「小田原城」カテゴリーアーカイブ

小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会(2013年10月19日)

現在、小田原城の御用米曲輪では史跡整備のための発掘調査が行われています。2013年2月の発掘説明会から2013年10月までの発掘成果の現地説明会が10月19(土)に行われたので行って来ました。

前回の現地説明会の投稿はこちらです。

今回の現地説明会は、昨年度確認された北条氏時代の庭状遺構に続く部分で確認された北条氏時代の「池」についての説明となりました。

御用米曲輪ではこれまでの発掘調査で大きく3箇所の庭跡が確認されましたが、今回確認された北条氏時代の池は曲輪南東部に位置しています。

確認された池は、調査範囲内だけでも外周が45メートル以上あり、東側に続く未確認部分を含めると70メートル以上になると想定されます。この池の珍しいところは、護岸に石が貼り付けてあるところです。さらに、その石材はほぼすべてが石塔(供養塔)の限られた部分だけを使用し、うまく組み合うように再加工してあります。池の規模からおそらく2000個位上の石材が用いられていたと想定されます。

発掘現場
発掘現場
崩された石
崩された石
鉄門坂跡から池を見下ろす
鉄門坂跡から池を見下ろす
発掘現場(パノラマ)
発掘現場(パノラマ)
出土した石塔の部材
出土した石塔の部材
出土した石塔の部材
出土した石塔の部材

今のところこの池には、池が作られた状態の時期(Ⅰ期)と、一部を砂利で埋め立てて使っていた時期(Ⅱ期)の2時期があると想定されます。Ⅰ期は、池底から16世紀後半のかわらけ(素焼きの土器)が出土していることから戦国時代、Ⅱ期は池が17世紀前半には存在する鉄門坂の下にまで続いており、池の覆土上層で江戸時代の瓦が出土していることから江戸時代に入ってからであろうと考えられています。

池、Ⅰ期想定復元図
池、Ⅰ期想定復元図
池、Ⅱ想定復元図
池、Ⅱ想定復元図

このような構造の池は全国的にも例がなく、小田原北条氏の文化や技術を知るうえで大変重要な成果と言えます。また、織豊系の武将が石垣に墓石などを使用していることはよく知られていますが、北条氏の城である興国寺城や箕輪城でも石塔を転用した遺構が確認されています。さらに今回の御用米曲輪の池のように、多量に石塔が使われている状況から、当時は使える石材はなんでも使うという考え方は一般的なものだったという見方もできます。

今後の調査で、戦国時代の小田原城の実態が除々に解明されていくことを期待します。なお御用米曲輪では2013年11月23日(土)、12月21日(土)にも現地説明会が開催されます。1ヶ月ごとに調査が進んで行く様子を一緒に体感できるという小田原市の粋なはからいです。もちろん参加しますので、その様子もご紹介する予定です。

小田原城の桜 2013

今年は例年よりだいぶ早い桜の開花となりました。早速、朝の小田原城に行って来ました。
朝7時ごろに到着しましたが、写真を取りに来ている方が沢山いました。日本人は本当に桜が好きですね。かく言う私も大好きですが。

3日前に様子を見に来た際は、ほとんど花は開いていなかったのですが、わずか二日間でほぼ満開になり、綺麗な桜を見ることができました。
近世小田原城は東向きに建てられており、順光となる午前中が写真撮影に適しています。おもな桜の見所としては二の丸堀周辺、本丸、かつて屏風岩と呼ばれ現在は遊園地となっている天守の裏側になるでしょうか。

しかし、こうやって写真を撮っていると、城と桜って最高の組み合わせだなぁと改めて実感しました。

二の丸堀周辺の桜1
二の丸堀周辺の桜1
二の丸堀周辺の桜2
二の丸堀周辺の桜2
二の丸堀周辺の桜3
二の丸堀周辺の桜3
二の丸堀周辺の桜4
二の丸堀周辺の桜4
本丸の桜1
本丸の桜1
本丸の桜2
本丸の桜2
本丸の桜3
本丸の桜3
屏風岩の桜1
屏風岩の桜1
屏風岩の桜2
屏風岩の桜2
屏風岩の桜3
屏風岩の桜3

小田原城の桜(様子見編)

先週、東京の靖国神社で桜が開花したとのニュースがありました。東京が咲いたなら小田原は?ということで、休日なのに早起きして、小田原城の桜の様子を見て来ました。

二の丸堀、馬出門、銅門、常盤木門、天守裏を回りましたが、木によっては五分咲きくらいのものもありましたが、ごく少数です。全体的には一分から二分咲き程度でした。これからの気温にもよるでしょうが、見頃まではもう少しでしょう。また土曜日に見に来ます。

小田原城の桜(様子見編)1
小田原城の桜(様子見編)1

 

小田原城の桜(様子見編)2
小田原城の桜(様子見編)2

小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会(2013年2月16日)

現在、小田原城の御用米曲輪では史跡整備のための発掘調査が行われています。2012年8月の発掘説明会から2013年2月までの発掘成果の現地説明会が2月16(土)に行われたので行って来ました。

御用米曲輪については前回8月の発掘説明会の投稿を御覧ください。
小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会

昨年8月以降、北条氏時代の庭や建物礎石が発見されました。
これらの発見により北条氏時代の御用米曲輪が、これまで考えられていた以上に重要な曲輪であり、城主の居館に相当する建物があった可能性がさらに高まって来ました。

ここでは、今回発見された戦国期の遺構をご紹介します。

・礎石建物跡(地図#1)
この礎石建物は、桁行11メートル、梁間5.5メートルで小田原城周辺で初めて見つかった戦国期の礎石建物です。当時礎石を設けて建てられるのは大規模な瓦葺きの建物や、寺院建築が中心でした。これは礎石を設けたこの建物が重要な建物であったことを物語ります。建物の規模、後でご紹介する庭との位置関係から、御用米曲輪にあったであろうなんらかの大規模建築物(御殿か?)の付属的な建物ではないかとのことです。
礎石建物の下には、礎石建物と直交した玉石道路と石組水路がありました。道路の幅は役1.8メートルで、拳大の石を敷き詰め、その隙間を「目潰し石(砂利)」で埋めています。この丁寧な造りから重要な道路であったと思われます。石組水路は礎石建物の下に入り込んでおり、礎石建物よりも古い遺構であるようです。

礎石建物
礎石建物
玉石敷道路と石組水路
玉石敷道路と石組水路

・庭状遺構
今回の調査では庭状の遺構が3箇所で発見されました。現状ではこれらの庭のつながりが不明瞭なため、今後の発掘調査で解明していくそうです。

三箇所の庭状遺構で最も北に位置するここ(地図#2)では石組水路と石垣付方形竪穴が発見されました。
南側の堀と溝で繋がる石組水路の北側・西側には砂利が濃密に敷き詰められています。そして石組水路に面して、明日香村の酒船石を思わせる凝灰岩の切石が置かれています。
この切石には水路に対して溝があることから、雨水などの処理に用いられたのではないかと考えられています。ただ、全国的にも類例がない遺構のため、同様の遺構をご存知の方はお知らせくださいとのことでした。
また石組水路の北側には、石垣を持つ方形竪穴状遺構が発見されました。壁面の石垣は、10~13段で役1.6メートルの深さがあります。石と石の間は土で固められており、一般的な石垣のような裏込め石がないことが特徴です。小田原城周辺で見つかった戦国時代の石垣はこれで3箇所目となりますが、北条氏の石積み技術を考える上でも貴重な遺構です。

庭状遺構:酒船石(?)と石組水路
庭状遺構:酒船石(?)と石組水路
庭状遺構:石垣付方形竪穴
庭状遺構:石垣付方形竪穴

三箇所の庭状遺構で中間に位置するここ(地図#3)では北の石組水路から続くとおもわれる石組水路が発見されました。この当たりではこの石組水路より南側(本丸側)に、戦国時代には一段高い部分があることがわかりました。どうやらこの石組水路は斜面の裾を巡るように造られていたようです。同例として、福井県の一乗谷朝倉氏関連遺跡の「湯殿跡庭園」が挙げられます。この庭園は斜面を借景としており、ここでは立石などが失われていますが、「湯殿跡庭園」同様に手のこんだ庭であったと考えられます。では、立石などはどこにいったか?というと、豊臣秀吉による小田原攻めで小田原城は無血開城となったため、立派な物品は豊臣方に「分捕り」されたのではないかとのことでした。
石組水路にはさまざまな石が使われています。黒い石は、箱根火山に起因する凝灰岩で「風祭石」と呼ばれています。白い石礫も箱根火山に起因する安山岩です。そして、黄色い石は「鎌倉石」とも呼ばれる三浦半島周辺の砂岩です。ここは庭の裏手に位置するため、色合いの異なる石を使い意識してモザイク模様のようにしているか、あるいは適当に石を配置したのかは不明です。当時独特の美的感覚があったのかもしれません。

庭状遺構:石組水路と玉石敷
庭状遺構:石組水路と玉石敷
庭状遺構:石組水路
庭状遺構:石組水路
庭状遺構:石組水路拡大
庭状遺構:石組水路拡大

三箇所の庭状遺構で最も南に位置するここ(地図#4)では、池、切石積、護岸遺構が発見されました。池は上段、下段からなり、昨年度の調査で見つかった障子堀を半分まで埋め立て、そこに砂利を敷いて導水路としています。背後には、風祭石の切石が2・3段に積み上げられ、背後斜面の土留の役割を果たすとともに、庭の借景となっています。そして切石の前には景色を造るように庭石が配置されています。障子堀からの水は更に下段の池に落ち、下段の池も上段の池と同様に砂利が敷かれ、庭石を配置して景色を造っています。
下段の池は更に法面を守るため、四角い石が貼られ護岸しています。その石は五輪塔の火輪や宝篋印塔の笠を裏返しにして用いています。その数は70個を超え、底面の砂利の下にも続いています。このような構造の護岸遺構は、全国的にも例のないものです。明らかに意図してこのような石材を使用しており、北条氏独特の文化のようなものがあったのかもしれません。

庭状遺構:切石積
庭状遺構:切石積
庭状遺構:護岸遺構
庭状遺構:護岸遺構
庭状遺構:切石積と護岸遺構
庭状遺構:切石積と護岸遺構

だいぶ適当ですが、地図上にこれらの場所をプロットしました。

より大きな地図で 小田原城御用米曲輪発掘調査説明会(2013/2/16) を表示

今回の発掘調査による成果で、戦国期のものをまとめると以下となります。
・戦国時代の礎石建物が確認できた。
・戦国時代の曲輪の形が確認できたとともに、曲輪南辺に沿って大規模な庭が造営されていたことがわかった。

ここからは私見となります。
これまで御用米曲輪で発見された戦国期の遺構を見て、ふと思ったのが江戸城の西の丸の事です。もしかしたら北条氏時代末期、平時は現在の本丸に当主氏直(八幡山古郭は詰の城として使用?)、御用米曲輪に隠居氏政が居住していたのではないかと…御用米曲輪が小田原城の重要な曲輪であったことは間違いないでしょう。しかし、目の前に一段高い本丸があるのだから、そこを差し置いて本丸機能を有していたとはちょっと考えにくい。となると、本丸をしっかりと発掘調査すれば、さぞや戦国期の貴重な遺構が出てくるのではないかと思います。
市の職員の方も本丸をしっかりと掘ってみたいと仰っていましたが、史跡発掘の原則として、史跡の保護を最優先することが国で定められています。戦国期の遺構を探そうとして、先に江戸時代の遺構が見つかるとその先を掘ることは難しくなるそうです。個人的には戦国時代の小田原城の姿が明らかになることを望みますが、江戸時代の遺構も大事なものです。史跡発掘は難しいですね。
今後も御用米曲輪での発掘調査は続きますが、次は庭状遺構のそばから戦国期の御殿礎石を発見!というのを期待したいです。

夕暮れの小田原城

秋は夕暮れ…ということで、ふらりと夕暮れの小田原城を撮影してきました。
撮影場所は小田原城の西側、東海道線、小田急線の線路を挟んだ高台にある八幡山古郭東曲輪です。
八幡山古郭東曲輪は戦国期小田原城の中心であった八幡山にあった曲輪です。
一時はマンションを建てる計画がありましたが、うまい具合に数年前に公園として整備されました。
ここからは小田原の中心街と小田原城天守、相模湾を一緒に見ることができ、なかなかの絶景ポイントとなっています。
また二子山等の箱根山も少し見ることができます。

夕暮れの小田原城1
夕暮れの小田原城1
夕暮れの小田原城2
夕暮れの小田原城2
夕暮れの箱根山
夕暮れの箱根山

小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会

現在、小田原城の御用米曲輪では史跡整備のための発掘調査が行われています。2012年2月の発掘説明会から8月までの発掘成果の現地説明会が8月18(土)に行われたので行って来ました。

御用米曲輪については前回の2月の発掘説明会の投稿を御覧ください。
小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会

発掘現場の様子
発掘現場にはいくつかのトレンチ(試掘坑)が掘られ、それぞれについて説明が行われました。その中のいくつかをご紹介します。

出土品
出土品

・第1次調査:第1トレンチ
曲輪の北に位置し、昭和57年に行われた第1次調査のトレンチを最発掘したものです。礎石群が3箇所確認できました。中でも南側の礎石群は7間(約13メートル)以上の大型建物跡で、北条時代の当主居館あるいは城館の中心的建造物と考えられる規模のものです。一部に火災の痕跡も確認されており、永禄12年(1569)の武田信玄による小田原城攻めで、放火された痕跡の可能性もあります。

第1次調査:第1トレンチ
第1次調査:第1トレンチ

・第12トレンチ
曲輪の北に位置し、曲輪の入り口から最も奥まった場所です。曲輪の形を明確にするために設定されました。
調査の結果、土塁の裾を確認することができました。また、2つの「瓦積塀」、石垣と石列、7基の柱穴列に囲まれた砂利敷きの空間を確認することができました。「瓦積塀」はその名の通り瓦を積み上げて造った塀で、このような塀の出土例は全国的にも稀です。この塀こそ今のところ小田原城唯一の江戸時代の現存建造物ということになります。
この瓦積塀に囲まれた砂利敷きの空間は、焔硝蔵あるいは宗教施設であったと考えれらます。ただ、焔硝蔵だとすると他の蔵に近すぎるとのことでした。曲輪の最も奥まった場所に位置し、塀の丁寧な造りなどから祠のような宗教施設であった可能性が高いそうです。

第12トレンチ
第12トレンチ
瓦積塀
瓦積塀

前回の発掘調査説明会から約半年ですが、新発見が続いているようです。今回の目玉は小田原城初の江戸時代の現存建造物「瓦積塀」の発見でしょう。
また、北条時代の居館がこの場所にあったという可能性も出てきました。私個人としては本丸の発掘調査もして欲しいところです。北条時代に居館が御用米曲輪にあったのなら本丸には何があったのでしょう…
今後の調査に期待です。

小田原城の桜

今年の桜も見頃ということで、朝6時に小田原城に行って来ました。
朝も早いので人は居ないかと思いきや、私と同様に写真を取りに来ている方がたくさん居ました。
今年は桜の満開と休日、さらに好天にめぐまれました。

小田原城の桜その1
小田原城の桜その1

学橋の朱と桜のピンク、隅櫓の白が綺麗です。

小田原城の桜その2
小田原城の桜その2

馬出門と隅櫓を中心に撮影。

小田原城の桜その3
小田原城の桜その3

隅櫓を中心に撮影。

小田原城の桜その4
小田原城の桜その4

水堀を中心に撮影。中心の橋は馬出門に続くめがね橋です。

小田原城の桜その5
小田原城の桜その5

天守と隅櫓を一緒に撮影。

小田原城の桜その6
小田原城の桜その6

本丸に上がり天守と桜を撮影。

小田原城の桜その7
小田原城の桜その7

本丸の裏、屏風岩と呼ばれる辺り(今は遊園地)から天守を撮影。

小田原城の桜その8
小田原城の桜その8

その7と同じく屏風岩の辺りから撮影。

小田原城の桜その9
小田原城の桜その9

誰もいない遊園地と桜をモノクロで。モノクロにするとオシャレ度が五割増しくらいになる気がします。

小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会

現在、小田原城の御用米曲輪では史跡整備のための発掘調査が行われています。
2012年2月4日(土)に現地説明会が行われたので、ちょっと出掛けてきました。

御用米曲輪とは
小田原城本丸の北側に位置する曲輪で、江戸時代に幕府の蔵が建てられていたことからこの名前で呼ばれています。北条氏時代の様子は定かではありませんが、江戸時代初期に描かれた絵図には百間蔵と描かれており、北条氏の朱印状にも百間蔵という言葉が見られることから、北条氏時代から蔵があり、その形も大きく変わらなかったと考えられています。近世以降の小田原城で、最も北条氏時代の様子が残されている曲輪とされています。
明治以降は野球場や駐車場として利用され遺構らしさが失われていましたが、平成22年に駐車場を閉鎖し史跡整備のための発掘調査を行なっています。

発掘現場の様子
発掘現場にはいくつかのトレンチ(試掘坑)が掘られ、それぞれについて説明が行われました。その中のいくつかをご紹介します。

出土品
出土品

・第1トレンチ
曲輪の北東に掘られました。曲輪北側の土塁はこれまで北条氏時代以来のものと考えられていましたが、今回の調査で江戸時代に造られたものであることがわかりました。
以前は北東の曲輪上がクスノキに覆われた散歩道になっていました。

・第1次調査:第2トレンチ
昭和57年に行われた第1次調査のトレンチを最発掘したものです。底の玉石は戦国時代の遺構と考えられています。

第1次調査:第2トレンチ
第1次調査:第2トレンチ

・第4トレンチ
曲輪の南に掘られたトレンチで、曲輪南の法面と地盤高を確認するために設定されました。
調査の結果、関東大震災で崩落した土砂に埋もれた石垣が見つかり、さらにその下から大規模な掘らしき遺構が見つかりました。この掘らしき遺構は絵図にもない謎の遺構で、今後の調査で正体解明に務めるそうです。

第4トレンチ
第4トレンチ

・第7トレンチA区
曲輪の北一帯に掘られた第7トレンチはA区~G区に分けられて調査が行われています。A区は昭和時代に切通しとなった土塁の跡に設定されました。
調査の結果、北条氏綱・氏康時代の素焼き「かわらけ」が多く出土し、少なくとも土塁が氏綱・氏康時代にはなかったことがわかりました。
以前はここに駐車場の入口があった事を覚えている方も多いのではないでしょうか。

第7トレンチA区1その1
第7トレンチA区その1
第7トレンチA区その2
第7トレンチA区その2

・第9トレンチ
第9トレンチは曲輪の南の法面、生垣を抜根した際に集石が見つかったため設定されました。坂の上には関東大震災で崩落した鉄門の石垣があります。鉄門へ続く階段の側溝らしき遺構が見つかりました。ここは特に穴を掘ったわけではなく草や樹木に覆われていたため、遺構が埋もれていました。私も以前から気になっていて、いずれ鉄門跡まで登ってみようかと思っていました。特に立ち入り禁止にはなってなかったはずです…

第9トレンチその1
第9トレンチその1
第9トレンチその2
第9トレンチその2

・第10トレンチ
曲輪の南に掘られたトレンチで、野球場のフェンス解体に伴って設定されました。
調査の結果、石積みを伴う障子掘が見つかりました。この石積みと障子掘が同時代のものかどうかの判断は今後の課題だそうです。ちなみに現在の小田原城址公園内で障子掘が見つかったのは、馬屋曲輪の住吉掘に続いて二例目となります。

第10トレンチ
第10トレンチ

御用米曲輪整備計画
発掘現場での説明会の後、市民会館で御用米曲輪整備計画についての説明がありました。その内容をいくつかご紹介します。

・御用米曲輪の概要
中世小田原城の面影が残り、緑に囲まれた中に史跡が息づく
緑豊かな土塁に囲まれた曲輪
大手筋の石垣とは異なり、戦国時代の面影を残す土塁と掘の姿
明治時代以降、本来の形を失う
適切な管理を怠り、樹木環境が悪化

赤字項目については、今回の発掘調査の結果、現在の曲輪の様子は江戸時代に形作られたものであり、中世のものとはだいぶ様子が異なる可能性が高い。

・整備基本方針
土塁や平場の修景を基本とする
平面表示にとどめた整備
曲輪の形を明確にする
市街地の貴重な広場として活用

・植栽については植栽専門部会を開き慎重に検討を行う

質問事項
貴重な機会なので今後の小田原城史跡整備について質問してみました。

Q1  本丸周辺の関東大震災で崩れた石垣の積み直しなどは行うのか
A1  今後長いスパンで検討する。本丸南面(市立図書館側)の石垣については、そのままの形で滑り落ちており、江戸時代の石積みや排水口などの遺構を見ることができ、小田原城で江戸時代そのままの石積みを見ることができる貴重な場所。このまま保存する事も考えている。

Q2  御用米曲輪の整備後、次はどのあたりの整備を行うのか
A2  まだ明確には決まっていない。ただ、二の丸についてはいつまでも現状のイベント広場として使っていくか要件等。今後は八幡山古郭の史跡整備に力点を移すことも考えている。

以上、小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会のご紹介でした。
今後の小田原城の史跡整備計画に注目です。