小田原城 堀の水抜き

テレビ東京で放送されている「池の水ぜんぶ抜く」のターゲットに小田原城のお堀が選ばれたそうです。水抜きをしての清掃と特定外来生物の駆除が主な目的で、おまけとして池の底から新発見があるかも…といった番組です。
私はこの番組を見たことはないのですが、なかなか面白いようで噂は聞いていましたが、まさか小田原城がターゲットになるとは思いませんでした。ちなみに小田原城の堀の水が抜かれるのは38年ぶりとのことです。
早速、水が抜かれた小田原城のお堀の様子を撮影してきました。

3月17日(土)にはすでに水抜きが始まっており、水位が50センチほど下がっていました。水面下の石垣は日焼けや汚れがなく綺麗な状態でした。このような様子は昔と比べて堀の水位が大幅に下がった大坂城でも見ることが出来ます。小田原城の堀の水はお世辞にも綺麗とは言えず、鯉やらアヒルやらが住んでいます。深さもそれほどではないですが、水抜きをしてはじめてその深さを実感することができました。

二の丸東側の堀(3月17日)
二の丸東側の堀(3月17日)
馬出門と隅櫓周辺(3月17日)
馬出門と隅櫓周辺(3月17日)

水位が下がったため石垣が少し高くなったように見え、ちょっと嬉しいです。
ちなみに、関東大震災前の小田原城の石垣は全体的に今よりかなり高かったのですが、震災後の復興時に低く積み直してしまいました。

学橋(3月17日)
学橋(3月17日)
馬屋曲輪東側の堀(3月17日)
馬屋曲輪東側の堀(3月17日)
馬屋曲輪南側の堀(3月17日)
馬屋曲輪南側の堀(3月17日)

今回の水抜きで堀底から何が出てくるのか楽しみでしたが、銅門が復元される前にかけられていた端の橋脚跡が現れました。この橋は現在の馬出門正面から銅門の場所に掛けられていたもので、工事用の仮設の橋だったと記憶しています。

銅門付近の橋脚跡(3月17日)
銅門付近の橋脚跡(3月17日)

翌3月18日にも水位がどのくらい変わっているかを確認しましたが、ほとんど水位は変わっていないようでした。
この日は隅櫓脇から馬出門の場所にかけられていた橋の橋脚跡を見ることが出来ました。この橋は確か「隅櫓橋」で、学び橋と同じ造りの赤い橋で、学橋と同様に近代になってかけられた橋でしたが、馬出門復元にあたり取り壊されたものです。

二の丸東側の堀(3月18日)
二の丸東側の堀(3月18日)
隅櫓脇の橋脚跡(3月18日)
隅櫓脇の橋脚跡(3月18日)

そして番組収録当日の3月21日(水)、本降りの雨に加え、3月とは思えない寒さの中、お堀の様子を見に行くと…
大混雑でした。

お堀端通り(3月21日)
お堀端通り(3月21日)

もともと番組の収録にはあまり興味がなく、混雑と寒さも想像以上だったため、水位の確認をして帰宅することにしました。

隅櫓周辺(3月21日)
隅櫓周辺(3月21日)

水位は3月17日に比べて若干下がったといったところでしょうか。堀の水を抜くということで、完全に干上がらせるのかと思っていたのですが、そうではないようです。

38年ぶりのお堀の水抜きということで、小田原城の珍しい姿を見ることができました。かつての小田原城のなごりである二つの橋脚跡を見ることができたのがなによりでした。
番組の放送は4月22日(日)ということなので、今から楽しみです。

小田原 歴史的町名碑めぐり その五

小田原 歴史的町名碑めぐり その四の続きです。

これまでの小田原 歴史的町名碑めぐりは以下をご覧ください。
小田原 歴史的町名碑めぐり その一
小田原 歴史的町名碑めぐり その二
小田原 歴史的町名碑めぐり その三
小田原 歴史的町名碑めぐり その四

063-01 弁財天(べざいてん)2018/03/18撮影
063-02 弁財天(べざいてん)2018/03/18撮影
「江戸時代初期、この地を「弁財天曲輪」と呼んでいた。しかし、元禄十年(一六九七)に蓮池の南側にあった「評定曲輪」を「弁財天曲輪」と名称を変えたため、ここを単に「弁財天」と呼ぶようになった。幕末にはこの地に六・七軒ほどの中堅藩士屋敷があった。」

063-01-01_弁財天
063-01-01_弁財天
063-01-02_弁財天
063-01-02_弁財天
063-02-01_弁財天
063-02-01_弁財天
063-02-02_弁財天
063-02-02_弁財天

064 元蔵(もとぐら)2018/03/18撮影
「小田原城主が稲葉氏であった江戸時代前期、小田原城外の北方に新しく米蔵が建設され、これを「新蔵」と呼んだ。そのため以前から三の丸の弁財天曲輪にあった米蔵は「元蔵」と読んで区別したらしい。元蔵は江戸時代後期廃止され、五軒ほどの藩士屋敷に分割された。やがてその地名も「弁財天」に含まれるようになった。」

064-01-01_元蔵
064-01-01_元蔵
064-01-02_元蔵
064-01-02_元蔵

065 天守裏(てんしゅうら)2018/03/18撮影
「この地は、もと小田原城の天守台の裏手に直接続いていたのでこの地名がある。現代に入り東海道線の開削工事によって東西に分断された。ここは「八幡山古郭群」と呼ばれる小田原城創始期の城跡の残る地域に続き、小田原城の核心部として重要な地域であったことが知られる。」

065-01-01_天守裏
065-01-01_天守裏
065-01-02_天守裏
065-01-02_天守裏

066 小峰畑(こみねばた)2018/03/18撮影
「この盆地状の土地は、古くは城の要害として利用されたと考えられ、江戸時代には、この地の土砂を小田原城の低地部の改修用に運び出したという伝承もある。また、相模湾岸などの警備が重視される幕末のころ、ここには「小峰畑調練場」となり、小田原藩兵の軍事訓練が行われた。」
現在ここには小田原競輪場がありますが、競輪場の地形は盆地状になっています。幕末の小田原城絵図「文久図」を見るとやはりこの競輪場の場所が調練場だったようです。

066-01-01_小峰畑
066-01-01_小峰畑
066-01-02_小峰畑
066-01-02_小峰畑
066-01-03_小峰畑
066-01-03_小峰畑

067 小峰(こみね)2018/03/18撮影
「小峰と呼ばれていた地域はかなり広く、また時代によってその範囲が著しく伸縮したが、武家屋敷としての小峰はこのあたりを指し、江戸時代中期ごろには藩の重臣屋敷が並んでいた。」

067-01-01_小峰
067-01-01_小峰
067-01-02_小峰
067-01-02_小峰

068 天神山(てんじんやま)2018/03/18撮影
「地名の由来は、この地の南側中腹に天神社が祀られていたので、この名があると考えられる。この社には室町時代の天神画像が伝えられており、この地名の古いことがわかる。なお、天神山には社の背後に小田原北条氏時代の三の丸の空堀が東西に伸びていた。」

068-01-01_天神山
068-01-01_天神山
068-01-02_天神山
068-01-02_天神山
068-01-03_天神山
068-01-03_天神山

069-01 新道(しんみち)2018/03/18撮影
069-02 新道(しんみち)2018/03/18撮影
「この道は、小田原城三の丸堀沿いの道で、文化十四年(一八一七)小田原の大火のとき逃げ道がなくて多数の焼死者が出たことから新たに造られたので新道といった。西の出口は箱根口へ、東は宮前町高札場(こうさつば・幕府の法令などを掲示する場所)の北側に通じている。」

069-01-01_新道
069-01-01_新道
069-01-02_新道
069-01-02_新道
069-02-01_新道
069-02-01_新道
069-02-02_新道
069-02-02_新道

070 隅屋敷(すみやしき)2018/03/18撮影
「小田原城の二の丸と三の丸の堀に挟まれた場所は、江戸時代には藩の重臣たちの、長方形の区画の屋敷が並んでいた。しかし、南西角のこの地だけは、三の丸の堀が曲折するため方形にならず三角形の土地になり、屋敷地としては軽視された。そのため稲葉氏が城主の頃には細分して足軽の住む割屋敷とした。大久保氏時代の文政年間(一八一八~二九年)には五軒ほどの藩士の住まいがあった。」

070-01-01_隅屋敷
070-01-01_隅屋敷
070-01-02_隅屋敷
070-01-02_隅屋敷

071 御用所(ごようしょ)2018/03/18撮影
「地名の由来は、この地に藩の御用所があったのでこの名がついた。御用所とは、藩士の執務所で、始め(元禄の頃)箱根口門の東隣にあったが、その後(文政の頃)この地に移された。幕末には母屋(おもや)を囲んで敷地内に六棟の建物があった。」
現在ここはお堀端通りとなっており、小田原観光のメインストリートとなっています。石碑の目の前には小田原公共職業安定所があります。この建物もなかなか古い建物で、昭和レトロの趣があります。

071-01-01_御用所
071-01-01_御用所
071-01-02_御用所
071-01-02_御用所
071-01-03_御用所
071-01-03_御用所

072-01 大手前(おおてまえ)2018/03/18撮影
072-02 大手前(おおてまえ)2018/03/18撮影
「町名の由来は、ここが小田原城大手門に通じていたためといわれ、当時は重臣屋敷が並んでいた。大手前から東に走る道路は、甲州道と交差し、そこには柵門(大手先黒門)があり、その先は唐人町に通じていた。」
現在ここには箱根駅伝で有名な国道1号線、小田原のクランクがあり、突き当りには小田原市民会館が建っています。

072-01-01_大手前
072-01-01_大手前
072-01-02_大手前
072-01-02_大手前
072-02-01_大手前
072-02-01_大手前
072-02-02_大手前
072-02-02_大手前
072-02-03_大手前
072-02-03_大手前

073-01 一丁田町(いっちょうだちょう)2018/03/18撮影
073-02 一丁田町(いっちょうだちょう)2018/03/18撮影
「この町は、商人町の色が濃く、郷宿(ごうやど・公用で藩役所などへ出向く村人が泊まる宿屋)も数軒あった。町内の東北部に誓願町という小町があるが、この名は、誓願寺の門前にあったためといわれている。」

073-01-01_一丁田町
073-01-01_一丁田町
073-01-02_一丁田町
073-01-02_一丁田町
073-02-01_一丁田町
073-02-01_一丁田町
073-02-02_一丁田町
073-02-02_一丁田町

074 林学小路(りんがくこうじ)2018/03/18撮影
「林学小路は、小田原城三の丸堀端から一丁田町と台宿町の境とを東西に結ぶ小路をいう。この地名は、小田原北条氏時代からの住人であった渡辺利右衛門の号「林学」にちなんだものといわれている。」

074-01-01_林学小路
074-01-01_林学小路
074-01-02_林学小路
074-01-02_林学小路

075 林学横町(りんがくよこちょう)2018/03/18撮影
「この地名は、小田原北条氏時代からの住人であった渡辺利右衛門の号「林学」にちなんだものといわれている。林学横町は、大工町から林学小路まで南北に走る横町をいう。」

075-01-01_林学横町
075-01-01_林学横町
075-01-02_林学横町
075-01-02_林学横町

076-01 林学(りんがく)2018/03/18撮影
076-02 林学(りんがく)2018/03/18撮影
「この地名は、小田原北条氏時代からの住人であった渡辺利右衛門の号「林学」にちなんだものといわれている。なお、この地は「林角」や「林岳」とも表記された。」

076-01-01_林学
076-01-01_林学
076-01-02_林学
076-01-02_林学
076-02-01_林学
076-02-01_林学
076-02-02_林学
076-02-02_林学

小田原 歴史的町名碑めぐり その四

小田原 歴史的町名碑めぐり その三の続きです。

これまでの小田原 歴史的町名碑めぐりは以下をご覧ください。
小田原 歴史的町名碑めぐり その一
小田原 歴史的町名碑めぐり その二
小田原 歴史的町名碑めぐり その三

048 御厩小路(おうまやこうじ)2017/12/02撮影
「御厩小路は、西海子小路がこの小路に交差する地点の西側に位置し、地名の由来は小田原藩の馬屋があったことによる。小田原城主稲葉正則がここに馬を見に来たという記録も残されている。この小路は、熱海街道の起点でもあった。」

048-01-01_御厩小路
048-01-01_御厩小路
048-01-02_御厩小路
048-01-02_御厩小路

049 御花畑(おはなばた)2017/12/02撮影
「この地には、もと小田原北条氏の家臣松田氏の屋敷があった。江戸時代、藩主稲葉氏は寛永十一年(一六三四)、京都に上る将軍徳川家光を御花畑の客室に迎えて宴を催したり参勤交代で通る大名の迎賓館として、また弓・水泳など自信の鍛錬の場として使った。その後、大久保氏の時代には武家屋敷となり、その末期には長屋や藩の御作事小屋も建てられた。」

049-01-01_御花畑
049-01-01_御花畑
049-01-02_御花畑
049-01-02_御花畑

050 天神小路(てんじんこうじ)2017/12/02撮影
「この地は、「貞享三年御引渡記録」(一六八六)に初めて御花畑小路の名で表れ、その後、天神小路と呼ばれた。地名は、東海道を隔てて北方にある天神社に由来する。道の両側は武家地で中級の藩士が住んでいた。なお、御花畑小路の名は、西海子小路から御花畑入口までの短い区間の呼び名として残った。」

050-01-01_天神小路
050-01-01_天神小路
050-01-02_天神小路
050-01-02_天神小路

051 諸白小路(もろはくこうじ)2017/12/02撮影
「この地名は、小田原城主稲葉正則の時代、この地に上方(かみがた)の杜氏(とうじ・酒造の職)を招いて諸白酒(もろはくしゅ・よく精白した蒸米と麹米で醸造した酒)を造らせたことから生まれたといわれている。道の両側は武家地で、中級の藩士が住んでいた。」

051-01-01_諸白小路
051-01-01_諸白小路
051-01-02_諸白小路
051-01-02_諸白小路

052 狩野殿小路(かのどのこうじ)2017/12/02撮影
「地名の由来については、この小路に絵師の「狩野古法眼」が住んでいたとも、また小田原北条氏の家臣、狩野氏宅があったとも、伝承されてきた。江戸時代、この一帯は、中級の藩士が住んでいた。なお、この地は、狩野小路(かのうこうじ)とも呼ばれ、金殿小路(かなどのこうじ)とも書かれた。」

052-01-01_狩野殿小路
052-01-01_狩野殿小路
052-01-02_狩野殿小路
052-01-02_狩野殿小路

053 西海子小路(さいかちこうじ)2017/12/02撮影
「さいかちの木が立っていたことからこの名が由来するという説がある。江戸時代末期に中級の家臣十八軒の武家屋敷が道の両側に並んでいた。」
このあたりは現在の小田原市南町の一帯で、小田原文学館などもある高級住宅街です。西海子小路の通りは、道の両側に桜の木がたくさん植えられており、春になると桜のトンネルができ、小田原でも有数の桜の名所となっています。

053-01-01_西海子小路
053-01-01_西海子小路
053-01-02_西海子小路
053-01-02_西海子小路

054 水主長屋(かこながや)2017/12/02撮影
「江戸時代、稲葉氏が藩主であったころ、この地に御船小屋と並んで水主長屋(加子長屋)があった。しかし、これが地名となったのは、いつごろか不明である。江戸時代末期、ここは藩士の家一軒、長屋三軒の他に水車小屋(車屋)があった。なお、この地を、水主屋敷とも呼んだ」

054-01-01_水主長屋
054-01-01_水主長屋
054-01-02_水主長屋
054-01-02_水主長屋

055 安斎小路(あんさいこうじ)2017/12/02撮影
「この地名は、地内に小田原北条氏の侍医田村安斎(栖)宅があったためといわれている。小田原北条氏四代の氏政と弟の氏照は、豊臣秀吉の小田原攻めに敗れた後、この家で自害させられたと伝えられている。」
現在、北条氏政、氏照の墓は小田原駅前のおしゃれ横丁内にありますが、切腹の場所はこのあたりだったようです。
なお余談ではありますが、この石碑のすぐ近くに「レロア」というパン屋さんがあります。お値段は少々張りますが、とても美味しいパン屋さんです。デニッシュやお菓子系のパンがたくさんおいてあり、甘党の方にはオススメです。海岸も近いので、ここでパンを買って海を眺めながら食べるのも良いかもしれません。

055-01-01_安斎小路
055-01-01_安斎小路
055-01-02_安斎小路
055-01-02_安斎小路

056 安斎町(あんさいちょう)2017/12/02撮影
「町名の由来は、町内に小田原北条氏の侍医田村安斎(栖)宅があったためといわれている。この町は、欄干橋町と筋違橋町との境を東海道から南へ折れ、安斎小路に至るまでの横町をいう。」

056-01-01_安斎町
056-01-01_安斎町
056-01-02_安斎町
056-01-02_安斎町

057 茶畑町(ちゃばたけちょう)2017/12/02撮影
「江戸時代前期の文書に初めて町名が見られるが、その由来は明らかではない。町内には郷宿(ごうやど-藩役所などへ出向く村人が泊まる宿屋)があり、海に近いこともあって、漁業・廻船業者なども住んでいた。」

057-01-01_茶畑町
057-01-01_茶畑町
057-01-02_茶畑町
057-01-02_茶畑町

058 町組(まちぐみ)2017/12/02撮影
「地名の由来は、町奉行配下の町方同心組の長屋があったためといわれる。この地は、江戸時代の始め蔵屋敷であったが、後に同心小屋や町同心長屋と呼ばれ、小田原城絵図の一つである「天保図」(一八三九)には、町組長屋の名が見られる」
今回の石碑めぐりで、一番わかりにくい場所がこの「町組」の石碑でした。車一台が通れるほどの通りから、さらに住宅街の中に入った袋小路にあります。正直、こんなところに石碑を建てても近辺の住人以外は絶対に見ることがないだろうという場所です。

058-01-01_町組
058-01-01_町組
058-01-02_町組
058-01-02_町組

059 南横町(みなみよこちょう)2017/12/02撮影
「南横町は、中宿町と本町との境を東海道から南へ延び、代官町の西端部を通る横町である。」

059-01-01_南横町
059-01-01_南横町
059-01-02_南横町
059-01-02_南横町

060 代官町(だいかんちょう)2017/12/02撮影
「小田原北条氏時代には代官小路と呼ばれていた。江戸時代、町内には魚座(魚商人の同業組合)商人が多く、魚座名主も住んでいた。」

060-01-01_代官町
060-01-01_代官町
060-01-02_代官町
060-01-02_代官町

061 千度小路(せんとこうじ)2017/12/02撮影
「小田原北条氏時代、この町は漁村であったため、船方村と呼ばれたといわれている。江戸時代においても上下の漁業、廻船業、魚商の拠点であった。なお、明治以降昭和四十三年までここに魚市場があった。」
代官町から千度小路のあたりは、古くから漁業関係者が多く住んでいたためか、現在も小田原名物のかまぼこ店が立ち並んでおり、「小田原かまぼこ通り」と呼ばれています。揚げたてさつま揚げのお店「すぎせい」がおすすめです。

061-01-01_千度小路
061-01-01_千度小路
061-01-02_千度小路
061-01-02_千度小路

062 市場横町(いちばよこちょう)2017/12/02撮影
「市場横町は、本町と宮前町と千度小路の境を抜けている横町である。この横町は、海に臨んでいるので魚座(魚商人の同業組合)の魚商が多く住み、その名のとおり魚市場が開かれていたところである。」

062-01-01_市場横町
062-01-01_市場横町
062-01-02_市場横町
062-01-02_市場横町

小田原 歴史的町名碑めぐり その三

小田原 歴史的町名碑めぐり その二の続きです。

これまでの小田原 歴史的町名碑めぐりは以下をご覧ください。
小田原 歴史的町名碑めぐり その一
小田原 歴史的町名碑めぐり その二

031 鍋弦小路(なべつるこうじ)2017/03/19撮影
「揚土(あげつち)道に接する小路で、その姿がコの字形で鍋の釣手に似ているため、この名がついたといわれている。江戸時代末期には、この小路の両側に二十軒ほどの藩士の家があった。」

031-01-01_鍋弦小路
031-01-01_鍋弦小路
031-01-02_鍋弦小路
031-01-02_鍋弦小路

032 入谷津(いりやつ)2017/03/19撮影
「現在、平地に近い東側のこの辺も、山地に近い西側と同じように入谷津と呼ばれる。しかし、稲葉氏が小田原城主でもあった江戸時代前期にはこの辺は谷津と呼ばれ、武家地であった。(貞享三年御引渡記録)稲葉氏時代末期、この地には藩士屋敷が十二軒ほどあった。江戸時代後期になってこの地域は、入谷津と呼ばれるようになったようである。」

032-01-01_入谷津
032-01-01_入谷津
032-01-02_入谷津
032-01-02_入谷津

033 八幡曲輪(はちまんくるわ)2017/03/19撮影
「この地は、古くは「裏大門」と呼ばれたところで「八幡曲輪」の地名は、武家屋敷地としての名である。東西に延びる坂道の両側には藩の中堅武士の屋敷があり、江戸時代を通じて五軒の住まいがあった。幕末にはこの地名は、単に「八幡山」とも呼ばれるようになった。」

033-01-01_八幡曲輪
033-01-01_八幡曲輪
033-01-02_八幡曲輪
033-01-02_八幡曲輪

034 八幡山(はちまんやま)2017/03/19撮影
「この地には、二つの八幡社があった。その一つは、北条氏が鎌倉八幡宮から勧請(かんじょう・神仏の分身を他に移す)したといわれ、江戸時代には、「元宮」または、「本丸八幡」と呼ばれた。他の一つは江戸時代初期、小田原城主大久保忠世が祀ったもので、「新御宮」または、「若宮八幡」とも呼ばれた。地名はこのように二つの八幡社にちなんだものである。」

034-01-01_八幡山
034-01-01_八幡山

035 鍛冶曲輪(かじくるわ)2017/03/19撮影
「鍛冶曲輪は丘陵地に位置し、小田原北条氏時代の小田原城の重要な曲輪(くるわ)であったと考えられる。この地は早くからこの地名があったが、江戸時代前期の寛文二年(一六六二)小田原城主稲葉正則に召抱えられた刀工藤原清平も移り住んだといわれ、「相州八幡山住藤原清平」の銘がある刀剣も残っている。」

035-01-01_鍛冶曲輪
035-01-01_鍛冶曲輪

036 御前曲輪(ごぜんくるわ)2017/03/19撮影
「この地は、今も底の広い窪地で、以前は土塁や空堀をもつ城郭遺構であった。この一角から中世の祭祀遺構と考えられる敷石遺構が発掘され、現在も保存されている。城郭でいう御前曲輪とは、一般例では城内で神仏をまつる場所である。なお、この曲輪には「人質曲輪」という別称もあった。」
現在の城山競技場一帯です。

036-01-01_御前曲輪
036-01-01_御前曲輪
036-01-02_御前曲輪
036-01-02_御前曲輪

037 毒榎平(どくえだいら)2017/03/19撮影
「この地の西端に残る巨大な土塁と空堀は、小田原城三の丸外郭の遺構で、小田原北条氏時代後期に築造されたものである。この遺構は豊臣秀吉の小田原攻めに備えた大外郭成立以前の小田原城の最西端に当たる重要な場所であった。毒榎は植物の油桐のことであるが、ここで栽培されたという記録は、残されていない。」
現在このあたりは城山公園となっており、戦没者慰霊碑があることから小田原市民からは「慰霊塔」と呼ばれています。小田原市屈指の桜の名所となっています。

037-01-01_毒榎平
037-01-01_毒榎平
037-01-02_毒榎平
037-01-02_毒榎平
037-01-03_毒榎平
037-01-03_毒榎平

038 御鐘ノ台(おかねのだい)2017/03/19撮影
「天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の小田原攻めに備え、小田原北条氏が小田原城大外郭を設けた時、この地は城域に取り入れっられた。小田原城の西端に当たり、中世の城郭遺構が最も良く残っているところである。地名の由来は、小田原攻めの時、この地に陣鐘が置かれていたためといわれている。」
小田原城惣構の西の果てがこのあたりで、小田原城惣構で最も高い場所で、標高は約110メートルあります。

038-01-01_御鐘ノ台
038-01-01_御鐘ノ台
038-01-02_御鐘ノ台
038-01-02_御鐘ノ台

039 鉄砲矢場(てっぽうやば)2017/03/19撮影
「この地は、小田原北条氏時代に造られた小田原城の三の丸空堀と惣構(そうがまえ)の空堀とに挟まれた東西に細長い地域で、両方の空堀が接する西端には「二重外張」(ふたえとばり)と呼ばれる虎口(こぐち・城の出入り口)があった。ここが矢場として利用されたかどうかは、明らかではない。」

039-01-01_鉄砲矢場
039-01-01_鉄砲矢場
039-01-02_鉄砲矢場
039-01-02_鉄砲矢場

040-01 御組長屋(おくみながや)2017/03/19撮影
040-02 御組長屋(おくみながや)2017/03/19撮影
「江戸時代前期、小田原城下の山王口、板橋口と井細田口の三つの出入口の沿道には、先手筒(先鋒の鉄砲隊)や先手弓(先鋒の弓組)などの組の者が住む御組長屋(新宿町組・山角町組・竹花組)が設けられていた。その中で地名となって残ったのは、ここ、山角町組だけである。」
近くには大久寺と居神神社があります。大久寺は小田原藩主大久保毛の菩提寺です。墓石は向かって右から、大久保忠常、忠隣、忠世、忠良、忠勝、忠俊、忠良の娘の順になっており、初代ただ夜の墓石は、小田原市の代表的な宝塔となっています。
居神神社には北条早雲が滅ぼした、三浦半島の新井城主であった三浦義意が祀られています。新井城落城後、義意の首はこの神社の松の梢に晒されましたが、三年間眼目せず通行人をにらんだとも、自刃後に三浦半島から海を超えて小田原まで飛来し、居神の森の古松にかぶりついたともいわれています。その後、小田原城下の僧が供養を試みましたが、成仏しなかったため、この社を建て居神神社として祀ったとされています。

040-01-01_御組長屋
040-01-01_御組長屋
040-01-02_御組長屋
040-01-02_御組長屋
040-01-03_御組長屋
040-01-03_御組長屋
040-01-04_御組長屋
040-01-04_御組長屋
040-02-01_御組長屋
040-02-01_御組長屋
040-02-02_御組長屋
040-02-02_御組長屋
040-02-03_御組長屋
040-02-03_御組長屋

041 大久寺小路(だいきゅうじこうじ)2017/03/19撮影
「この地名は、小田原城主大久保忠世が建立し。前期大久保家の菩提寺でもある大久寺の門前の小路があったためといわれている。」

041-01-01_大久寺小路
041-01-01_大久寺小路
041-01-02_大久寺小路
041-01-02_大久寺小路

042-01 山角町(やまかくちょう)2017/03/19撮影
042-02 山角町(やまかくちょう)2017/03/19撮影
「小田原北条氏の家臣山角定吉の屋敷があったので、この町名がついたといわれている。町内には小田原北条氏時代から畳職人、屋根職人の頭(かしら)などが住んでいた。東海道筋の西から御厩(おうまや)小路、天神小路(いずれも武家屋敷が並ぶ)が南へ伸びている。」

042-01-01_山角町
042-01-01_山角町
042-01-02_山角町
042-01-02_山角町
042-02-01_山角町
042-02-01_山角町
042-02-02_山角町
042-02-02_山角町

043-01 筋違橋町(すじちがいばしちょう)2017/03/19撮影
043-02 筋違橋町(すじちがいばしちょう)2017/03/19撮影
「橋の名が町名になっているが、橋についての資料は見当たらない。町内の東海道筋を西から、諸白小路、狩野殿小路、安斎小路(いずれも武家屋敷が並ぶ)が南へ伸びている。」

043-01-01_筋違橋町
043-01-01_筋違橋町
043-01-02_筋違橋町
043-01-02_筋違橋町
043-02-01_筋違橋町
043-02-01_筋違橋町
043-02-02_筋違橋町
043-02-02_筋違橋町

044-01 欄干橋町(らんかんばしちょう)2017/03/19撮影
044-02 欄干橋町(らんかんばしちょう)2017/03/19撮影
「この町から城内にかけられた橋の名前により、この名がついたといわれる。町内には小田原北条氏時代からの旧家外郎(ういろう)があり、江戸時代末期には本陣一、旅籠(はたご)が十軒ほどあった。」
近くには上記外郎家が営む「ういろう」本店があります。立派なお城風の建物で、お菓子の「ういろう」と透頂香(とうちんこう)と呼ばれる、昔からの薬を売っています。幕末の写真にも「ういろう」の店が写されており、白壁の瓦葺き、屋根には千鳥破風を設けた立派な建物が確認でき、昔からこういった感じのお店だったようです。

044-01-01_欄干橋町
044-01-01_欄干橋町
044-01-02_欄干橋町
044-01-02_欄干橋町
044-01-03_欄干橋町
044-01-03_欄干橋町
044-02-01_欄干橋町
044-02-01_欄干橋町
044-02-02_欄干橋町
044-02-02_欄干橋町

045 中宿町(なかしゅくちょう)2017/03/19撮影
「この町には上(かみ)の問屋場(人足や馬による輸送の取継ぎ所)が置かれ、高梨町の下(しも)問屋場と十日交代で勤めていた。町内には御用商人の小西家があり、江戸時代末期には脇本陣一、旅籠(はたが)が十一軒ほどあった。」
現在も近くに御用商人の小西家の薬局が残っています。

045-01-01_中宿町
045-01-01_中宿町
045-01-02_中宿町
045-01-02_中宿町
045-01-03_中宿町
045-01-03_中宿町

046-01 本町(ほんちょう)2017/03/19撮影
046-02 本町(ほんちょう)2017/03/19撮影
「小田原北条氏時代、この町は通小路(とおりこうじ)といわれていたが江戸時代前期にこの町を基準にして城下の町人町を左右に町割りしたとき本町と改められた。隣の宮前町とともに小田原宿の中心で江戸時代末期には本陣二、脇本陣二に旅籠(はたご)が二十六軒ほどあった。」

046-01-01_本町
046-01-01_本町
046-01-02_本町
046-01-02_本町
046-02-01_本町
046-02-01_本町
046-02-02_本町
046-02-02_本町

047 金箆小路(かなべらこうじ)2017/03/19撮影
「この小路は、ほぼ直線状で行き止まりとなっていて、その形が箆(へら)に似ているためこの名がついたといわれている。稲葉氏時代(一六三二~八五年)、この地に藩の御細工所があった。後期大久保氏時代(一六八六~一八七一年)には、藩士の家が八軒ほど建っていた。」

047-01-01_金箆小路
047-01-01_金箆小路
047-01-02_金箆小路
047-01-02_金箆小路

早川口二重外張発掘調査見学会

早川口二重外張は早川に面した(とは言っても早川までは結構な距離があります)小田原城惣構の虎口で、熱海方面に向かう街道(熱海道)に対応した城門でした。その名前の示すとおり、土塁と堀を二重に配した構造で、低地部で確認できる数少ない小田原城惣構の遺構です。
これまで小田原城惣構の低地部の遺構は、本格的な発掘調査が行われていませんでした。今回の早川口二重外張の発掘調査がその最初の例になるそうです。
現地発掘調査説明会が2017年12月2日(土)に開催されたので、その様子をお知らせします。

早川口二重外張全景

早川口二重外張全景その一
早川口二重外張全景その一
早川口二重外張全景その二
早川口二重外張全景その二

早川口二重外張はその名の示すとおり、土塁が二重になっています。この当たりは明治時代遺構に屋敷の庭園としてかなりの改変を受けていますが、外側の土塁と内側の土塁に挟まれた谷のような地形を確認することが出来ます。東側(内側)は標高10メートル程度、南側は標高8メートル以下で、早川に近づくにつれて標高が低くなっていきます。また土塁に沿って西から南へ小田原用水の分流が今でも流れています。

5トレンチ・7トレンチ

5トレンチ
5トレンチ
7トレンチ
7トレンチ

5トレンチでは現況地形が明治以降に大きく改変されているとがわかりました。特に興味深かったのは5トレンチで、ここでは近代に掘られた穴に大量の海砂が詰まっていました。これは1902年9月28日に発生した小田原大海嘯で陸に上がった海砂を捨てた跡ではないかとのことでした。こんなところに近代小田原の歴史の一旦が埋もれているとは驚きです。
7トレンチを始めとした内側土塁の側からは、江戸時代に水田として利用されていたと考えられる土の堆積が確認できました。水分を多く含んだ状態が続くと、土の中の酸素が減り、土が青緑色になるようです。街中で発掘調査をして、このような青緑色の地層が出た場合は大体が水田だとか。またひとつ勉強になりました。

6トレンチ

6トレンチその一
6トレンチその一
5・6トレンチ全景
5・6トレンチ全景
6トレンチその二
6トレンチその二

今回の見学会で最も見ごたえがあったのが、外側の土塁を試掘した6トレンチになります。このあたりは今でも土塁らしさをとどめており、その土塁の断面を確認することが出来ました。
驚いたことにここでは「土塁」と言いながら、その芯から大量の石材が使用されている状況が確認できました。石材と土で土塁の中心を造り、それを土で覆って土塁としているイメージです。小田原市史には海岸線(浜町)の惣構土塁において「石がまとまって出土したといわれている」という記述があり、今回確認できた遺構の状況と合致しており、低地部惣構土塁の構造上の特徴である可能性が高まりました。
低地部の土塁としては、惣構東側の蓮上院周辺にも残されていますが、もしかしたら蓮上院の土塁も掘り返してみると石が大量に出てくるかもしれません。あるいは、早川口は早川が近く川石の入手が容易なため、とりあえず資材として使ったという可能性もありますが。
しかし、土塁は芯まで土で埋まっているものというのが私の常識であったため、土の中から石が出てきたことには驚きました。

8トレンチ

8トレンチ
8トレンチ

8トレンチでは外側土塁の法面、二重の土塁の間隔が狭くなっている部分から砂利敷きが確認されました。砂利敷きについては、虎口内の通路ではないかと考えられますが、今後のさらなる調査が必要なようです。

お城EXPO 2017 レポート

2017年12月22(金)、23(土)、24(日)の三日間、二回目の大規模お城イベント「お城EXPO 2017」がパシフィコ横浜で開催されました。
主催者のお一人である東北新社様からのご案内もあり、招待状まで受け取りましたので今年も喜んで行ってきました。
昨年と同じで招待券のみでは私の主目的である厳選プログラムは見れないため、早々に別途ワンデイパスを三日分購入したため、結果的に招待券は使わずじまいとなりました。また、三日間ガッツリ楽しむ予定だったのですが、残念なことにちょうど風邪をひいてしまい、自重して長居せずに帰ってきました。
そんな状態でしたが、二日目と三日目の厳選プログラムは全て見ました。ここでは主に二日目の厳選プログラムで興味深かったものをご紹介します。
ちなみに、今回は私用フロアが増え、人口密度が減ったためか、昨年ほどの混雑ぶりは感じませんでした。特に、物販ゾーンはだいぶゆったりしており、昨年の混雑はなんだったのか…といった感じでした。

1 テーマ展示 – お城のジオラマ模型展
昨年も非常に楽しめたこのコーナー、今年も一見しただけではどこの城かわからないようなマニアックな城の模型が展示されていました。前回は現存十二天守が中心だった天守木製模型も、私の好きな望楼型天守が多く展示されていました。

お城のジオラマ-安土城 その一
お城のジオラマ-安土城 その一
お城のジオラマ-安土城 その二
お城のジオラマ-安土城 その二

お城のジオラマ-金沢城 その二
お城のジオラマ-金沢城 その二
お城のジオラマ-姫路城 その二
お城のジオラマ-姫路城 その二
お城のジオラマ-姫路城 その一
お城のジオラマ-姫路城 その一
お城のジオラマ-仙台城 その一
お城のジオラマ-仙台城 その一
お城のジオラマ-仙台城 その二
お城のジオラマ-仙台城 その二
お城のジオラマ-江戸城
お城のジオラマ-江戸城
お城のジオラマ-豊臣大坂城 その一
お城のジオラマ-豊臣大坂城 その一
お城のジオラマ-豊臣大坂城 その二
お城のジオラマ-豊臣大坂城 その二
お城のジオラマ-苗木城 その一
お城のジオラマ-苗木城 その一
お城のジオラマ-箕輪城
お城のジオラマ-箕輪城

お城のジオラマ-高天神城 その一
お城のジオラマ-高天神城 その一
お城のジオラマ-高天神城 その二
お城のジオラマ-高天神城 その二
お城のジオラマ-高松城天守
お城のジオラマ-高松城天守
お城のジオラマ-岡山城天守
お城のジオラマ-岡山城天守
お城のジオラマ-新発田城三階櫓
お城のジオラマ-新発田城三階櫓
お城のジオラマ-萩城天守
お城のジオラマ-萩城天守

2 厳選プログラム
今年も私のお目当てはこの厳選プログラムで、今回も城会の重鎮である小和田哲男先生や三浦正幸先生のお話を聞くことが出来ました。今回はいくつかの講演でレジュメが配布されたのも良かったです。
ちなみに今回も厳選プログラムの登壇者の先生方が、メインホールの前方隅のあたりの関係者席に座っていたようで、講演の合間には人が集まっていました。とくに千田嘉博先生の周りにはたくさんの人だかりができ、サインや写真撮影に快く応じている千田先生の姿が印象的でした。やはり千田先生はお話が上手です。わかりやすく、ときにはユーモアを交えた話しぶりはとても親しみやすく、非常に引き込まれる講演でした。
というわけでここではこの千田先生の講演をご紹介します。

2.1 厳選プログラム – 12/23(土) 江戸始図から見た江戸城 千田嘉博先生
昨年、松江で千田嘉博先生が再発見した江戸城の古図「江戸始図」から、徳川家康時代の江戸城についての最新調査結果が紹介されました。
これまでは「江戸図屏風」で見る、徳川家光時代の黒い巨大独立天守のイメージが強かった江戸城ですが、そのイメージが大きく変わりました。
また、江戸城へ至るまでの徳川家康の居城の様子から、家康への権力集中の過程が伺えるとのことで、非常に興味深かったです。

2.1.1 江戸城以前の家康の居城を他の天下人の城との比較
・信長の城(安土城)…家臣の屋敷が中枢部の周りに集約。城下町は城に隣接し密度が高い。
・秀吉の城(大坂城)…家臣の屋敷が中枢部の周りに集約。城下町は城に隣接し密度が高い。
・家康の城(岡崎城、浜松城)…家臣の屋敷は城からやや離れた所に点在。城下町は城からやや離れており、密度が低く点在している。
→信長や秀吉にくらべ家臣団に対しての力が弱いため、城下町の大規模改修きなかったことが伺える。

2.1.2 江戸城への入城
ほとんどなにもなかった江戸城への入城により、一から城と城下町を造る機会に恵まれた。これにより無理なく家臣の屋敷を中枢部の周りに集約し、城下町も自分好みに構築できた。
→築城により家康への権力集中を進めることができ、徳川家体制を一新できた。秀吉による家康の関東移封は、家康にとって結果的にプラスになった。

2.1.3 江戸初図はなぜ松江で見つかったのか
松江松平家は家康の三男、結城秀康の子、松平直政が藩祖であり、家康直系の子孫が藩主。よって家康ゆかりの品があっても不思議ではない。

2.1.4 江戸初図の優れているところ
これまで家康時代の江戸城の絵図として「慶長江戸図」があったが、あまり精密なものではなく完成度が低かった。しかし「江戸初図」はこの慶長江戸図でわからなかった部分が詳細に描かれていた。

2.1.5 江戸初図から読み取れたこと
・天守は大・小天守が連立した姫路城のような連立式天守であった。
・本丸の出入り口は五重の外枡形で、過剰なほどの防御体制であった。五重の外枡形は熊本城に見られる。
・天守北側には3連続馬出しがある。これは武田氏や北条氏が好んだ馬出しである。
・天守は家光時代の天守を上回る規模であった。
→江戸城は織豊系城郭と東日本の城郭の集大成であり、城の東西統一だった
→大阪の陣を前に、家康は城づくりで信長・秀吉を圧倒。西国大名は天下普請によりこれを実感した。

2.1.6 秀忠、家光はなぜ家康の江戸城をそのまま引き継がなかったか
・名古屋城を見ると城の役割の変化がわかる。名古屋城は2つめの小天守を大天守に面した堀の中に築く予定であった。堀の中に築くのは、政治拠点としての本丸の面積確保を優先したため。後にこの小天守計画自体が中止
→過剰防衛な戦いのための城から、政治拠点としての城への役割が変化。
→江戸城も同様で、五重の外枡形や連立式天守は、本丸の面積確保の邪魔であり、順次改造されていった。

小田原 歴史的町名碑めぐり その二

小田原 歴史的町名碑めぐり その一の続きです。
これまでの小田原 歴史的町名碑めぐり。

小田原 歴史的町名碑めぐり その一

016 竹花広小路(たけのはなひろこうじ)2017/02/26撮影
「地名の由来は、井細田口の木戸から府内に入る甲州道を少し上って裏組に分岐する地点までの小路で、特に道幅が広くなっていたから「竹花広小路」といわれていた。」
このあたりは国道255号線がクランク状になっており、これはかつての井細田口の名残です。付近には暗渠になっていますが、かつての惣構の堀の一部が残っています。

016-01-01_竹花広小路
016-01-01_竹花広小路
016-01-02_竹花広小路
016-01-02_竹花広小路

017-01 先町(さきちょう)2017/02/26撮影
017-02 先町(さきちょう)2017/02/26撮影

「地名の由来は竹花町の町境から竹花広小路にかけての甲州道の両側に、表組の先手筒(先鋒の鉄砲隊)と先手弓(先鋒の弓組)の御組長屋があったことにより、これらを総称して「先町」といった。」

017-01-01_先町
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017-01-02_先町
017-01-02_先町
017-02-01_先町
017-02-01_先町
017-02-02_先町
017-02-02_先町

018-01 竹花町(たけのはなちょう)2017/02/26撮影
018-02 竹花町(たけのはなちょう)2017/02/26撮影

「この町は、小田原北条氏時代からある北の城門であった井細田口の近く、江戸時代末期には郷宿(ごうやど・公用で藩役所などへ出向く村人が泊まる宿屋)や日用雑貨品などを売る店が多く、城下町の出入口らしい町並みであった。」

018-01-02_竹花町
018-01-02_竹花町
018-01-01_竹花町
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018-02-01_竹花町
018-02-01_竹花町
018-02-02_竹花町
018-02-02_竹花町

019 裏組(うらぐみ)2017/02/26撮影
「この地は、持筒(鉄砲隊)や持弓(弓隊)の人たちが住む組長屋であった。地名の由来は甲州道筋の御組長屋を「表組」と呼んだのに対し、これと対象的に「裏組」といった。なお、明治以降は、「浦町」と呼ばれるようになった。」

019-01-01_裏組
019-01-01_裏組
019-01-02_裏組
019-01-02_裏組

020 半幸町(はんこうちょう)2017/02/26撮影
「この地名は、「貞享三年御引渡記録」(一六六八年)に「竹花裏はんこ町」として見られる。江戸時代後期、この地には長沼流軍学者山下与太夫が住み、彼は四国から菱(ひし)の種子を取り寄せ、忍びの者の侵入を防ぐため小田原城の堀にこれを植えたとの伝承もある。」

020-01-01_半幸町
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020-01-02_半幸町
020-01-02_半幸町

021-01 須藤町(すとうちょう)2017/02/26撮影
021-02 須藤町(すとうちょう)2017/02/26撮影

「町名の由来は、小田原北条氏の総職人頭で、北条氏の領内の職人を統括する立場にあった須藤惣左衛門が住んでいたためといわれている。町並みには商家が多く、江戸時代を通じ有力な商人が住んでいた。」
このあたりには古くからのお店も多く、中でも寛文元年(1661)に創業した、茶製品と和紙を扱う「江嶋」は小田原屈指の老舗です。

021-01-01_須藤町
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021-01-02_須藤町
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021-02-02_須藤町
021-02-02_須藤町
021-02-01_須藤町
021-02-01_須藤町

022 錦織町(にしこりちょう)2017/02/26撮影
「この地内に「錦織明神」がまつられていたところから「錦織町」(東海道分間延絵図)といわれた。明治以降は、「錦織横町」と呼ばれ、現在の「錦通り」の那覇、この「錦織神社」や「錦織町」に由来する。」

022-01-01_錦織町
022-01-01_錦織町
022-01-02_錦織町
022-01-02_錦織町

023 愛宕下(あたごした)2017/02/26撮影
「この地の西側にあった小高い丘の上には、古くから摩利支天(まりしてん)が祀られ、この山を「愛宕山」と呼んだ。この丘の東側の地なので愛宕下と呼ばれ、江戸時代前期のの稲葉氏時代(一六三二~八五年)には田畑の中に武家屋敷が点在していた。しかし、江戸時代の後期になると、道路の両側に組長屋が造られ、武家地の性格が強まった。この道路を中心にして「愛宕通り」とも呼んだ。」

023-01-01_愛宕下
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023-01-02_愛宕下
023-01-02_愛宕下

024 新蔵(しんくら)2017/02/26撮影
「稲葉氏時代、小田原城主稲葉氏がこの地に新たに蔵屋敷を建てた。そこで、以前からあった小田原城三の丸弁財天曲輪の蔵を「本(元)蔵」と呼び、こちらを「新蔵」と呼ぶようになった。なお、この地を「新蔵屋敷」ともいい、幕末には八棟の蔵が並んでいた。」

024-01-01_新蔵
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024-01-02_新蔵
024-01-02_新蔵

025 揚土(あげつち)2017/02/26撮影
「地名の由来は、小田原城三の丸の空堀を造成した時の土や、そこに流入した土砂をこの地に揚げて埋め立てたためといわれている。ここは小田原城の城門の一つであった谷津口門に近く、小田原城を守る重要な地点でもあった。なお、揚土で植栽されたいた梅の実は、種子が小さく、果肉が厚いため「揚土の梅」と呼ばれ、食用に珍重したといわれる。」
現在の小田原駅が建っているのが揚土で、石碑も小田原駅ロータリーの中にあります。近くには小田原高校発祥の地の石碑もあります。

025-01-01_揚土
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025-01-02_揚土
025-01-02_揚土
025-01-03_揚土
025-01-03_揚土

026 高部屋(たかべや)2017/02/26撮影
「稲葉氏時代、ここに鷹匠(たかじょう)の屋敷が設けられていたため、この地は「鷹部屋」、「高部屋」などと呼ばれていた。しかし、江戸時代中期以降は、専ら侍屋敷となっていた。」
現在は、小田原駅東口周辺の小田原市街の繁華街がこのあたりになります。

026-01-01_高部屋
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026-01-02_高部屋
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027-01 上幸田(うわこうだ)2017/02/26撮影
027-02 上幸田(うわこうだ)2017/02/26撮影

「地名の由来は、小田原北条氏時代、北条氏の家臣幸田氏がこの地に居住していたからといわれている。この地は、小田原城内に入る門の一つ、幸田門から北へ走る道路の両側にあった長方形の侍町で、隣の下幸田とともに、幸田門を守る重要な位置にあった。」

027-01-01_上幸田
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027-01-02_上幸田
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027-02-01_上幸田
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027-02-02_上幸田
027-02-02_上幸田

028 下幸田(しもこうだ)2017/02/26撮影
「地名の由来は、小田原北条氏時代、北条氏の家臣幸田氏がこの地に居住していたからといわれている。この地は、小田原城内に入る門の一つ、幸田門近くにあり、隣の上幸田とともにこの門を守る侍町にふさわしいたたずまいであった。」

028-01-01_下幸田
028-01-01_下幸田
028-01-02_下幸田
028-01-02_下幸田

029 藪幸田(やぶこうだ)2017/02/26撮影
「この地名は、小田原北条氏時代、北条氏の家臣幸田氏が居住していたためといわれる。下幸田(しもこうだ)・上幸田(うわこうだ)の西方に位置し、幕末には藩士の住まいが約十六軒あった。」

029-01-01_藪幸田
029-01-01_藪幸田
029-01-02_藪幸田
029-01-02_藪幸田

030 日向屋敷(ひゅうがやしき)2017/02/26撮影
「地名の由来は、慶長十九年(一六一四)、小田原城主大久保忠隣が改易(かいえき)となった時、その夫人である「日向御前」が閉居した屋敷跡があったためといわれている。江戸時代末期には、約十四軒の藩士の住まいがあった。」

030-01-01_日向屋敷
030-01-01_日向屋敷
030-01-02_日向屋敷
030-01-02_日向屋敷

小田原 歴史的町名碑めぐり その一

生まれも育ちもずっと小田原の私ですが、物心がついたときには小田原の街中のあちこちに昔の地名を記した、この石碑が建っていました。これまでなんとなく眺めてきた石碑ですが、全部でどのくらいの数が有るのだろうと思っていました。最近、小田原市のサイトでこの石碑の場所を網羅した資料を見つけたので、街中めぐりも兼ねて全てを写真に収め、町並みを記録しようと思い立ちました。

市のサイトによると、昭和60年度から設置を初め、105カ所にあるようです。同じ町名で複数の石碑となっている場合もあり、町名の数はこれより少ないです。
石碑はかつての小田原城惣構の内側に点在しており、広範囲に広がっています。
小田原駅周辺に長年住んでいますが、実はまだ足を踏み入れたことのない場所が多いことに驚きながら、写真を撮っていきたいと思います。

なお、石碑の掲載順番は私が巡った順番となります。

001 大新馬場(おおしんばば)2017/02/11撮影
「地名の起りは、南隣の中新馬場と区別するため新たにこの名がついたと考えられる。江戸時代の藩主稲葉氏の「永代日記」の天和二年(一六八二)3月の記録に「竹花町に近く新馬場があり、足軽小屋を設けた」とあるのは、この大新馬場のことと思われる。」

001-01-01_大新馬場
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001-01-02_大新馬場
001-01-02_大新馬場

002 渋取(しぶとり)2017/02/11撮影
「古い時代の渋取は、花ノ木の北方の広い区域を示す地名であった。ところが、天正十八年(一五九〇)の豊臣秀吉の小田原攻めに備え、北条氏が小田原城惣構(そうがまえ)を築いたとき、渋取は惣構の内側と外側に分断された。この地域は内側の渋取で、江戸時代のはじめは町人地であったが、稲葉氏の時代に武家地に変えられ、その範囲も「渋取口」付近の極く限られた区域を指すようになった。」

002-01-02_渋取
002-01-02_渋取
002-01-01_渋取
002-01-01_渋取

003 中新馬場(なかしんばば)2017/02/11撮影
「地名の起こりは、古くはここが馬場に利用されていたためと考えられる。稲葉氏時代(一六三二~八五年)にはここに十二軒ほどの藩士屋敷があったが、幕末には大久保藩士の屋敷として約十六軒に増えている。」

003-01-01_中新馬場
003-01-01_中新馬場
003-01-02_中新馬場
003-01-02_中新馬場

004 七枚橋(しちまいばし)2017/02/11撮影
「抹香町から大新馬場に通ずる道路と護摩堂川とが交差するところに、七枚の切石を並べて作った石橋があり、「七枚橋」といわれていたという。後にこれが付近の地名となった。」

004-01-01_七枚橋
004-01-01_七枚橋
004-01-02_七枚橋
004-01-02_七枚橋

005 花ノ木(はなのき)2017/02/11撮影
「小田原北条氏時代の花ノ木は、主として蓮乗院の寺地であった。江戸時代にはその一部が武家地などに変わった。」

005-01-01_花ノ木
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005-01-02_花ノ木
005-01-02_花ノ木

006-01 新宿町(しんしくちょう)2017/02/11撮影
006-02 新宿町(しんしくちょう)2017/02/11撮影
「江戸時代前期、城の大手口変更によって東海道が北に付け替えられた時にできた新町。町は、藩主帰城の時の出迎場であったほか、郷宿(ごうやど-藩役所などへ出向く村人が泊まる宿屋)や茶店があり、小田原提灯(ちょうちん)づくりの家もあった。」

006-01-01_新宿町
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006-01-02_新宿町
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006-02-01_新宿町
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006-02-02_新宿町
006-02-02_新宿町

007-01 古新宿町(こしんしくちょう)2017/02/11撮影
007-02 古新宿町(こしんしくちょう)2017/02/11撮影
「この町は、もと新宿町と呼ばれていたが、江戸時代前期、東海道が町の北寄りにつけかえられたとき、新たな東海道沿いに町ができ、これを新宿町としたため、この町を古新宿町と改めた。千度小路とともに漁業の中心地であった。」

007-01-01_古新宿町
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007-01-02_古新宿町
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007-02-01_古新宿町
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007-02-02_古新宿町
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008 鍋町(なべちょう)2017/02/11撮影
「この町の規模は、はっきりしないが、古新宿町と新宿町の一部を含む小町だった。小田原北条氏時代から町には鍋などを作る鋳物師(いもじ)が多く住んでいたので、この名がついたといわれている。」
鍋町付近には、早川浄水跡の碑があります。
「昔、西方の板橋村で早川を分水して山門町を通り、旧東海道を疏通して鍋町の屋並に沿って東に流れ新宿から山王松原江戸口の連池に入った。」

008-01-01_鍋町
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008-01-02_鍋町
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008-01-03_鍋町
008-01-03_鍋町

009 十王町・抹香町(じゅうおうちょう・まっこうちょう)2017/02/11撮影
「十王町は、別にこの付近の武家地も含んで抹香町とも呼ばれた。地名の由来は、十王堂(閻魔堂・えんまどう)のほか近くに寺が多く、線香の煙がいつもたえなかったからと言われている。」

009-01-01_十王町・抹香町
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009-01-02_十王町・抹香町
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010 唐人町(とうじんちょう)2017/02/11撮影
「小田原北条氏時代、中国人が遭難して小田原に漂着し、その中の四十余人が許されてこの地に居住したので、「唐人村」と呼ばれていたことが、唐人町の名称と関係があるものと考えられている。唐人町の通りは、寛永年間(一六二四~四三年)、将軍家光の上洛に先立ち、小田原城大手門に至る御成道(おなりみち)として新設されたもので、その東端には土塁をともなった柵門(黒門)が設けられていた。」

010-01-01_唐人町
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010-01-02_唐人町
010-01-02_唐人町

011-01 万町(よろっちょう)2017/02/11撮影
011-02 万町(よろっちょう)2017/02/11撮影
「町名は古くから「よろっちょう」とよばれた。町内には、七里役所という紀州(和歌山)藩の飛脚継立書(ひきゃくつぎたてじょ)があった。江戸時代末期には、旅籠(はたご)が五軒あり、小田原提灯(ちょうちん)づくりの家もあった。」

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011-01-02_万町
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011-02-01_万町
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011-02-02_万町
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012 高梨町(たかなしちょう)2017/02/11撮影
「東海道から北へ向かう甲州道の起点に当たり、古くから商家、旅籠(はたご)が並んでいた。町の中央南寄りには下(しも)の問屋場(人足や馬による輸送の取継ぎ所)が置かれ、中宿町の上(かみ)の問屋場と十日交代で勤めていた。」

012-01-01_高梨町
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012-01-02_高梨町
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013-01 青物町(あおものちょう)2017/02/11撮影
013-02 青物町(あおものちょう)2017/02/11撮影
「小田原北条氏時代、町内に野菜の市(いち)が開かれていたのでこの名がついたといわれ、商人の多い町であった。東京の日本橋にあった青物町は、徳川家康のころ江戸の町づくりのため、この土地の人たちが移り住んだ町といわれる。」

013-01-01_青物町
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013-01-02_青物町
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013-02-01_青物町
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013-02-02_青物町
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014-01 宮前町(みやのまえちょう)2017/02/11撮影
014-02 宮前町(みやのまえちょう)2017/02/11撮影
「小田原北条氏時代には上町・下町に分かれていたと伝えられている。町の中央に城主専用の入口、浜手門口高札場(幕府の法令などを掲示する場所)があり、江戸時代末期、町内には本陣一、脇本陣二、旅籠(はたご)が二十三軒あって、本町とともに宿場町の中心であった。
宮前町には小田原宿に四軒あった本陣のうちの筆頭で、町年寄も勤めた清水金左衛門の本陣がありました。この本陣の敷地面積はおよそ二四〇坪で、大名や宮家などの宿泊に当てられました。明治天皇もここに五回ほど宿泊しており、それを記念した石碑が残されています。

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014-02-01_宮前町
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014-02-02_宮前町
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015-01 宮小路(みやこうじ)2017/02/11撮影
「町名の由来は、松原神社の門前にあたるためといわれている。この横町は、神社の門前から東へ伸び、青物町に至るまでの通りをいう。」
宮小路にある松原神社は、小田原北条氏時代から江戸時代に至るまで、小田原城主から崇敬され、小田原宿の総鎮守とされた神社です。創建の時期は不明ですが、かつては鶴の森明神、松原大明神と呼ばれてました。
ここには可愛らしい亀をかたどった石があります。これは小田原の海岸に現れた大亀に由来するもので、これを吉兆として氏康は松原神社に参詣し舞を奉納しました。翌年、日本三大夜戦のひとつ、河越夜戦で北条氏康は寡兵で敵を打ち破り、関東制覇に大きな一歩を踏み出しました。

015-01-01_宮小路
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015-01-03_宮小路
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お城EXPO 2017 開催します

昨年12月、クリスマスの真っ只中、みなとみらい21という絶好の立地で、全国のお城ファンが集まる記念すべき第一回お城EXPOが開催されました。
このお城EXPO、なかなか好評だったようで、今年も開催されることになりました。

昨年に引き続き、またしても株式会社東北新社様からの告知依頼が来ました。
このような粗末なサイトにお声がけ頂けるとは嬉しい限りです。今年も微力ながら告知に協力させていただきます。
というわけで…

お城EXPO 2017 開催決定!

開催日は12/22(金)、23(土)、24(日)の三日間で場所はパシフィコ横浜です。
プログラム内容は以下となります。

<テーマ展示>
・日本100名城&続日本100名城写真展
・厳選城絵図展
・城めぐり観光情報ゾーン
・エンタメステージ
・ワークショップ&セミナー
・お城のジオラマ模型展
・熊本城復興支援コーナー
・城下町 物販ブース
・お城EXPOフォトコンテスト
・イベントステージ
・お城シアター ほか

<厳選プログラム>
お城のスペシャリストたちが登壇する、ここでしか聞けない貴重な講演会、フォーラム、トークショー

またしても近場での開催ということで助かりました。
今年のお城EXPOでも私が楽しみにしているのは、お城会のセレブの方々が集まる厳選プログラムです。
登壇されるのは以下の方々を始めとした、お城ファンならばご存知であろう方々。

戦国時代といえばこの方 … 小和田哲男先生
数多くの天守復元を手がけ、私の愛読書「城の作り方図典」の著者 … 三浦正幸先生
後北条氏関係のディープな書籍を多数著作 … 黒田基樹先生
芸能界随一のお城通 … 春風亭昇太師匠
最近のお城番組で引っ張りだこ … 千田嘉博先生

厳選プログラム入場料とは別料金が必要ですが、相変わらずの豪華キャストなので十分な価値があると思います。
私としては全ての厳選プログラムを見たいのですが、そうするとテーマ展示をゆっくり見る時間が取れません。次回からは少し空き時間があると嬉しいですね。
今年は以下の厳選プログラムは絶対に見ようと思っています。
色々と面白いお話が聞けそうで、今から楽しみです。
22日は仕事ですが、私は22日は有給休暇をとって参加します!

22日(金) 13:30~14:30 「中世の続日本100名城について」中井均
22日(金) 17:00~18:00 「戦国の城の魅力と見どころ」小和田哲男
23日(土) 11:00~12:00 「三大名城について考える」春風亭昇太、萩原さちこ
23日(土) 12:30~13:30 「江戸始図から見た江戸城」千田嘉博
これは最近発見された徳川家康時代の江戸城の絵図にまつわる講演ですね。非常に興味があります。
23日(土) 14:30~16:00 「関ケ原合戦における豊臣家の位置」笠谷和比古、小和田哲男、小和田泰経
23日(土) 16:30~17:30 「天守の構造と意匠を見直す」三浦正幸
24日(日) 14:00~15:00 「城を攻める 城を守る」伊東潤、樋口隆晴
24日(日) 15:30~16:30 「北条氏の領国と城」諏訪間順、黒田基樹
(敬称略)

今年もお城ファンのクリスマスは「お城EXPO」で決まりのようです。
今年の様子もこのブログに掲載します。

城めぐりやその他のちょっとした事を適当に…