小田原城御用米曲輪発掘調査現地説明会(2014年11月8日)

現在、小田原城の御用米曲輪では史跡整備のための発掘調査が行われています。約8ヶ月ぶりの現地説明会が11月8日(土)に行われました。

今回は前回までの発掘説明会での目玉であった切石護岸の池(2号池)の大半が埋め戻されていましたが、それによりこれまで発掘の出来なかった部分が発掘可能となり、池の北側護岸が確認されています。切石敷庭園でも新たな発見がありました。

これまでの説明会については以下をご覧ください。

第1回(2012年2月4日)
第2回(2012年8月18日)
第3回(2013年2月16日)
第4回(2013年10月19日)
第5回(2013年11月23日)
第6回(2013年12月21日)
第7回(2014年3月8日)

  • 切石護岸の池周辺
    これまで切石護岸の池と呼ばれていた池は、周囲を切石で護岸した下段の池(2号池)、下段の池と水路で接続し、水を流していた池を上段の池(1号池)と呼ぶようになりました。
    2号池は遺跡保護のため大半が埋め戻されていますが、新たに北側に10メートルほど護岸を確認することが出来ました。これによりおおよそ池の3/4の範囲が確認出たと考えられています。
    1号池はこれまでの調査で確認されていましたが、今回その下層に切石敷きの池が存在していたことがわかりました。池は楕円形の小さなもので根府川石や箱根安山岩を立てて護岸としています。この1号池には西側の石組み遺構から水を引いており、1号池から水路を経て西側の2号池に滝のように水を流していたと思われます。これらは戦国時代のものとは思えないとても凝った造りです。
    2号池北側護岸
    2号池北側護岸
    2号池と1号池
    2号池と1号池
    1号池と石組み遺構
    1号池と石組み遺構

     

  • 切石敷庭園
    御用米曲輪南側のほぼ中央で確認された切石敷きの庭園は、全国的にも類例のない極めて珍しい形状で、歴史ファンの間で大きな話題になりました。切石敷きは鎌倉石と風祭石、安山岩によって造られその規模は最大で東西6メートル、南北9メートルを測るものと考えられています。
    切石敷庭園の中央で出土した板状巨石は本来は立っていたことがわかりました。この巨石には仏像と梵字が刻まれていたようですが、これらは丁寧にノミで削り取られています。誰が何のために削ったのかは謎で、北条氏独特の思想があったのかもしれません。
    切石敷庭園
    切石敷庭園
    仏像の削られた巨石
    仏像の削られた巨石
    巨石に刻まれた梵字の様子
    巨石に刻まれた梵字の様子

     

  • 建物群
    これまでの調査で御用米曲輪の南西部では濃密に建物群が広がっている様子が確認されています。これまでに礎石建物跡が8棟、掘立柱建物跡が7棟を数え、戦国時代の終わりごろの建物跡と考えられています。
    建物群の中心であると思われる最も大きな建物には小さな礎石建物が付随しています。今回の調査で、切石・板石敷きの排水施設が確認され、傍らに切石敷井戸があることからこの建物は湯屋(蒸し風呂)の可能性が高いそうです。蔵と思われる建物も見つかりました。氏政に家督を譲った氏康は「御本城様」と呼ばれ、「大蔵」の管理を行っていたとの記録があります。大蔵とは税収の管理であり、氏康の隠居館には「大蔵」が伴っていたと考えられています。もし御用米曲輪が大蔵を伴う「御本城」であったとすると、全体的には庭園などを伴う居館的な様相を持ちながら、蔵も備えるという発掘結果と合致します。
    南側から見た発掘現場全景
    南から見た発掘現場全景

    いつかの記事で私見として書きましたが、北条氏時代、現在の本丸に当主、本丸の真下に位置する御用米曲輪に前当主が居住し、八幡山は詰城的な位置づけで普段の生活には使用していなかったのでは、といったことを再び想像する今日このごろです。

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