、この曲輪には「人質曲輪」という別称もあった。」
現在の城山競技場一帯です。

036-01-01_御前曲輪
036-01-01_御前曲輪
036-01-02_御前曲輪
036-01-02_御前曲輪

037 毒榎平(どくえだいら)2017/03/19撮影
「この地の西端に残る巨大な土塁と空堀は、小田原城三の丸外郭の遺構で、小田原北条氏時代後期に築造されたものである。この遺構は豊臣秀吉の小田原攻めに備えた大外郭成立以前の小田原城の最西端に当たる重要な場所であった。毒榎は植物の油桐のことであるが、ここで栽培されたという記録は、残されていない。」
現在このあたりは城山公園となっており、戦没者慰霊碑があることから小田原市民からは「慰霊塔」と呼ばれています。小田原市屈指の桜の名所となっています。

037-01-01_毒榎平
037-01-01_毒榎平
037-01-02_毒榎平
037-01-02_毒榎平
037-01-03_毒榎平
037-01-03_毒榎平

038 御鐘ノ台(おかねのだい)2017/03/19撮影
「天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の小田原攻めに備え、小田原北条氏が小田原城大外郭を設けた時、この地は城域に取り入れっられた。小田原城の西端に当たり、中世の城郭遺構が最も良く残っているところである。地名の由来は、小田原攻めの時、この地に陣鐘が置かれていたためといわれている。」
小田原城惣構の西の果てがこのあたりで、小田原城惣構で最も高い場所で、標高は約110メートルあります。

038-01-01_御鐘ノ台
038-01-01_御鐘ノ台
038-01-02_御鐘ノ台
038-01-02_御鐘ノ台

039 鉄砲矢場(てっぽうやば)2017/03/19撮影
「この地は、小田原北条氏時代に造られた小田原城の三の丸空堀と惣構(そうがまえ)の空堀とに挟まれた東西に細長い地域で、両方の空堀が接する西端には「二重外張」(ふたえとばり)と呼ばれる虎口(こぐち・城の出入り口)があった。ここが矢場として利用されたかどうかは、明らかではない。」

039-01-01_鉄砲矢場
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039-01-02_鉄砲矢場
039-01-02_鉄砲矢場

040-01 御組長屋(おくみながや)2017/03/19撮影
040-02 御組長屋(おくみながや)2017/03/19撮影
「江戸時代前期、小田原城下の山王口、板橋口と井細田口の三つの出入口の沿道には、先手筒(先鋒の鉄砲隊)や先手弓(先鋒の弓組)などの組の者が住む御組長屋(新宿町組・山角町組・竹花組)が設けられていた。その中で地名となって残ったのは、ここ、山角町組だけである。」
近くには大久寺と居神神社があります。大久寺は小田原藩主大久保毛の菩提寺です。墓石は向かって右から、大久保忠常、忠隣、忠世、忠良、忠勝、忠俊、忠良の娘の順になっており、初代ただ夜の墓石は、小田原市の代表的な宝塔となっています。
居神神社には北条早雲が滅ぼした、三浦半島の新井城主であった三浦義意が祀られています。新井城落城後、義意の首はこの神社の松の梢に晒されましたが、三年間眼目せず通行人をにらんだとも、自刃後に三浦半島から海を超えて小田原まで飛来し、居神の森の古松にかぶりついたともいわれています。その後、小田原城下の僧が供養を試みましたが、成仏しなかったため、この社を建て居神神社として祀ったとされています。

040-01-01_御組長屋
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040-01-02_御組長屋
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040-01-03_御組長屋
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040-01-04_御組長屋
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040-02-01_御組長屋
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040-02-02_御組長屋
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040-02-03_御組長屋
040-02-03_御組長屋

041 大久寺小路(だいきゅうじこうじ)2017/03/19撮影
「この地名は、小田原城主大久保忠世が建立し。前期大久保家の菩提寺でもある大久寺の門前の小路があったためといわれている。」

041-01-01_大久寺小路
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041-01-02_大久寺小路
041-01-02_大久寺小路

042-01 山角町(やまかくちょう)2017/03/19撮影
042-02 山角町(やまかくちょう)2017/03/19撮影
「小田原北条氏の家臣山角定吉の屋敷があったので、この町名がついたといわれている。町内には小田原北条氏時代から畳職人、屋根職人の頭(かしら)などが住んでいた。東海道筋の西から御厩(おうまや)小路、天神小路(いずれも武家屋敷が並ぶ)が南へ伸びている。」

042-01-01_山角町
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042-01-02_山角町
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042-02-01_山角町
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042-02-02_山角町
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043-01 筋違橋町(すじちがいばしちょう)2017/03/19撮影
043-02 筋違橋町(すじちがいばしちょう)2017/03/19撮影
「橋の名が町名になっているが、橋についての資料は見当たらない。町内の東海道筋を西から、諸白小路、狩野殿小路、安斎小路(いずれも武家屋敷が並ぶ)が南へ伸びている。」

043-01-01_筋違橋町
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043-01-02_筋違橋町
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043-02-01_筋違橋町
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043-02-02_筋違橋町
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044-01 欄干橋町(らんかんばしちょう)2017/03/19撮影
044-02 欄干橋町(らんかんばしちょう)2017/03/19撮影
「この町から城内にかけられた橋の名前により、この名がついたといわれる。町内には小田原北条氏時代からの旧家外郎(ういろう)があり、江戸時代末期には本陣一、旅籠(はたご)が十軒ほどあった。」
近くには上記外郎家が営む「ういろう」本店があります。立派なお城風の建物で、お菓子の「ういろう」と透頂香(とうちんこう)と呼ばれる、昔からの薬を売っています。幕末の写真にも「ういろう」の店が写されており、白壁の瓦葺き、屋根には千鳥破風を設けた立派な建物が確認でき、昔からこういった感じのお店だったようです。

044-01-01_欄干橋町
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044-01-02_欄干橋町
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044-01-03_欄干橋町
044-01-03_欄干橋町
044-02-01_欄干橋町
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044-02-02_欄干橋町
044-02-02_欄干橋町

045 中宿町(なかしゅくちょう)2017/03/19撮影
「この町には上(かみ)の問屋場(人足や馬による輸送の取継ぎ所)が置かれ、高梨町の下(しも)問屋場と十日交代で勤めていた。町内には御用商人の小西家があり、江戸時代末期には脇本陣一、旅籠(はたが)が十一軒ほどあった。」
現在も近くに御用商人の小西家の薬局が残っています。

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045-01-02_中宿町
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045-01-03_中宿町
045-01-03_中宿町

046-01 本町(ほんちょう)2017/03/19撮影
046-02 本町(ほんちょう)2017/03/19撮影
「小田原北条氏時代、この町は通小路(とおりこうじ)といわれていたが江戸時代前期にこの町を基準にして城下の町人町を左右に町割りしたとき本町と改められた。隣の宮前町とともに小田原宿の中心で江戸時代末期には本陣二、脇本陣二に旅籠(はたご)が二十六軒ほどあった。」

046-01-01_本町
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046-01-02_本町
046-01-02_本町
046-02-01_本町
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046-02-02_本町
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047 金箆小路(かなべらこうじ)2017/03/19撮影
「この小路は、ほぼ直線状で行き止まりとなっていて、その形が箆(へら)に似ているためこの名がついたといわれている。稲葉氏時代(一六三二~八五年)、この地に藩の御細工所があった。後期大久保氏時代(一六八六~一八七一年)には、藩士の家が八軒ほど建っていた。」

047-01-01_金箆小路
047-01-01_金箆小路
047-01-02_金箆小路
047-01-02_金箆小路

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