久々の中国地方の城攻めです。
山城サミットなどで話題の月山富田城に登城しました。
二本松城へ登城しました
白河小峰城に続いて二本松城へ登城しました。
中世城郭の面影を色濃く残す平山城です。
小田原城の桜【2019】4月6日、4月7日編
今年も桜の季節がやってきました。
というわけで、毎年恒例の小田原城早朝桜見物に行ってきました。今年は桜の満開と土休日、そして晴天が重なるという幸運に恵まれました。
今年は例年に比べ開花がだいぶ遅く、開花後も突然寒くなり満開まで少々時間がかかったように感じます。そのためか例年ならほとんど葉桜になっている4月9日時点でもまだ花が残っているようでした。
今年は夜桜ライトアップもパワーアップしており、本丸では様々な色のLEDでライトアップされた幻想的な姿を見ることができました。私の撮影技術は低いのでこれまで夜間撮影は避けていたのですが、素直に夜景モードで撮ればそれなりに撮れることがわかったので、これからは夜間撮影にもどんどん挑戦しようと思っています。
平成最後、時代の節目を記念するように咲き誇る桜は感慨深いものでした。
三浦正幸先生講演会「水戸城の昔日の姿 ~天守と城門と御殿の魅力」
さる3/9(土)、水戸市立博物館特別展「水戸城遥かなり」の関連行事として、広島大学名誉教授・三浦正幸先生の講演会が水戸市みと文化交流プラザで行われました。
三浦先生は日本古建築の専門家で日本の城の作事研究の大家です。
私の愛読書「城のつくり方図典」の著者であり憧れの大先生です。先着200名ということで、早々に申し込みを行い喜び勇んで聴講してきました。
備忘録も兼ねてその内容を簡単にまとめます。
テーマは「水戸城の昔日の姿 ~天守と城門と御殿の魅力」ということで、主に水戸城天守についての内容でした。
1. 水戸城全体の特徴
1.1 土造りの城で非常に広大
台地上にこれだけの平坦地を持つ城は日本でも珍しい。
2. 水戸城天守
2.1 公式には水戸城御三階
武家諸法度発布時に天守がなかった城は天守を持つことが許されなかった。しかし水戸城御三階は三重五階であり、その規模は伊予松山城天守や宇和島城天守に匹敵する。また、通常の櫓は城内側に窓を設けないが水戸城御三階は城内側にも窓を設けており、明らかに天守の造りである。事実水戸藩内では御三階ではなく天守と呼ぶように藩主から指示されていた。
2.2 基礎は石造りの布基礎
これは徳川家光築の寛永度江戸城天守と同じ。
2.3 一重目半分までは外壁が海鼠壁
海鼠壁は風雨避けのためであるが高価。(石垣の代わりとして海鼠壁を用いたというのがこれまでの定説)
2.4 一重目内部は三階建て
一重目内部は他の城に見られない三階建てとなっている。二階建ては小田原城などに見られるが三階建は水戸城天守のみ。
2.5 二階内部は中央に柱が一本のみ
二階内部は中央に牛請柱(うしこいばしら)と呼ばれる太い柱が立つのみで、巨大な牛梁(うしばり)を支えていた。日本の古建築でこのような広大な空間は例がない。日本随一の奇構。
2.6 三階は御殿造り
三階の窓はすべて連子窓で非常に明るい。身舎には長押を設け入側にも天井を貼る。外壁も真壁造りで格式が高い。類例がなく明らかに御殿を意識した造り。
2.7 二重目、三重目は大壁造り
大壁造りは防火・防弾性に優れる。他の城では格式を高めるために最上重は真壁造りとする例(姫路城など)はあるが水戸城ではこれが逆になっている。外部から見ることができる二重目、三重目は防御性を重視し、外部から見えない一重目は格式を高めている。合理的な造り。
2.8 四階、五階に外開きの土扉を設ける
外開きの土扉は土蔵の窓に使用されるのが一般的。類例がない。
2.9 屋根は銅瓦葺
銅瓦は高価。これも江戸城と同じ。
こられの特徴や格式の高さから水戸城御三階は櫓ではなく明らかに天守と呼ぶべきものである。また2.2、2.3、2.6、2.9の特徴から非常に豪華な造りであり、2.4、2.5、2.7、2.8の特徴から他城には見られない独特な技巧を凝らした建物であったことがわかる。
もし太平洋戦争で焼失していなければ日本古建築において非常に重要な建物であったことは確実。
3. 水戸城大手門
3.1 水戸城二の丸の大手を守る
慶長六年(1601)に佐竹氏が建造した大型の楼門で、平成31年9月の完成を目指して現在復元中。
3.2 非常に古式で格式重視の造り
二階に白木の長押・柱を見せるのは古式で格式が高い。二階の格子窓の窓台が低いのは関ヶ原の戦い以前の形式。類例は彦根城太鼓門や福山城伏見櫓。鏡柱は一木造りで極めて太く豪華。さらに大手門に続く大手橋には擬宝珠が設けられこれも格式が高い。江戸時代にはなかなか擬宝珠の使用は許されなかった。しかし門扉は横桟に縦板張りで防御力は低い。
4. 水戸城薬医門
4.1 水戸城に現存する唯一の建造物
現在は本丸に位置する県立水戸第一高校の正門として移築されている。
4.2 非常に古式
極めて太い鏡柱、内冠木が角材、垂木に強い反りこれらは16世紀末から17世紀前記の形式である。ただし幕末にほとんどの部材を取り替えているようで建造当時の部材はごく一部か。
4.3 城門には見えない造り
門扉の上を開放しており、板蟇股に装飾が施されている。城門であればこのような装飾は施さない。三浦先生いわく城門と伝えられていなければ間違いなく寺院用の門だと判定するとのこと。
水戸城大手門と薬医門の造りから佐竹家から水戸城を引き継いだ水戸徳川家の性格が伺える。佐竹氏の建物を受け継ぎ、古色=高格式であることを利用している。防御性よりも徳川家としての格式を重んじたか。
三浦先生いわくこの門は屋根が大きく木材も古いため、全体的に黒く写り、日本で一番写真を撮りにくい城門だそうです。私が撮った以下の写真もかなり露出を上げています。
最後に余談ですが「城のつくり方図典」に三浦先生のサインを頂きたく、係の方にお願いをしたところ公演終了後に控室に案内していただき、光栄にも三浦先生と直接お話することができました。10分ほどお話をさせていただき公演中の疑問を解消できました。三浦先生、本当にありがとうございました。
お城EXPO検定2018 解答
昨年末に行われたお城EXPO検定2018の解答が公式サイトに掲載されました。問題ページに正解を白文字で掲載しました。城郭検定過去問として役立てていただければ幸いです。
私の結果は79点でシルバー認定でした。81点以上でゴールド認定ということなのでちょっと悔しいですが、まずは満足です。また折を見て1級を受けようと思います。定期的に受けないとどんどん忘れていってしまいますので…
小田原城から新島が見えた?
摩利支天像を祀る部屋の見学に行った1月27日は冬晴れで非常に天気が良く雲ひとつ無い快晴でした。小田原城天守最上階からは江ノ島や伊豆大島、さらに利島まで見えました。小田原から利島までの直線距離は約80キロメートル、伊豆大島は頻繁に見ることができるのですが利島まで見えるのは天気が良いときだけです。数年前に小田原からはじめて利島を見たときはかなり驚きました。
今日は利島が見えるぞ~と思っていると、その特徴的な三角形の右側にもうひとつ島影を発見。最初は初島かと思いましたがそれにしては遠すぎる気がします。帰ってGoogleマップで確認した所、新島の可能性があります。小田原から新島までの距離は約100キロメートルあります。確信はありませんが小田原市国府津から新島、神津島が見えたとの情報を見つけました。そう考えると小田原城から新島が見えてもおかしくはありません。
小田原城天守の摩利支天像
小田原城天守には江戸時代から猪に乗った摩利支天像が祀られています。摩利支天像を祀った部屋には普段は入ることができませんが、今年は亥年ということで1月から2月初頭にかけて特別にこの部屋に入ることができ、正面間近から摩利支天像を見ることができました。摩利支天像を祀る部屋の謂われは以下を御覧ください。
小田原城天守模型等調査報告会
摩利支天は古代インドの陽炎を神格化した女神・マリーチのことです。陽炎のように身を隠せ、他人から傷つけられることなくあらゆる対処ができるという霊験のため、日本では武芸の神となり武士に熱く信仰されました。小田原城の摩利支天像は高さ40センチほどでしょうか、あまり大きくはありません。平成の大改修前は天守型厨子の中に収められ、ガラスケースの中に入って最上階のおみやげコーナーの前にありました。数年前の小田原城天守平成の大改修で摩利支天像を祀っていた天守最上階の部屋が復元され、摩利支天像が収められました。江戸時代の様子が再現されたわけです。
天守に神仏を祀ることは珍しくありませんが小田原城のように薬師如来、弁財天、地蔵菩薩、摩利支天、如意輪観音、大日如来、阿弥陀如来と七尊もの神仏を祀る例は珍しいと思います。祀られている神仏にも脈絡がありません。これら七尊は廃城時の小田原城天守取り壊し後、天守近くの城山にある永久寺に移され、昭和の天守復興時に天守型厨子とともに摩利支天像のみ天守に里帰りしました。古い記録には小田原城天守八尊という言葉が出てくるのですが現存するのは七尊ということで、あと一尊がなんだったのか気になります。
白河小峰城へ登城しました
久々に東北地方のお城に登城しました。
まずは東北の石垣造り三大名城のひとつ白河小峰城です。
小さいながらも気品のある三重櫓と様々な石積みを見ることができるお城です。
お城EXPO2018 厳選プログラムレポートその二
お城EXPO2018厳選プログラムのご紹介、その二です。
12月24日(月)15:30~16:30
「名古屋城の御殿・天守復元の秘密」
登壇者:
三浦正幸先生
現在の名古屋城天守の問題点は以下の通り。
・鉄筋コンクリート耐用年数問題
現在の天守は1959年(昭和34年)築の鉄骨鉄筋コンクリート構造。建築当時コンクリートは人工の石という認識で、半永久的に持つものと考えられていた。
しかしその後鉄筋コンクリートは劣化するものであり、耐用年数は50年から80年ということがわかった。(なお、古代ローマのコンクリート建築には鉄筋が一切入っていないため今も健在)
名古屋城天守は築60年ほどがたち老朽化が著しい。
また、日本各地の鉄筋コンクリート製天守はこのころ造られたものが多い。今後これらをどうしていくかが大きな課題となる。
・耐震強度問題
最近の耐震診断では名古屋城天守の耐震強度(Is値)は0.1程度と診断された。2016年の熊本地震で大破した熊本城天守はIs値は0.3程度であった。
仮に南海トラフ地震が発生した場合、現在の名古屋城天守は確実に大破ないし倒壊する。そのため現在名古屋城天守には入場できないよう措置がとられている。
・石垣への荷重問題
現在の名古屋城天守は石垣に荷重をかけないようケーソン(杭)を打ち込みその上に建てられており、天守台には一切乗っていない。しかし、石垣にはある程度の荷重がかかっていないと地震発生時に崩れてしまう。
熊本地震では石垣に荷重をかけないよう復元されていた櫓の櫓台石垣が崩れている。飯田丸五階櫓など端の石垣が崩れなかった櫓もあるが、これは端部分のみ櫓と接し荷重がかかっていたためである。
ではなぜ「木造」での復元を行うのか。
建物の強度自体は鉄筋コンクリート製のほうが木造の何倍も強い。しかし地震で建物を壊そうとする力は建物の重さに比例しており、鉄筋コンクリート製は木造の4倍から5倍の重さがある。
→地震に対して弱い。
また、石垣への荷重問題についても石垣に適切な加重をかけることで解決できる。
→そもそも木造天守が乗っていたのだから問題ない。現に濃尾地震で名古屋城天守は無事だった。
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御殿の秘密
御殿全体が木造復元されており、非常に意味のある復元。
徳川家康時代の御殿建築を忠実に再現。
二条城二の丸御殿は徳川家康以来のものだが、改築が繰り返されており創建当時の姿ではない。
二条城は長押の上に障壁画がある。←徳川家光時代以降の様式
名古屋城は長押の上は白壁のまま。←徳川家康時代の様式
御殿としての様々な部屋も忠実に復元している。
例:
・家光用の食事を置くための「上座部屋」がある。
・蒸し風呂としての湯殿がある。鎌倉時代以降蒸し風呂が標準。湯船につかるのは新式。
・複数の部屋を接続したL字状の広間がある。欄間で区切られた部屋はそれらの部屋をまとめて使用することを意味している。また、欄間に細かい彫刻がないものについては、上段の折り上げ天井を下段から見えるようにするためである。
お城EXPO2018 厳選プログラムレポートその一
昨年末に開催されたお城EXPO2018ですが、お城会の重鎮の方々を講師とした厳選プログラムが今年もありました。今年はいろいろと都合があり全てを聴講することはできませんでしたが、自分の備忘録もかねていくつかその内容をご紹介します。
12月23日(日)16:00~17:30
「信長の城 ~岐阜から安土へ~」
登壇者:
小和田哲男先生
中井均先生
加藤理文先生
内堀信雄先生
・信長の居城変遷
勝幡城(?)→那古屋城→清州城→小牧山城→岐阜城→安土城。岐阜城は信長により大規模な改築が行われている。小牧山城、安土城はまっさらな場所への新規築城。
・小牧山城の特徴
山頂部に信長のプライベートエリアがあった。
最近の調査で本丸の周りに巨石による石垣が見つかった。ただし高さは低い。
・岐阜城の特徴
山頂部に信長のプライベートエリアがあった。
宣教師ルイス・フロイスによると山頂部は「何人も信長による許可がなければ入れない」とのこと。
山下部には大規模な庭園があり、迎賓館的な御殿があったようで、これはパブリックエリアとなる。
→山頂のプライベートエリア、山下のパブリックエリアからなる二元構造
・安土城の特徴
山頂部に信長のプライベートエリアがあった。
伝黒鉄門より内側が狭義の安土城。
山下にパブリックエリアがあった…はず。伝羽柴秀吉屋敷や伝前田利家屋敷あたりが信長の公邸だったのではないか。伝秀吉屋敷は上下二段構造となっており、当時の秀吉の織田家中での位置づけに対して立派すぎる。そもそも当時ナンバー2の明智光秀や柴田勝家の屋敷地が存在していないのがおかしい。
また、安土城から庭園は見つかっていないが、文献にも庭園のことが記されており、岐阜城であったものがなくなったとは考えられない。百々橋口からの途上ルートのどこかにあったのではないか。だが、現在安土城は入れないところが多く思うように調査ができない。
→山頂のプライベートエリア、山下のパブリックエリアからなる二元構造
・これら3つの城の共通点と相違点
共通点としては山上のプライベートエリア、山下のパブリックエリアの存在が挙げられる。
では相違点は?
石垣技術とその上の建物の発展。
→小牧山ではかなりの巨石を低く積む。並べたという方が適切か。当時の信長の経済力、技術力の限界。尾張一国レベル。
→岐阜城では巨石と混在して、山上部に石垣が積まれるようになる。山下には大規模な庭園。
岐阜在城時に足利義昭を報じて上洛。近江周辺の技術者を取り込む。京都の文化の取り込み。しかし山上の天守台に近くには巨石が残されており、信長独自の「巨石信仰」らしきものを踏襲している。
→安土城では石垣はさらに大規模なものになり、総石垣となる。また、岐阜城と比較すると建物の発展が著しい。巨大な建物を天端いっぱいに乗せるため石垣技術も発展せざるを得ない。しかし、あまりにもその差が大きい。
安土城以前に秀吉の長浜城、光秀の坂本城に天守があった記録がある。この二名が勝手に天守を建てることはありえず、信長による命令のはず。信長は技術者集団を二人に貸し出し、織田政権の城として長浜城、坂本城を築城した。この2つの城は安土城に至るプロトタイプであり、信長はここで様々なノウハウを蓄積したのではないか。
信長は用意周到であり、城づくりにおいてもそれは同じだった。