第2回 日本城検定

2013/5/26(日)にNPO法人歴史のかたりべ主催の第2回、日本城検定が行われました。
日本城検定公式サイト

第1回で中級に合格したので、上級を受験しました。上級はすでに中級に合格している場合のみ受験可能ということで、これで合格出来れば儲けものといったところです。
受験地は川崎になりましたが、最近の城ブームの影響か、NHKが取材に来ていたことに驚きました。

・上級試験の貫禄
さて、受験しての感想ですが、難易度はかなり高いと感じました。
今回はそれなりに勉強しようと思っていたのですが、結局1週間くらいまえからポツポツと公式サイトに掲載されている”参考図書紹介”の本を読む程度のことしかできませんでした。日本城郭検定と異なりテーマ等が定められていないので、どこから出題されるか予想がつかないので”広く浅く”覚える感じです。しかし、実際の問題は”広く浅く”ではなく”広く深く”出題され、上級試験の貫禄を見せてくれました。
出題内容は”いろいろ”としか言い用がありませんが、”特定の城に関する特徴・エピソードといった相当に深い知識が必要なもの”、”城の構造物の現存数など、特定の事項に関する数を答えるもの”などが特に難易度が高いと感じました。
自己採点はまだしてませんが、今回は半分正解していれば御の字かなと思っています。おそらく調べても答えがわからないものもいくつかありそうですし…次回の試験、頑張ります。

・日本城郭検定との比較
先日受験した、日本城郭検定 準1級との難易度比較ですが、級の差を考慮しても”日本城検定”のほうが難易度が高いのは間違いないです。前回でも難易度の違いがはっきり出ていたので、難易度については “日本城検定 > 日本城郭検定” の傾向にあると考えます。

・実問題
今回は前回と異なり、問題用紙の持ち帰りがOKだったので以下にいくつか問題をご紹介します。参考になれば幸いです。

12 東京国立博物館所蔵『後三年合戦絵巻』に描かれている城柵は次のうちどれか。正しいものを選びなさい。
(a) 厨川柵
(b) 金沢柵
(c) 嫗戸柵
(d) 川崎柵
(e) 衣川柵

16 佐和山城下で石田三成の屋敷があったとされる谷は何と呼ばれていたか。次のなかから正しいものを選びなさい。
(a) モチの木谷
(b) トチの木谷
(c) モミジ谷
(d) カシの木谷
(e) シイの木谷

29 篠脇城に設けられた畝状空堀郡を地元では何と読んでいたか。次のなかから正しいものを選びなさい。
(a) 連珠塞
(b) 算盤堀
(c) 渦目堀
(d) 櫛目堀
(e) 臼の目堀

41 浅野文庫所蔵『諸国古城之図』には何名の絵図が収録されているか。次のなかから正しいものを選びなさい。
(a) 77枚
(b) 127枚
(c) 177枚
(d) 227枚
(e) 277枚

43 江戸時代に大阪城代に任じられたのは何人か。次のなかから正しいものを選びなさい。
(a) 40人
(b) 50人
(c) 60人
(d) 70人
(e) 80人

62 岩村城主の松平氏は十八松平のうちで、次のどれか。次のなかから正しいものを選びなさい。
(a) 形原松平氏
(b) 深溝松平氏
(c) 桜井松平氏
(d) 大給松平氏
(e) 瀧脇松平氏

64 後北条氏領国に認められる石垣の工法を何というか。次のなかから正しいものを選びなさい。
(a) 顎止技法
(b) 顎出技法
(c) 顎石技法
(d) 顎受技法
(e) 顎持技法

78 高槻城跡の本丸南西隅部から発掘調査によって胴木が検出された。この胴木は材木を組み合わせた構造の特殊なものであった。その名称として正しいものは、次のなかから選びなさい。
(a) 階段胴木
(b) 梯子胴木
(c) 算木胴木
(d) 算盤胴木
(e) 木目胴木

89 2012年に発掘調査で検出された聚楽第の長さ32mの石垣は次のどの部分と考えられているか。正しいものを選びなさい。
(a) 本丸東辺
(b) 本丸西辺
(c) 本丸北辺
(d) 本丸南辺
(e) 北の丸南辺

91 次の近世城郭の中で、畝堀、堀障子の検出されていない城はどれか。正しいものを選びなさい。
(a) 山形城
(b) 加納城
(c) 大阪城
(d) 姫路城
(e) 高崎城

第2回 日本城郭検定

2013/5/13に財団法人日本城郭協会主催、第2回 日本城郭検定が行われました。
今回からは3級、2級に加えて準1級が加わり、さらに規模が大きくなった印象を受けました。
第1回で2級に合格したので、前進あるのみ!ということで準1級を受験しました。
出題傾向、私が悩んだ実問題をいくつかご紹介します。

出題傾向
準1級は武者返し級と銘打たれ、テーマは”石垣”ということでしたが、全体の印象としては、テーマのというわりには石垣関係の問題は少ない印象を受けました。
やはり前回受験した2級にくらべて明らかに問題の難易度が上がっています。

今回の出題傾向は以下の様な感じでしょうか。
1. 写真を使用した問題はなし
2. 特定の城に対して、選択肢から”間違っているもの”を選択する問題が多い
3. 沖縄のグスクの数、中世山城での竪堀の一般的な幅など、特定の”数字”を選択する問題が多い
4. 戦国期以前の朝鮮式山城や、中国式都城、館などに関する問題が増えた印象を受ける

上記の中で特に悩んだのが3の「特定の”数字”を選択する問題」でした。4択問題なので答えに自信がなくても、消去法でなんとかなる問題も多いのですが、こればかりは覚えていないと答えようがありません。
また、個人的に4の「朝鮮式山城や中国式都城、館などに関する問題」は、あまり押さえていなかったため自信がないです。

行ったことのある城については、現地での印象、展示内容からなんとなく覚えている知識も多いのですが、これらの問題はしっかりと事前勉強が必要だと改めて感じました。

ちなみに自己採点では79点くらいと予想しています。前回検定の合格ラインが70点でしたので、それならば合格ですが、合格ラインが上がっていたらアウトですね。

以下にいくつか実問題をご紹介します。

実問題
正解は白文字で書いてありますので、マウスで反転させて下さい。ただしまだ正式な解答が発表されていないので、”たぶん正解”です。

問002 鬼ノ城は「日本書紀」などに記載のない謎の城であるが、どの分類に属するか。
1 神籠石系古代山城
2 朝鮮式山城
3 中国式山城
4 大和式山城
正解 → 1 神籠石系古代山城

問017 石垣山一夜城の正式な史跡名は次のうちどれか。
1 史跡石垣山一夜城
2 史跡石垣山
3 史跡石垣山城
4 史跡一夜城
正解 → 2 史跡石垣山

問023 関が原の戦い後、次の戦いに備えて慶長の築城ラッシュとなった。徳川系城郭の特徴は、その平面プランがほとんど共通していて、省エネ城郭と言える。篠山城と相似形の城とされるのはどれか。

1 水口城
2 淀城
3 伏見城
4 名古屋城
正解 → 1 水口城

問031 明治6年、徳川幕府のシンボル取り壊しのため「廃城令」が発布されたが、破却を免れた城はいくつあったか。

1 20
2 29
3 30
4 39
正解 → この問題は答えがわかりませんでした。とりあえず問題だけ載せておきます。

問072 福山城の記述について誤っているものはどれか。

1 元は城全体を囲う二重の堀があった
2 伏見城から櫓等を移築している
3 築城の際に幕府から金銭等の援助があった
4 北面に鉄板を張っていた
正解 → 1 元は城全体を囲う二重の堀があった
もしかしたら 「4 北面に鉄板を張っていた」 かも。「”天守の”北面に鉄板を張っていた」なら文句なしに正しいのですが…

問092 川越城の本丸御殿は建物のほとんどは失われ、現存するのは玄関、大広間、家老詰所などだが、かつてはどれぐらいの広さだったか。

1 約500坪
2 約700坪
3 約800坪
4 約1000坪
正解 → 約1000坪

赤木城と熊野市観光

運良くゴールデンウィークが10連休となったため、紀勢本線の乗りつぶしも兼ねて紀伊半島をぐるっと周ってきました。
その中のメインイベント、公共交通機関利用での赤木城登城+おまけの様子をご紹介します。

赤木城は築上の名手、藤堂高虎が豊臣秀長の家臣時代に築いた城で、規模こそ小さいですが、藤堂高虎築城術のルーツとして城ファンの関心を集める城です。
また、最寄りの鉄道駅から20キロ近く離れた山の中にあることから、全国の城の中でも到達するのが困難な城のひとつとしても有名です。
一応周囲にバス路線はあるのですが、一日数本レベルです。最寄りバス停は熊野市バスの田平子で、赤木城から徒歩15分ほどのところにあります。時刻表は以下のとおり。

平谷方面
13:30
19:00

紀南病院方面
07:31
14:16

平谷方面がこの当たりの中心駅である熊野市駅方面から来るバスになりますが、出発地が紀南病院で熊野市駅からは直通していません。また到着時間が13:30になるので次の逆方向のバスまでの時間が45分しかありません。よって田平子バス停のみで往復するのは難しいという結論に至ります。

こんなときに頼りになるのが某ルート検索サービス。毎月300円払って利用しているのですが、運良くこのあたりを走る熊野市バス、三重交通バスに対応していました。
そこで時間を細々と変更しながら検索し、なんとか実現できそうなルートを決定しました。ルート地図は以下になります。


より大きな地図で 赤木城と熊野市観光 を表示

この旅程をご紹介します。

・前日に熊野市に入りホテルで宿泊

(01) 08:28 熊野市駅前 発 [三重交通バス 南紀01-1 新宮駅行] に乗車
写真を撮り忘れましたが、熊野市駅前特産品館の前にあるバスのりばから出発です。

(02) 08:49 阿田和端地 着
国道42号線沿いにある阿田和端地バス停の目前には七里御浜と熊野灘が広がります。降りた場所で熊野市バス瀞流荘行に乗り換えます。

七里御浜と熊野灘
七里御浜と熊野灘

(03) 09:04 阿田和端地 発 [熊野市バス 瀞流荘紀南病院線 瀞流荘行] に乗車
海岸線を離れ山に入っていきます。コミュニティバス的な小さなバスに乗り換えます。

(04) 09:34 千枚田・通り峠入口 着
阿田和端地から30分ほどですが、だいぶ山奥に来ました。途中の道は側面がそそり立つ崖となっておりバスが通るのがやっとの部分もあり「なんかすごいところに迷い込んじまった」感がありワクワクします。

千枚田・通り峠入口バス停からの風景
千枚田・通り峠入口バス停からの風景

人がいる気配はありませんでしたが、バス停近くには小さな観光案内所のような建物があります。ここ以降赤木城まで、自動販売機はありませんでした。
写真右の橋をわたると右側に今回進む道が続いています。Google Mapではこの道は載っていませんが、某ルート検索サイトを信用して進みます。道はコンクリートで舗装されており歩きやすいです。

千枚田・通り峠入口の観光案内所?
千枚田・通り峠入口の観光案内所?

(05) 10:00ころ 熊野古道・通り峠ルート入り口
千枚田・通り峠入口バス停からコンクリートで舗装された道を20分ほど進むと、県道40号線に合流します。ここには小さな駐車場とトイレがあります。そして、目の前には急な坂道があり、ここが熊野古道・通り峠ルートの入り口になります。まさか某ルート検索サイトが熊野古道をルートとして提示してくるとは思わず、しばらくそこでスマホを見ながら確認をしていましたが、まちがいなくこの石畳の道を指していす。

(06) 熊野古道・通り峠ルート
今回の登城は舗装された道路のみで完結すると思っていたのですが、ここでまさかの巡礼道を歩くことになります。城同様に歴史の香りがするものは大好きなので、これは一石二鳥ということで喜んで進み始めました。杉の木立の間に苔むした石畳が続く非常に雰囲気の良い場所ではあるのですが、想像以上に勾配が激しく、存外歩きづらい。考えてみれば峠というくらいなので当然なのですが…昔の人はここを草履で歩いていたのですから本当に大したものです。

熊野古道・通り峠ルート その1
熊野古道・通り峠ルート その1
熊野古道・通り峠ルート その2
熊野古道・通り峠ルート その2
熊野古道・通り峠ルート その3
熊野古道・通り峠ルート その3
熊野古道・通り峠ルート その4
熊野古道・通り峠ルート その4

普段全く運動をしない私が休み休み20分ほど歩くと、通り峠に到着します。
通り峠は吉野方面へと向かう「北山道」の入り口にある峠で、かつてはここから海を望むことができたそうです。通り峠ルートは山林を直線的に抜ける約1キロメートルのルートで、写真のように石畳もよく残っており、峠には子安地蔵が祀られています。

通り峠の子安地蔵
通り峠の子安地蔵

通り峠からは脇道があり、170段の階段を登ると、丸山千枚田を眼下に一望できる展望台があります。
平地がほとんどないこの当たりでは、人々が一粒でも多く米を収穫したいとの思いで棚田を開墾しました。その中のひとつが丸山千枚田です。慶長6年(1601)にはすでにその数は2000枚を超えるほどになっており、昭和40年代半ばまではその規模が維持されていました。しかし、その後の稲作転換政策や過疎化・高齢化の進行で放棄される棚田が増え、平成初期には530枚までに減っていました。近年になり丸山地区の人々が荒廃していく丸山千枚田を憂い保存会を結成。徐々に棚田を復活させ現在は1340枚になっています。
藤堂高虎が赤木城を築いた天正期、文禄期にはすでに多くの棚田があったと思うと、感慨深いものがあります。

眼下に広がる丸山千枚田
眼下に広がる丸山千枚田

約1キロメートルの熊野古道・通り峠ルートを約1時間かけて抜けました。某ルート検索サービスはたぶん高低差や道の整備状況などは考慮していないのでしょう。千枚田・通り峠入口バス停から赤木城まで徒歩1時間10分ほどで到着となっていましたが、まだ半分しか来ていません。途中で休んだ時間を差し引いても、ちょっとこの時間での到着は無理な気がします。それとも私の体力が低すぎるのか…平地で舗装された道であればこれくらいの時間でいける気はします。

(07) 11:30ころ 赤木城の案内版を発見
熊野古道・通り峠ルートからは舗装された比較的平坦な道路をひたすら歩きます。途中何台かの車を見かけましたが歩行者は私のみでした。30分ほど歩くと道路の分岐点に赤木城の文字を発見!だいぶ近づいてきました。

赤木城案内板
赤木城案内板

(08) 11:40ころ 田平子処刑場跡・田平子峠
分岐点から先程まで歩いてきた道路より細めの道路を10分ほど進むと、赤木城とともに国指定史跡となっている田平子処刑場跡があります。
もともと藤堂高虎がこの地に入った理由のひとつが一揆の鎮圧だったわけですが、その鎮圧の現場のひとつがこの田平子処刑場跡になります。天正と慶長に起こった北山一揆で処刑された村人の数は513名に上ると言われ、道路建設の際にはたくさんの人骨が発見されたそうです。高虎は赤木城が完成すると村人に祝儀に来るように命じ、祝儀に来た村人を捕らえ、ここで打首にしてその首を晒したと言われています。「行たら戻らぬ赤木の城へ 身捨てどころは田平子じゃ」という里歌が今に伝わっています。

田平子処刑場跡
田平子処刑場跡

田平子処刑場の少し先が田平子峠になります。写真の左側に田平子バス停があり、写真右の道路を下ると赤木城にたどり着きます。熊野古道・通り峠ルートを抜けた跡は比較的平坦な道路が続いていましたが、ここから赤木城までの道路はそこそこの勾配が続きます。

田平子峠
田平子峠
田平子バス停
田平子バス停

(09) 12:00ころ 赤木城到着!
千枚田・通り峠入口バス停から2時間半ほど歩いてようやく赤木城に到着しました。

赤木城
赤木城

赤木城には土産店や管理事務所等はなく、あるのは自動販売機ひとつです。そこで久しぶりに見たmiuを一杯。あれ?昔はAQUARIUSみたいな味だったんだけど、ただのミネラルウォーターになってる…
城を見学していると初老の夫婦から「おお、早いね。もう着いたんだね」と声を掛けられました。どうやら追い越された車から目撃されていた模様。まああんなところを一人で黙々と歩いていれば目立つのも納得です。
城をゆっくり見学し、西郭でのどかな風景を眺めながらのんびりと遅めの昼食(おにぎり2つ)を食べました。天気が良くて本当に良かった。
ちなみに私がいた約2時間の間に6人ほどが城を訪れましたが、どの人もすぐ帰ってしまい、1時間半くらいは貸切状態でした。
赤木城の登城記は“こちら”をご覧ください。

・13:50ころ 赤木城出発
帰りは14:16 田平子発のバスに乗るので、登り坂ということもあり余裕を持って出発しました。

(10) 14:16 田平子 発 [熊野市バス 瀞流荘紀南病院線 紀南病院行] に乗車
再び熊野市バスに乗ります。乗客は私一人でした。
運転手さんによると赤木城で使用されている石材は、近くの北山川から調達してきたらしいです。なるほど、確かに赤木城まで歩く間に北山川の支流と思われる小さな川がいくつもありましたが、どこも大きめの石が露出しており、石材の調達には困らなそうです。

(11) 14:23 小栗須 着
最後のバス乗り換え地です。乗り換えバスまでは30分ほどあるので城郭検定公式問題集を読んで時間をつぶしました。

小栗須バス停から田平子峠方面を望む
小栗須バス停から田平子峠方面を望む

・14:52 小栗須 発 [熊野市バス 熊野古道瀞流荘線 木本高校行] に乗車
ここで乗ったバスは普通の路線バスと同じ大きさのバスでしたが、例のごとく最後まで乗客は私一人でした。
このバスに乗れば40分ほどで熊野市駅前に到着しますが、まだホテルに戻るには時間が早いので熊野市の名所に寄り道をすることにしました。熊野市駅前から2つ手前のバス停、(12) 松原で下車し「獅子岩」まで歩きます。

(13) 15:35ころ 獅子岩
松原バス停から少し歩くと海岸沿いに続く国道42号線に突き当たります。朝にバスで通った道路です。
そこから右を見ると、海岸に小さな岩山が見えます。これが獅子岩です。しかし獅子を見るためには反対側まで行く必要があります。反対側に行くと想像以上の獅子振りに少し感動しました。だいたいこういう”岩系”のものは、そう見えなくもないという感じがなのですが、確かにこれは獅子です。奥の大きな岩が阿行、手前の小さい丸い岩が吽形と呼ばれています。これらは熊野市の山奥にある大馬神社の狛犬とされており、大馬神社には狛犬がないそうです。ですが、この奇跡の造形は少し角度を変えると消えてしまい元の小さな岩山に戻ってしまいます。
近くの海岸には5月ということで、たくさんの鯉のぼりが泳いでいました。

獅子岩
獅子岩
違う角度から見た獅子岩
違う角度から見た獅子岩
海岸の鯉のぼり
海岸の鯉のぼり

(14) 15:55ころ 花の窟神社
獅子岩から400メートルほど歩くと日本最古の神社ともされる花の窟神社があります。
祭神は皇祖神である天照大神の母神である伊奘冉尊(いざなみのみこと)、その子神の火の神・軻遇突智(かぐつち)神です。伊奘冉尊は、日本神話で国生みをしたあのイザナミです。伊奘冉尊は軻遇突智神を産んだ時に火傷を負って亡くなり、この地に葬られたとされています。
御神体は境内にある巨大な岩山そのもので、そのため本殿は建てられていません。御神体ということで写真撮影は控えましたが、巨大な岩山の中央に割れ目があり、そこが岩で塞がれているように見え、確かにお墓のような印象を受けます。この岩山の中になにかあるのか、あるいはなにもないのかはわかりませんが、神話と現実の交錯点といった感じで不思議な気分になりました。

花の窟神社
花の窟神社

16:40ころ 熊野市駅
少し寄り道をしましたが、出発点に帰って来ました。おおよそ8時間の道のりでしたがローカルバスあり、巡礼道あり、秘境(?)の名城あり、日本最古の神社ありの充実した1日でした。赤木城まで公共交通機関でたどり着いたということで、どんな城でも行けると少し気が大きくなっている今日このごろです。

小田原城の桜 2013

今年は例年よりだいぶ早い桜の開花となりました。早速、朝の小田原城に行って来ました。
朝7時ごろに到着しましたが、写真を取りに来ている方が沢山いました。日本人は本当に桜が好きですね。かく言う私も大好きですが。

3日前に様子を見に来た際は、ほとんど花は開いていなかったのですが、わずか二日間でほぼ満開になり、綺麗な桜を見ることができました。
近世小田原城は東向きに建てられており、順光となる午前中が写真撮影に適しています。おもな桜の見所としては二の丸堀周辺、本丸、かつて屏風岩と呼ばれ現在は遊園地となっている天守の裏側になるでしょうか。

しかし、こうやって写真を撮っていると、城と桜って最高の組み合わせだなぁと改めて実感しました。

二の丸堀周辺の桜1
二の丸堀周辺の桜1
二の丸堀周辺の桜2
二の丸堀周辺の桜2
二の丸堀周辺の桜3
二の丸堀周辺の桜3
二の丸堀周辺の桜4
二の丸堀周辺の桜4
本丸の桜1
本丸の桜1
本丸の桜2
本丸の桜2
本丸の桜3
本丸の桜3
屏風岩の桜1
屏風岩の桜1
屏風岩の桜2
屏風岩の桜2
屏風岩の桜3
屏風岩の桜3

小田原城の桜(様子見編)

先週、東京の靖国神社で桜が開花したとのニュースがありました。東京が咲いたなら小田原は?ということで、休日なのに早起きして、小田原城の桜の様子を見て来ました。

二の丸堀、馬出門、銅門、常盤木門、天守裏を回りましたが、木によっては五分咲きくらいのものもありましたが、ごく少数です。全体的には一分から二分咲き程度でした。これからの気温にもよるでしょうが、見頃まではもう少しでしょう。また土曜日に見に来ます。

小田原城の桜(様子見編)1
小田原城の桜(様子見編)1

 

小田原城の桜(様子見編)2
小田原城の桜(様子見編)2

小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会(2013年2月16日)

現在、小田原城の御用米曲輪では史跡整備のための発掘調査が行われています。2012年8月の発掘説明会から2013年2月までの発掘成果の現地説明会が2月16(土)に行われたので行って来ました。

御用米曲輪については前回8月の発掘説明会の投稿を御覧ください。
小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会

昨年8月以降、北条氏時代の庭や建物礎石が発見されました。
これらの発見により北条氏時代の御用米曲輪が、これまで考えられていた以上に重要な曲輪であり、城主の居館に相当する建物があった可能性がさらに高まって来ました。

ここでは、今回発見された戦国期の遺構をご紹介します。

・礎石建物跡(地図#1)
この礎石建物は、桁行11メートル、梁間5.5メートルで小田原城周辺で初めて見つかった戦国期の礎石建物です。当時礎石を設けて建てられるのは大規模な瓦葺きの建物や、寺院建築が中心でした。これは礎石を設けたこの建物が重要な建物であったことを物語ります。建物の規模、後でご紹介する庭との位置関係から、御用米曲輪にあったであろうなんらかの大規模建築物(御殿か?)の付属的な建物ではないかとのことです。
礎石建物の下には、礎石建物と直交した玉石道路と石組水路がありました。道路の幅は役1.8メートルで、拳大の石を敷き詰め、その隙間を「目潰し石(砂利)」で埋めています。この丁寧な造りから重要な道路であったと思われます。石組水路は礎石建物の下に入り込んでおり、礎石建物よりも古い遺構であるようです。

礎石建物
礎石建物
玉石敷道路と石組水路
玉石敷道路と石組水路

・庭状遺構
今回の調査では庭状の遺構が3箇所で発見されました。現状ではこれらの庭のつながりが不明瞭なため、今後の発掘調査で解明していくそうです。

三箇所の庭状遺構で最も北に位置するここ(地図#2)では石組水路と石垣付方形竪穴が発見されました。
南側の堀と溝で繋がる石組水路の北側・西側には砂利が濃密に敷き詰められています。そして石組水路に面して、明日香村の酒船石を思わせる凝灰岩の切石が置かれています。
この切石には水路に対して溝があることから、雨水などの処理に用いられたのではないかと考えられています。ただ、全国的にも類例がない遺構のため、同様の遺構をご存知の方はお知らせくださいとのことでした。
また石組水路の北側には、石垣を持つ方形竪穴状遺構が発見されました。壁面の石垣は、10~13段で役1.6メートルの深さがあります。石と石の間は土で固められており、一般的な石垣のような裏込め石がないことが特徴です。小田原城周辺で見つかった戦国時代の石垣はこれで3箇所目となりますが、北条氏の石積み技術を考える上でも貴重な遺構です。

庭状遺構:酒船石(?)と石組水路
庭状遺構:酒船石(?)と石組水路
庭状遺構:石垣付方形竪穴
庭状遺構:石垣付方形竪穴

三箇所の庭状遺構で中間に位置するここ(地図#3)では北の石組水路から続くとおもわれる石組水路が発見されました。この当たりではこの石組水路より南側(本丸側)に、戦国時代には一段高い部分があることがわかりました。どうやらこの石組水路は斜面の裾を巡るように造られていたようです。同例として、福井県の一乗谷朝倉氏関連遺跡の「湯殿跡庭園」が挙げられます。この庭園は斜面を借景としており、ここでは立石などが失われていますが、「湯殿跡庭園」同様に手のこんだ庭であったと考えられます。では、立石などはどこにいったか?というと、豊臣秀吉による小田原攻めで小田原城は無血開城となったため、立派な物品は豊臣方に「分捕り」されたのではないかとのことでした。
石組水路にはさまざまな石が使われています。黒い石は、箱根火山に起因する凝灰岩で「風祭石」と呼ばれています。白い石礫も箱根火山に起因する安山岩です。そして、黄色い石は「鎌倉石」とも呼ばれる三浦半島周辺の砂岩です。ここは庭の裏手に位置するため、色合いの異なる石を使い意識してモザイク模様のようにしているか、あるいは適当に石を配置したのかは不明です。当時独特の美的感覚があったのかもしれません。

庭状遺構:石組水路と玉石敷
庭状遺構:石組水路と玉石敷
庭状遺構:石組水路
庭状遺構:石組水路
庭状遺構:石組水路拡大
庭状遺構:石組水路拡大

三箇所の庭状遺構で最も南に位置するここ(地図#4)では、池、切石積、護岸遺構が発見されました。池は上段、下段からなり、昨年度の調査で見つかった障子堀を半分まで埋め立て、そこに砂利を敷いて導水路としています。背後には、風祭石の切石が2・3段に積み上げられ、背後斜面の土留の役割を果たすとともに、庭の借景となっています。そして切石の前には景色を造るように庭石が配置されています。障子堀からの水は更に下段の池に落ち、下段の池も上段の池と同様に砂利が敷かれ、庭石を配置して景色を造っています。
下段の池は更に法面を守るため、四角い石が貼られ護岸しています。その石は五輪塔の火輪や宝篋印塔の笠を裏返しにして用いています。その数は70個を超え、底面の砂利の下にも続いています。このような構造の護岸遺構は、全国的にも例のないものです。明らかに意図してこのような石材を使用しており、北条氏独特の文化のようなものがあったのかもしれません。

庭状遺構:切石積
庭状遺構:切石積
庭状遺構:護岸遺構
庭状遺構:護岸遺構
庭状遺構:切石積と護岸遺構
庭状遺構:切石積と護岸遺構

だいぶ適当ですが、地図上にこれらの場所をプロットしました。

より大きな地図で 小田原城御用米曲輪発掘調査説明会(2013/2/16) を表示

今回の発掘調査による成果で、戦国期のものをまとめると以下となります。
・戦国時代の礎石建物が確認できた。
・戦国時代の曲輪の形が確認できたとともに、曲輪南辺に沿って大規模な庭が造営されていたことがわかった。

ここからは私見となります。
これまで御用米曲輪で発見された戦国期の遺構を見て、ふと思ったのが江戸城の西の丸の事です。もしかしたら北条氏時代末期、平時は現在の本丸に当主氏直(八幡山古郭は詰の城として使用?)、御用米曲輪に隠居氏政が居住していたのではないかと…御用米曲輪が小田原城の重要な曲輪であったことは間違いないでしょう。しかし、目の前に一段高い本丸があるのだから、そこを差し置いて本丸機能を有していたとはちょっと考えにくい。となると、本丸をしっかりと発掘調査すれば、さぞや戦国期の貴重な遺構が出てくるのではないかと思います。
市の職員の方も本丸をしっかりと掘ってみたいと仰っていましたが、史跡発掘の原則として、史跡の保護を最優先することが国で定められています。戦国期の遺構を探そうとして、先に江戸時代の遺構が見つかるとその先を掘ることは難しくなるそうです。個人的には戦国時代の小田原城の姿が明らかになることを望みますが、江戸時代の遺構も大事なものです。史跡発掘は難しいですね。
今後も御用米曲輪での発掘調査は続きますが、次は庭状遺構のそばから戦国期の御殿礎石を発見!というのを期待したいです。

上田市塔めぐり その2

安楽寺に引き続き今度は前山寺に向かいます。

前山寺は上田鉄道別所線、塩田町の駅から南にひたすら歩くこと約30分、距離にして約2.5キロメートルの位置にあります。多少の山登りもあるため結構疲れます。まあ歩いて行く人もあまりいないのでしょうが…

・前山寺三重塔
前山寺三重塔は室町時代初期に建てられました。高さ約20メートルで、屋根はこけら葺となっています。最大の特徴は2重目、3重目に扉も窓もなく、周りに廻縁がないことです。それもそのはず、実はこの三重塔は未完成と言われています。
しかし、未完成とは言いながら全体としてみると、不自然さは感じられず、安定と調和を保っています。
日本では昔から建物は完成した瞬間から老朽化が始まるとされており、あえて未完成とすることでいつまでも残ることを願ったのかもしれません。確か日光東照宮の陽明門も、柱を一本だけ逆に設置して未完成状態にしてあったような…

前山寺三重塔1
前山寺三重塔1
前山寺三重塔2
前山寺三重塔2
前山寺三重塔3
前山寺三重塔3
前山寺本堂
前山寺本堂

上田市塔めぐり その1

上田城登城(登城記はこちら)のため、色々と調べ物をしていると、実は長野県上田市は塔の宝庫だということがわかりました。上田市内には以下の塔があります。

・安楽寺八角三重塔(国宝)
・前山寺三重塔(重要文化財)
・信濃国分寺三重塔(重要文化財)

時間の都合上すべては回れませんでしたが、安楽寺八角三重塔と前山寺三重塔に行ってみました。

・安楽寺八角三重塔
安楽寺は上田電鉄別所線の終点、別所温泉駅から歩いて15分ほどのところにあります。
別所温泉は信州最古の温泉地で、鎌倉時代に北条氏が別院として使用していたため、その保護により大いに栄えました。
そのため、現在でも鎌倉時代の建物や石塔が数多く残り、「信州の鎌倉」と呼ばれています。

安楽寺に残る八角三重塔は、建立年代は明らかではありませんが、鎌倉時代末期というのが定説になっています。北条氏の供養塔として建てられたものと伝えられています。高さは約19メートルですが、半分近くが「相輪」と呼ばれる頂上の飾りであり、かなり小ぶりな印象を受けます。四重の塔に見えますが、初重の屋根はひさしに相当する「裳階(もこし)」です。最大の特徴は平面が八角形であることです。八角塔は記録では京都や、奈良にあったことがわかっていますが、現存するのはこの塔のみで、極めて貴重なもので堂々の国宝に指定されています。長野県の山奥(失礼!)ににこのような立派な建物が残っていることに驚きました。
重要文化財は意外とたくさんあるのですが、国宝はその中でも特に貴重なもののみに与えられる称号で、国宝を見ることができ大満足でした。

安楽寺八角三重塔1
安楽寺八角三重塔1
安楽寺八角三重塔組物
安楽寺八角三重塔組物
安楽寺八角三重塔2
安楽寺八角三重塔2
安楽寺八角三重塔と紅葉
安楽寺八角三重塔と紅葉

城めぐりやその他のちょっとした事を適当に…