5月の大型連休に久々の九州へ行ってきました。目的はもちろん城めぐりです。まずは九州の入口、小倉城へ登城です。
数年前(もっと前かも…)に小倉まで足を運んだことはあったのですが、そのときは悪天候と体調不良で引き返した苦い思い出があります。ようやくリベンジ達成です。

5月の大型連休に久々の九州へ行ってきました。目的はもちろん城めぐりです。まずは九州の入口、小倉城へ登城です。
数年前(もっと前かも…)に小倉まで足を運んだことはあったのですが、そのときは悪天候と体調不良で引き返した苦い思い出があります。ようやくリベンジ達成です。
3月25日(日)から約一週間、まだ満開ではなかった小田原城の桜がどうなったのか、3月31日(土)も朝6時半に家を出発し、撮影に行ってきました。
私は仕事で藤沢まで通勤しているのですが、藤沢の桜はすでに散り始めていたので、小田原の桜が持っているか心配でしたが、杞憂だったようです。
一週間で見事に花が開き、満開、まさに花盛りでした。
今年は満開、休日、晴天が重なり、ここ数年で一番綺麗な桜を見ることが出来ました。お城の近くで「今年の桜は凄いねぇ」とご近所さんの井戸端会議を耳にしましたが、まさにそのとおり桜でした。これだけ見事な桜は一生に何回も見られるものではないと思うほどでした。
何年も小田原城で桜を撮影してきて、今頃になって気がついたのですが、隅櫓近くのこの当たりはソメイヨシノの他に濃いピンク色で小さい桜があるようです。花には詳しくないので種類はわかりませんが、ピンクのグラデーションが美しいです。
馬出門を入った馬屋曲輪にも桜があります。以前はここに桜はなかったような記憶があります。ここからは銅門、常盤木門、天守が一列に並ぶ姿を見ることが出来、そこに桜がくわわり絶景となってます。私のお気に入り桜ポイントになりました。
そして本丸の常盤木門を入ったところに小田原城の桜の標本木があることを今年になって知りました。今年はその木に「標本木」と張り紙がしてあったためです。3月25日(日)の時点では、この標本木とお堀端の桜ではだいぶ開花具合に差があり、標本木はかなり先行して花が開いていました。3月31日(土)にはどちらも満開でした。
天守の裏手、現在は遊園地になっている屏風岩と呼ばれる当たりの桜も見事です。ここからはピンク色の絨毯に浮かぶ天守を見ることが出来ます。
ちょっと寂れた遊園地と桜の組み合わせもなかなか良い雰囲気です。今年は遊園地のメリーカップが撤去され、残る乗り物は豆汽車とゴーカート、その他の電動遊具のみとなりましたが、昔はここに観覧車や飛行塔があったことを覚えています。
最後に小田原城の様々な場所で撮影した桜です。それぞれの撮影場所がわかったらかなりの小田原城マニアだと思います。
小田原 歴史的町名碑めぐり その五の続きです。
これで歴史的町名碑めぐりは終了です。
これまでの小田原 歴史的町名碑めぐりは以下をご覧ください。
小田原 歴史的町名碑めぐり その一
小田原 歴史的町名碑めぐり その二
小田原 歴史的町名碑めぐり その三
小田原 歴史的町名碑めぐり その四
小田原 歴史的町名碑めぐり その五
077 山上横町(やまがみよこちょう)2018/03/25撮影
「町名の由来は、小田原北条氏の家臣山上強右衛門の屋敷があったためといわれている。この横町は、一丁田町と台宿町の境を東西に延びる通りで、誓願町寄りをいう。」
078 誓願町(せいがんちょう)2018/03/25撮影
「町名の由来は、誓願寺の門前にあたるためといわれている。この小町は、一丁田町の東寄りの地域をいう。」
079-01 台宿町(だいじくちょう)2018/03/25撮影
079-02 台宿町(だいじくちょう)2018/03/25撮影
「この町は江戸時代からの商人町で、後には衣類を扱う店が多かった。町内の東には、山上横町という横町があり、林角(林学)小路がこの町と一丁田町との境を西に向っている。」
080-01 大工町(だいくちょう)2018/03/25撮影
080-02 大工町(だいくちょう)2018/03/25撮影
「小田原北条氏時代、この町は、大工(この時代、鋳物師や左官、鍛冶工などの諸職の職人頭を大工といった)が住む町であったために、大工町とよばれたと伝えられている。江戸時代からは大工だけではなく商人も住むようになった。」
081 本源寺前(ほんげんじまえ)2018/03/25撮影
「地名の由来は、小田原城主大久保忠朝が貞享三年(一六八六)に下総佐倉城(千葉県)から移封された時に移した内庵の一つであった「本源寺」にちなむものである。本源寺前は、「堀川通り」、「内川通り」などとも呼ばれていた。」
082 八反畑(はったんばた)2018/03/25撮影
「小田原北条氏時代、この地には「大雲軒」(市内板橋の興徳寺の前身)という寺があった。稲葉氏時代には藩の蔵屋敷や菜園、茶園などになった。後期大久保氏時代には藩士の屋敷が多く、本源寺の東横から裏手にかけては割屋敷があった。」
083 手代町(てだいちょう)2018/03/25撮影
「地名の由来は、この地内の北西の角に「手代」が住んでいたためといわれる。ここでいう「手代」は商家の者ではなく、奉行や代官の配下の藩士たちのことである。」
石碑の脇には笠守稲荷という巴御前にゆかりのある神社があります。神社の由来書きによると小田原市内栢山の善栄寺には巴御前の墓があるとのこと。調べたところ、善栄寺には巴御前ばかりではなくその夫である木曽義仲、北条氏康夫人、二宮尊徳とその一族の墓もあるそうです。北条氏康夫人や二宮尊徳は小田原にゆかりのある人物なので驚きませんが、まさか木曽義仲と巴御前の墓が小田原にあるとは知りませんでした。
歴史的町名碑めぐり終了
一年以上をかけてサボりサボりようやくすべての歴史的町名碑をめぐることができました。
整理したところ町名数は83、石碑の数は105でした。
小田原に30年以上住んでいながら、これまで一度も足を踏み入れたことがない場所もあり、あらためて小田原城とその城下町の広大さを実感できました。
そして、それぞれの場所にかつて意外なものがあったり、今まで知らなかった小田原のエピソードを知ることができました。何気ない街並みを記録することもでき、何年か後にこの写真を見て小田原の街並みの移り変わりを感じることができればなお良いかなと思っています。
今年も桜の季節がやってきました。
3月に入ってからも暑かったり、寒かったりとなかなか安定しない気候でしたが、ようやく安定して暖かくなってきました。
というわけで、毎年恒例の小田原城早朝桜見物に行ってきました。
開花宣言直後だったので、全体的には三分咲きといったところで満開まではまだまだでしたが、同じ小田原城址公園内でも場所によっては六分咲きくらいのところもあり、桜の環境に対する敏感さにあらためて驚かされました。
#3の写真のあたりは確か去年は桜の木がなかった場所だったので、最近植えられた桜だと思います。銅門、常盤木門、天守が一列に望める場所でお気に入りの場所です。
#4の写真の桜は本丸にある小田原城の桜標本木です。今年は木の幹に堂々と「標本木」の張り紙がしてありました。この木を基準にして開花宣言がされるようで、この木だけは六分咲から七分咲きといったところで、開花がかなり進んでいました。
3月25日の時点では、まだ満開ではありませんでしたが数日中に満開になりそうな様子でした。次に早朝桜見物ができるのは3月31日(土)なので、そのころにちょうど満開になっていることを期待しています。しかし、ここ数日はかなり気温が高いので満開は過ぎて散り始めているかもしれません…
まあ全部散っていることはないと思うので、31日にまた早朝桜見物に行って、写真を沢山撮ってきます。
テレビ東京で放送されている「池の水ぜんぶ抜く」のターゲットに小田原城のお堀が選ばれたそうです。水抜きをしての清掃と特定外来生物の駆除が主な目的で、おまけとして池の底から新発見があるかも…といった番組です。
私はこの番組を見たことはないのですが、なかなか面白いようで噂は聞いていましたが、まさか小田原城がターゲットになるとは思いませんでした。ちなみに小田原城の堀の水が抜かれるのは38年ぶりとのことです。
早速、水が抜かれた小田原城のお堀の様子を撮影してきました。
3月17日(土)にはすでに水抜きが始まっており、水位が50センチほど下がっていました。水面下の石垣は日焼けや汚れがなく綺麗な状態でした。このような様子は昔と比べて堀の水位が大幅に下がった大坂城でも見ることが出来ます。小田原城の堀の水はお世辞にも綺麗とは言えず、鯉やらアヒルやらが住んでいます。深さもそれほどではないですが、水抜きをしてはじめてその深さを実感することができました。
水位が下がったため石垣が少し高くなったように見え、ちょっと嬉しいです。
ちなみに、関東大震災前の小田原城の石垣は全体的に今よりかなり高かったのですが、震災後の復興時に低く積み直してしまいました。
今回の水抜きで堀底から何が出てくるのか楽しみでしたが、銅門が復元される前にかけられていた端の橋脚跡が現れました。この橋は現在の馬出門正面から銅門の場所に掛けられていたもので、工事用の仮設の橋だったと記憶しています。
翌3月18日にも水位がどのくらい変わっているかを確認しましたが、ほとんど水位は変わっていないようでした。
この日は隅櫓脇から馬出門の場所にかけられていた橋の橋脚跡を見ることが出来ました。この橋は確か「隅櫓橋」で、学び橋と同じ造りの赤い橋で、学橋と同様に近代になってかけられた橋でしたが、馬出門復元にあたり取り壊されたものです。
そして番組収録当日の3月21日(水)、本降りの雨に加え、3月とは思えない寒さの中、お堀の様子を見に行くと…
大混雑でした。
もともと番組の収録にはあまり興味がなく、混雑と寒さも想像以上だったため、水位の確認をして帰宅することにしました。
水位は3月17日に比べて若干下がったといったところでしょうか。堀の水を抜くということで、完全に干上がらせるのかと思っていたのですが、そうではないようです。
38年ぶりのお堀の水抜きということで、小田原城の珍しい姿を見ることができました。かつての小田原城のなごりである二つの橋脚跡を見ることができたのがなによりでした。
番組の放送は4月22日(日)ということなので、今から楽しみです。
小田原 歴史的町名碑めぐり その四の続きです。
これまでの小田原 歴史的町名碑めぐりは以下をご覧ください。
小田原 歴史的町名碑めぐり その一
小田原 歴史的町名碑めぐり その二
小田原 歴史的町名碑めぐり その三
小田原 歴史的町名碑めぐり その四
063-01 弁財天(べざいてん)2018/03/18撮影
063-02 弁財天(べざいてん)2018/03/18撮影
「江戸時代初期、この地を「弁財天曲輪」と呼んでいた。しかし、元禄十年(一六九七)に蓮池の南側にあった「評定曲輪」を「弁財天曲輪」と名称を変えたため、ここを単に「弁財天」と呼ぶようになった。幕末にはこの地に六・七軒ほどの中堅藩士屋敷があった。」
064 元蔵(もとぐら)2018/03/18撮影
「小田原城主が稲葉氏であった江戸時代前期、小田原城外の北方に新しく米蔵が建設され、これを「新蔵」と呼んだ。そのため以前から三の丸の弁財天曲輪にあった米蔵は「元蔵」と読んで区別したらしい。元蔵は江戸時代後期廃止され、五軒ほどの藩士屋敷に分割された。やがてその地名も「弁財天」に含まれるようになった。」
065 天守裏(てんしゅうら)2018/03/18撮影
「この地は、もと小田原城の天守台の裏手に直接続いていたのでこの地名がある。現代に入り東海道線の開削工事によって東西に分断された。ここは「八幡山古郭群」と呼ばれる小田原城創始期の城跡の残る地域に続き、小田原城の核心部として重要な地域であったことが知られる。」
066 小峰畑(こみねばた)2018/03/18撮影
「この盆地状の土地は、古くは城の要害として利用されたと考えられ、江戸時代には、この地の土砂を小田原城の低地部の改修用に運び出したという伝承もある。また、相模湾岸などの警備が重視される幕末のころ、ここには「小峰畑調練場」となり、小田原藩兵の軍事訓練が行われた。」
現在ここには小田原競輪場がありますが、競輪場の地形は盆地状になっています。幕末の小田原城絵図「文久図」を見るとやはりこの競輪場の場所が調練場だったようです。
067 小峰(こみね)2018/03/18撮影
「小峰と呼ばれていた地域はかなり広く、また時代によってその範囲が著しく伸縮したが、武家屋敷としての小峰はこのあたりを指し、江戸時代中期ごろには藩の重臣屋敷が並んでいた。」
068 天神山(てんじんやま)2018/03/18撮影
「地名の由来は、この地の南側中腹に天神社が祀られていたので、この名があると考えられる。この社には室町時代の天神画像が伝えられており、この地名の古いことがわかる。なお、天神山には社の背後に小田原北条氏時代の三の丸の空堀が東西に伸びていた。」
069-01 新道(しんみち)2018/03/18撮影
069-02 新道(しんみち)2018/03/18撮影
「この道は、小田原城三の丸堀沿いの道で、文化十四年(一八一七)小田原の大火のとき逃げ道がなくて多数の焼死者が出たことから新たに造られたので新道といった。西の出口は箱根口へ、東は宮前町高札場(こうさつば・幕府の法令などを掲示する場所)の北側に通じている。」
070 隅屋敷(すみやしき)2018/03/18撮影
「小田原城の二の丸と三の丸の堀に挟まれた場所は、江戸時代には藩の重臣たちの、長方形の区画の屋敷が並んでいた。しかし、南西角のこの地だけは、三の丸の堀が曲折するため方形にならず三角形の土地になり、屋敷地としては軽視された。そのため稲葉氏が城主の頃には細分して足軽の住む割屋敷とした。大久保氏時代の文政年間(一八一八~二九年)には五軒ほどの藩士の住まいがあった。」
071 御用所(ごようしょ)2018/03/18撮影
「地名の由来は、この地に藩の御用所があったのでこの名がついた。御用所とは、藩士の執務所で、始め(元禄の頃)箱根口門の東隣にあったが、その後(文政の頃)この地に移された。幕末には母屋(おもや)を囲んで敷地内に六棟の建物があった。」
現在ここはお堀端通りとなっており、小田原観光のメインストリートとなっています。石碑の目の前には小田原公共職業安定所があります。この建物もなかなか古い建物で、昭和レトロの趣があります。
072-01 大手前(おおてまえ)2018/03/18撮影
072-02 大手前(おおてまえ)2018/03/18撮影
「町名の由来は、ここが小田原城大手門に通じていたためといわれ、当時は重臣屋敷が並んでいた。大手前から東に走る道路は、甲州道と交差し、そこには柵門(大手先黒門)があり、その先は唐人町に通じていた。」
現在ここには箱根駅伝で有名な国道1号線、小田原のクランクがあり、突き当りには小田原市民会館が建っています。
073-01 一丁田町(いっちょうだちょう)2018/03/18撮影
073-02 一丁田町(いっちょうだちょう)2018/03/18撮影
「この町は、商人町の色が濃く、郷宿(ごうやど・公用で藩役所などへ出向く村人が泊まる宿屋)も数軒あった。町内の東北部に誓願町という小町があるが、この名は、誓願寺の門前にあったためといわれている。」
074 林学小路(りんがくこうじ)2018/03/18撮影
「林学小路は、小田原城三の丸堀端から一丁田町と台宿町の境とを東西に結ぶ小路をいう。この地名は、小田原北条氏時代からの住人であった渡辺利右衛門の号「林学」にちなんだものといわれている。」
075 林学横町(りんがくよこちょう)2018/03/18撮影
「この地名は、小田原北条氏時代からの住人であった渡辺利右衛門の号「林学」にちなんだものといわれている。林学横町は、大工町から林学小路まで南北に走る横町をいう。」
076-01 林学(りんがく)2018/03/18撮影
076-02 林学(りんがく)2018/03/18撮影
「この地名は、小田原北条氏時代からの住人であった渡辺利右衛門の号「林学」にちなんだものといわれている。なお、この地は「林角」や「林岳」とも表記された。」
小田原 歴史的町名碑めぐり その三の続きです。
これまでの小田原 歴史的町名碑めぐりは以下をご覧ください。
小田原 歴史的町名碑めぐり その一
小田原 歴史的町名碑めぐり その二
小田原 歴史的町名碑めぐり その三
048 御厩小路(おうまやこうじ)2017/12/02撮影
「御厩小路は、西海子小路がこの小路に交差する地点の西側に位置し、地名の由来は小田原藩の馬屋があったことによる。小田原城主稲葉正則がここに馬を見に来たという記録も残されている。この小路は、熱海街道の起点でもあった。」
049 御花畑(おはなばた)2017/12/02撮影
「この地には、もと小田原北条氏の家臣松田氏の屋敷があった。江戸時代、藩主稲葉氏は寛永十一年(一六三四)、京都に上る将軍徳川家光を御花畑の客室に迎えて宴を催したり参勤交代で通る大名の迎賓館として、また弓・水泳など自信の鍛錬の場として使った。その後、大久保氏の時代には武家屋敷となり、その末期には長屋や藩の御作事小屋も建てられた。」
050 天神小路(てんじんこうじ)2017/12/02撮影
「この地は、「貞享三年御引渡記録」(一六八六)に初めて御花畑小路の名で表れ、その後、天神小路と呼ばれた。地名は、東海道を隔てて北方にある天神社に由来する。道の両側は武家地で中級の藩士が住んでいた。なお、御花畑小路の名は、西海子小路から御花畑入口までの短い区間の呼び名として残った。」
051 諸白小路(もろはくこうじ)2017/12/02撮影
「この地名は、小田原城主稲葉正則の時代、この地に上方(かみがた)の杜氏(とうじ・酒造の職)を招いて諸白酒(もろはくしゅ・よく精白した蒸米と麹米で醸造した酒)を造らせたことから生まれたといわれている。道の両側は武家地で、中級の藩士が住んでいた。」
052 狩野殿小路(かのどのこうじ)2017/12/02撮影
「地名の由来については、この小路に絵師の「狩野古法眼」が住んでいたとも、また小田原北条氏の家臣、狩野氏宅があったとも、伝承されてきた。江戸時代、この一帯は、中級の藩士が住んでいた。なお、この地は、狩野小路(かのうこうじ)とも呼ばれ、金殿小路(かなどのこうじ)とも書かれた。」
053 西海子小路(さいかちこうじ)2017/12/02撮影
「さいかちの木が立っていたことからこの名が由来するという説がある。江戸時代末期に中級の家臣十八軒の武家屋敷が道の両側に並んでいた。」
このあたりは現在の小田原市南町の一帯で、小田原文学館などもある高級住宅街です。西海子小路の通りは、道の両側に桜の木がたくさん植えられており、春になると桜のトンネルができ、小田原でも有数の桜の名所となっています。
054 水主長屋(かこながや)2017/12/02撮影
「江戸時代、稲葉氏が藩主であったころ、この地に御船小屋と並んで水主長屋(加子長屋)があった。しかし、これが地名となったのは、いつごろか不明である。江戸時代末期、ここは藩士の家一軒、長屋三軒の他に水車小屋(車屋)があった。なお、この地を、水主屋敷とも呼んだ」
055 安斎小路(あんさいこうじ)2017/12/02撮影
「この地名は、地内に小田原北条氏の侍医田村安斎(栖)宅があったためといわれている。小田原北条氏四代の氏政と弟の氏照は、豊臣秀吉の小田原攻めに敗れた後、この家で自害させられたと伝えられている。」
現在、北条氏政、氏照の墓は小田原駅前のおしゃれ横丁内にありますが、切腹の場所はこのあたりだったようです。
なお余談ではありますが、この石碑のすぐ近くに「レロア」というパン屋さんがあります。お値段は少々張りますが、とても美味しいパン屋さんです。デニッシュやお菓子系のパンがたくさんおいてあり、甘党の方にはオススメです。海岸も近いので、ここでパンを買って海を眺めながら食べるのも良いかもしれません。
056 安斎町(あんさいちょう)2017/12/02撮影
「町名の由来は、町内に小田原北条氏の侍医田村安斎(栖)宅があったためといわれている。この町は、欄干橋町と筋違橋町との境を東海道から南へ折れ、安斎小路に至るまでの横町をいう。」
057 茶畑町(ちゃばたけちょう)2017/12/02撮影
「江戸時代前期の文書に初めて町名が見られるが、その由来は明らかではない。町内には郷宿(ごうやど-藩役所などへ出向く村人が泊まる宿屋)があり、海に近いこともあって、漁業・廻船業者なども住んでいた。」
058 町組(まちぐみ)2017/12/02撮影
「地名の由来は、町奉行配下の町方同心組の長屋があったためといわれる。この地は、江戸時代の始め蔵屋敷であったが、後に同心小屋や町同心長屋と呼ばれ、小田原城絵図の一つである「天保図」(一八三九)には、町組長屋の名が見られる」
今回の石碑めぐりで、一番わかりにくい場所がこの「町組」の石碑でした。車一台が通れるほどの通りから、さらに住宅街の中に入った袋小路にあります。正直、こんなところに石碑を建てても近辺の住人以外は絶対に見ることがないだろうという場所です。
059 南横町(みなみよこちょう)2017/12/02撮影
「南横町は、中宿町と本町との境を東海道から南へ延び、代官町の西端部を通る横町である。」
060 代官町(だいかんちょう)2017/12/02撮影
「小田原北条氏時代には代官小路と呼ばれていた。江戸時代、町内には魚座(魚商人の同業組合)商人が多く、魚座名主も住んでいた。」
061 千度小路(せんとこうじ)2017/12/02撮影
「小田原北条氏時代、この町は漁村であったため、船方村と呼ばれたといわれている。江戸時代においても上下の漁業、廻船業、魚商の拠点であった。なお、明治以降昭和四十三年までここに魚市場があった。」
代官町から千度小路のあたりは、古くから漁業関係者が多く住んでいたためか、現在も小田原名物のかまぼこ店が立ち並んでおり、「小田原かまぼこ通り」と呼ばれています。揚げたてさつま揚げのお店「すぎせい」がおすすめです。
062 市場横町(いちばよこちょう)2017/12/02撮影
「市場横町は、本町と宮前町と千度小路の境を抜けている横町である。この横町は、海に臨んでいるので魚座(魚商人の同業組合)の魚商が多く住み、その名のとおり魚市場が開かれていたところである。」
小田原 歴史的町名碑めぐり その二の続きです。
これまでの小田原 歴史的町名碑めぐりは以下をご覧ください。
小田原 歴史的町名碑めぐり その一
小田原 歴史的町名碑めぐり その二
031 鍋弦小路(なべつるこうじ)2017/03/19撮影
「揚土(あげつち)道に接する小路で、その姿がコの字形で鍋の釣手に似ているため、この名がついたといわれている。江戸時代末期には、この小路の両側に二十軒ほどの藩士の家があった。」
032 入谷津(いりやつ)2017/03/19撮影
「現在、平地に近い東側のこの辺も、山地に近い西側と同じように入谷津と呼ばれる。しかし、稲葉氏が小田原城主でもあった江戸時代前期にはこの辺は谷津と呼ばれ、武家地であった。(貞享三年御引渡記録)稲葉氏時代末期、この地には藩士屋敷が十二軒ほどあった。江戸時代後期になってこの地域は、入谷津と呼ばれるようになったようである。」
033 八幡曲輪(はちまんくるわ)2017/03/19撮影
「この地は、古くは「裏大門」と呼ばれたところで「八幡曲輪」の地名は、武家屋敷地としての名である。東西に延びる坂道の両側には藩の中堅武士の屋敷があり、江戸時代を通じて五軒の住まいがあった。幕末にはこの地名は、単に「八幡山」とも呼ばれるようになった。」
034 八幡山(はちまんやま)2017/03/19撮影
「この地には、二つの八幡社があった。その一つは、北条氏が鎌倉八幡宮から勧請(かんじょう・神仏の分身を他に移す)したといわれ、江戸時代には、「元宮」または、「本丸八幡」と呼ばれた。他の一つは江戸時代初期、小田原城主大久保忠世が祀ったもので、「新御宮」または、「若宮八幡」とも呼ばれた。地名はこのように二つの八幡社にちなんだものである。」
035 鍛冶曲輪(かじくるわ)2017/03/19撮影
「鍛冶曲輪は丘陵地に位置し、小田原北条氏時代の小田原城の重要な曲輪(くるわ)であったと考えられる。この地は早くからこの地名があったが、江戸時代前期の寛文二年(一六六二)小田原城主稲葉正則に召抱えられた刀工藤原清平も移り住んだといわれ、「相州八幡山住藤原清平」の銘がある刀剣も残っている。」
036 御前曲輪(ごぜんくるわ)2017/03/19撮影
「この地は、今も底の広い窪地で、以前は土塁や空堀をもつ城郭遺構であった。この一角から中世の祭祀遺構と考えられる敷石遺構が発掘され、現在も保存されている。城郭でいう御前曲輪とは、一般例では城内で神仏をまつる場所である。なお、この曲輪には「人質曲輪」という別称もあった。」
現在の城山競技場一帯です。
037 毒榎平(どくえだいら)2017/03/19撮影
「この地の西端に残る巨大な土塁と空堀は、小田原城三の丸外郭の遺構で、小田原北条氏時代後期に築造されたものである。この遺構は豊臣秀吉の小田原攻めに備えた大外郭成立以前の小田原城の最西端に当たる重要な場所であった。毒榎は植物の油桐のことであるが、ここで栽培されたという記録は、残されていない。」
現在このあたりは城山公園となっており、戦没者慰霊碑があることから小田原市民からは「慰霊塔」と呼ばれています。小田原市屈指の桜の名所となっています。
038 御鐘ノ台(おかねのだい)2017/03/19撮影
「天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の小田原攻めに備え、小田原北条氏が小田原城大外郭を設けた時、この地は城域に取り入れっられた。小田原城の西端に当たり、中世の城郭遺構が最も良く残っているところである。地名の由来は、小田原攻めの時、この地に陣鐘が置かれていたためといわれている。」
小田原城惣構の西の果てがこのあたりで、小田原城惣構で最も高い場所で、標高は約110メートルあります。
039 鉄砲矢場(てっぽうやば)2017/03/19撮影
「この地は、小田原北条氏時代に造られた小田原城の三の丸空堀と惣構(そうがまえ)の空堀とに挟まれた東西に細長い地域で、両方の空堀が接する西端には「二重外張」(ふたえとばり)と呼ばれる虎口(こぐち・城の出入り口)があった。ここが矢場として利用されたかどうかは、明らかではない。」
040-01 御組長屋(おくみながや)2017/03/19撮影
040-02 御組長屋(おくみながや)2017/03/19撮影
「江戸時代前期、小田原城下の山王口、板橋口と井細田口の三つの出入口の沿道には、先手筒(先鋒の鉄砲隊)や先手弓(先鋒の弓組)などの組の者が住む御組長屋(新宿町組・山角町組・竹花組)が設けられていた。その中で地名となって残ったのは、ここ、山角町組だけである。」
近くには大久寺と居神神社があります。大久寺は小田原藩主大久保毛の菩提寺です。墓石は向かって右から、大久保忠常、忠隣、忠世、忠良、忠勝、忠俊、忠良の娘の順になっており、初代ただ夜の墓石は、小田原市の代表的な宝塔となっています。
居神神社には北条早雲が滅ぼした、三浦半島の新井城主であった三浦義意が祀られています。新井城落城後、義意の首はこの神社の松の梢に晒されましたが、三年間眼目せず通行人をにらんだとも、自刃後に三浦半島から海を超えて小田原まで飛来し、居神の森の古松にかぶりついたともいわれています。その後、小田原城下の僧が供養を試みましたが、成仏しなかったため、この社を建て居神神社として祀ったとされています。
041 大久寺小路(だいきゅうじこうじ)2017/03/19撮影
「この地名は、小田原城主大久保忠世が建立し。前期大久保家の菩提寺でもある大久寺の門前の小路があったためといわれている。」
042-01 山角町(やまかくちょう)2017/03/19撮影
042-02 山角町(やまかくちょう)2017/03/19撮影
「小田原北条氏の家臣山角定吉の屋敷があったので、この町名がついたといわれている。町内には小田原北条氏時代から畳職人、屋根職人の頭(かしら)などが住んでいた。東海道筋の西から御厩(おうまや)小路、天神小路(いずれも武家屋敷が並ぶ)が南へ伸びている。」
043-01 筋違橋町(すじちがいばしちょう)2017/03/19撮影
043-02 筋違橋町(すじちがいばしちょう)2017/03/19撮影
「橋の名が町名になっているが、橋についての資料は見当たらない。町内の東海道筋を西から、諸白小路、狩野殿小路、安斎小路(いずれも武家屋敷が並ぶ)が南へ伸びている。」
044-01 欄干橋町(らんかんばしちょう)2017/03/19撮影
044-02 欄干橋町(らんかんばしちょう)2017/03/19撮影
「この町から城内にかけられた橋の名前により、この名がついたといわれる。町内には小田原北条氏時代からの旧家外郎(ういろう)があり、江戸時代末期には本陣一、旅籠(はたご)が十軒ほどあった。」
近くには上記外郎家が営む「ういろう」本店があります。立派なお城風の建物で、お菓子の「ういろう」と透頂香(とうちんこう)と呼ばれる、昔からの薬を売っています。幕末の写真にも「ういろう」の店が写されており、白壁の瓦葺き、屋根には千鳥破風を設けた立派な建物が確認でき、昔からこういった感じのお店だったようです。
045 中宿町(なかしゅくちょう)2017/03/19撮影
「この町には上(かみ)の問屋場(人足や馬による輸送の取継ぎ所)が置かれ、高梨町の下(しも)問屋場と十日交代で勤めていた。町内には御用商人の小西家があり、江戸時代末期には脇本陣一、旅籠(はたが)が十一軒ほどあった。」
現在も近くに御用商人の小西家の薬局が残っています。
046-01 本町(ほんちょう)2017/03/19撮影
046-02 本町(ほんちょう)2017/03/19撮影
「小田原北条氏時代、この町は通小路(とおりこうじ)といわれていたが江戸時代前期にこの町を基準にして城下の町人町を左右に町割りしたとき本町と改められた。隣の宮前町とともに小田原宿の中心で江戸時代末期には本陣二、脇本陣二に旅籠(はたご)が二十六軒ほどあった。」
047 金箆小路(かなべらこうじ)2017/03/19撮影
「この小路は、ほぼ直線状で行き止まりとなっていて、その形が箆(へら)に似ているためこの名がついたといわれている。稲葉氏時代(一六三二~八五年)、この地に藩の御細工所があった。後期大久保氏時代(一六八六~一八七一年)には、藩士の家が八軒ほど建っていた。」
早川口二重外張は早川に面した(とは言っても早川までは結構な距離があります)小田原城惣構の虎口で、熱海方面に向かう街道(熱海道)に対応した城門でした。その名前の示すとおり、土塁と堀を二重に配した構造で、低地部で確認できる数少ない小田原城惣構の遺構です。
これまで小田原城惣構の低地部の遺構は、本格的な発掘調査が行われていませんでした。今回の早川口二重外張の発掘調査がその最初の例になるそうです。
現地発掘調査説明会が2017年12月2日(土)に開催されたので、その様子をお知らせします。
早川口二重外張はその名の示すとおり、土塁が二重になっています。この当たりは明治時代遺構に屋敷の庭園としてかなりの改変を受けていますが、外側の土塁と内側の土塁に挟まれた谷のような地形を確認することが出来ます。東側(内側)は標高10メートル程度、南側は標高8メートル以下で、早川に近づくにつれて標高が低くなっていきます。また土塁に沿って西から南へ小田原用水の分流が今でも流れています。
5トレンチでは現況地形が明治以降に大きく改変されているとがわかりました。特に興味深かったのは5トレンチで、ここでは近代に掘られた穴に大量の海砂が詰まっていました。これは1902年9月28日に発生した小田原大海嘯で陸に上がった海砂を捨てた跡ではないかとのことでした。こんなところに近代小田原の歴史の一旦が埋もれているとは驚きです。
7トレンチを始めとした内側土塁の側からは、江戸時代に水田として利用されていたと考えられる土の堆積が確認できました。水分を多く含んだ状態が続くと、土の中の酸素が減り、土が青緑色になるようです。街中で発掘調査をして、このような青緑色の地層が出た場合は大体が水田だとか。またひとつ勉強になりました。
今回の見学会で最も見ごたえがあったのが、外側の土塁を試掘した6トレンチになります。このあたりは今でも土塁らしさをとどめており、その土塁の断面を確認することが出来ました。
驚いたことにここでは「土塁」と言いながら、その芯から大量の石材が使用されている状況が確認できました。石材と土で土塁の中心を造り、それを土で覆って土塁としているイメージです。小田原市史には海岸線(浜町)の惣構土塁において「石がまとまって出土したといわれている」という記述があり、今回確認できた遺構の状況と合致しており、低地部惣構土塁の構造上の特徴である可能性が高まりました。
低地部の土塁としては、惣構東側の蓮上院周辺にも残されていますが、もしかしたら蓮上院の土塁も掘り返してみると石が大量に出てくるかもしれません。あるいは、早川口は早川が近く川石の入手が容易なため、とりあえず資材として使ったという可能性もありますが。
しかし、土塁は芯まで土で埋まっているものというのが私の常識であったため、土の中から石が出てきたことには驚きました。
8トレンチでは外側土塁の法面、二重の土塁の間隔が狭くなっている部分から砂利敷きが確認されました。砂利敷きについては、虎口内の通路ではないかと考えられますが、今後のさらなる調査が必要なようです。
2017年12月22(金)、23(土)、24(日)の三日間、二回目の大規模お城イベント「お城EXPO 2017」がパシフィコ横浜で開催されました。
主催者のお一人である東北新社様からのご案内もあり、招待状まで受け取りましたので今年も喜んで行ってきました。
昨年と同じで招待券のみでは私の主目的である厳選プログラムは見れないため、早々に別途ワンデイパスを三日分購入したため、結果的に招待券は使わずじまいとなりました。また、三日間ガッツリ楽しむ予定だったのですが、残念なことにちょうど風邪をひいてしまい、自重して長居せずに帰ってきました。
そんな状態でしたが、二日目と三日目の厳選プログラムは全て見ました。ここでは主に二日目の厳選プログラムで興味深かったものをご紹介します。
ちなみに、今回は私用フロアが増え、人口密度が減ったためか、昨年ほどの混雑ぶりは感じませんでした。特に、物販ゾーンはだいぶゆったりしており、昨年の混雑はなんだったのか…といった感じでした。
1 テーマ展示 – お城のジオラマ模型展
昨年も非常に楽しめたこのコーナー、今年も一見しただけではどこの城かわからないようなマニアックな城の模型が展示されていました。前回は現存十二天守が中心だった天守木製模型も、私の好きな望楼型天守が多く展示されていました。
2 厳選プログラム
今年も私のお目当てはこの厳選プログラムで、今回も城会の重鎮である小和田哲男先生や三浦正幸先生のお話を聞くことが出来ました。今回はいくつかの講演でレジュメが配布されたのも良かったです。
ちなみに今回も厳選プログラムの登壇者の先生方が、メインホールの前方隅のあたりの関係者席に座っていたようで、講演の合間には人が集まっていました。とくに千田嘉博先生の周りにはたくさんの人だかりができ、サインや写真撮影に快く応じている千田先生の姿が印象的でした。やはり千田先生はお話が上手です。わかりやすく、ときにはユーモアを交えた話しぶりはとても親しみやすく、非常に引き込まれる講演でした。
というわけでここではこの千田先生の講演をご紹介します。
2.1 厳選プログラム – 12/23(土) 江戸始図から見た江戸城 千田嘉博先生
昨年、松江で千田嘉博先生が再発見した江戸城の古図「江戸始図」から、徳川家康時代の江戸城についての最新調査結果が紹介されました。
これまでは「江戸図屏風」で見る、徳川家光時代の黒い巨大独立天守のイメージが強かった江戸城ですが、そのイメージが大きく変わりました。
また、江戸城へ至るまでの徳川家康の居城の様子から、家康への権力集中の過程が伺えるとのことで、非常に興味深かったです。
2.1.1 江戸城以前の家康の居城を他の天下人の城との比較
・信長の城(安土城)…家臣の屋敷が中枢部の周りに集約。城下町は城に隣接し密度が高い。
・秀吉の城(大坂城)…家臣の屋敷が中枢部の周りに集約。城下町は城に隣接し密度が高い。
・家康の城(岡崎城、浜松城)…家臣の屋敷は城からやや離れた所に点在。城下町は城からやや離れており、密度が低く点在している。
→信長や秀吉にくらべ家臣団に対しての力が弱いため、城下町の大規模改修きなかったことが伺える。
2.1.2 江戸城への入城
ほとんどなにもなかった江戸城への入城により、一から城と城下町を造る機会に恵まれた。これにより無理なく家臣の屋敷を中枢部の周りに集約し、城下町も自分好みに構築できた。
→築城により家康への権力集中を進めることができ、徳川家体制を一新できた。秀吉による家康の関東移封は、家康にとって結果的にプラスになった。
2.1.3 江戸初図はなぜ松江で見つかったのか
松江松平家は家康の三男、結城秀康の子、松平直政が藩祖であり、家康直系の子孫が藩主。よって家康ゆかりの品があっても不思議ではない。
2.1.4 江戸初図の優れているところ
これまで家康時代の江戸城の絵図として「慶長江戸図」があったが、あまり精密なものではなく完成度が低かった。しかし「江戸初図」はこの慶長江戸図でわからなかった部分が詳細に描かれていた。
2.1.5 江戸初図から読み取れたこと
・天守は大・小天守が連立した姫路城のような連立式天守であった。
・本丸の出入り口は五重の外枡形で、過剰なほどの防御体制であった。五重の外枡形は熊本城に見られる。
・天守北側には3連続馬出しがある。これは武田氏や北条氏が好んだ馬出しである。
・天守は家光時代の天守を上回る規模であった。
→江戸城は織豊系城郭と東日本の城郭の集大成であり、城の東西統一だった
→大阪の陣を前に、家康は城づくりで信長・秀吉を圧倒。西国大名は天下普請によりこれを実感した。
2.1.6 秀忠、家光はなぜ家康の江戸城をそのまま引き継がなかったか
・名古屋城を見ると城の役割の変化がわかる。名古屋城は2つめの小天守を大天守に面した堀の中に築く予定であった。堀の中に築くのは、政治拠点としての本丸の面積確保を優先したため。後にこの小天守計画自体が中止
→過剰防衛な戦いのための城から、政治拠点としての城への役割が変化。
→江戸城も同様で、五重の外枡形や連立式天守は、本丸の面積確保の邪魔であり、順次改造されていった。